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演劇における“伝わる・伝える”ということについて

猟奇的ピンク(劇団)の鶴山さんに誘われて、Twitterの“スペース“にて
いろいろな話をさせてもらった。
全部面白い話だったのだけれど、その中で
「演劇における“伝わる・伝える”ということについて」の話がでてきて
個人的に“ユリイカ!”となったことがあったので、備忘録がてら書いておこうと思う。
(以下の文章は話した“ママ“ではなく多分に私の解釈が含まれているので、そこのところはご了承いただきたい)

話の発端としては鶴山さんの次のような提起だった。
「下野さんはどれくらい伝わってほしいと思って作ってますか?
(全部伝わる前提で作ってるように僕には思えて)」

作品の意味性・内容を伝える伝えないの問題は古今東西よくあるし、
難しい話題だ。
例えば、かの平田オリザ氏は著書の『演劇入門』で次のように書いている。
少し長くなるが引用する。

「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ。」
繰り返すが、伝えるべきものがないというのは、伝えるべき主義主張や思想や価値観は、もはや何もないということだ。だが、伝えたいことなど何もなくても、私の内側には、とめどなく溢れ出る表現の欲求が、たしかにある。その欲求は、世界とは何か、人間とは何かという、私の内側にある混沌とした想いに、何らかの形を与えて外界に向けて示したいという衝動と言い換えてもいい。世界を描きたいのだ。

話をしていて、おおむね、鶴山さんは平田氏と同じようなことを言わんとしていたのだと思う。ただ、これに関しては私もそうだ、と常々思って作っている。自分の思想や主義主張を相手に提示したい・理解してほしい、ということではなく、ある人間がいる、そのことを表現したい、プラスであれマイナスであれ関心・興味を持ってほしい。そう思っている。

しかし、どこか違和感を感じる。
質問の趣旨はそう言う事ではないように感じる。
なにか噛み合っていない。それは何か・・?
私は次のように答えた。

「伝わるべき・伝えるべきと思っていることに関しては7~8割方の人に伝わるようにと思って(どうあがいたって、見逃してしまったり、別な意味で取る人は存在するので、それはしかたないと思って)作っていますが、全部そうというわけではなくて、それを踏まえたうえで意図的に、多様な解釈に取られても構わないと思って作る部分も勿論あります。(ついでに言えば、今回の作品においては、この“伝わるべき”と思ってた部分が思いのほか伝わらなくて、そのことが作品に影響した部分は大いにあると思ってます)


確かに作品全体としてみたとき
「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ。」
私もそう思う。しかし、微視的な視点で見てみたらどうだろう。
卑近な例をだすが、あるシーンにおいて、
「リンゴを食べている」と提示したいのに「梨を食べている」とお客さんに伝わってしまったら、それは問題ではないだろうか。
もう一つ言えば、
「この女性は哀しい、と感じている」とお客さんには理解してほしいのに「この女性は喜んでいる」と取られたら・・・
もちろんその表現が、
【何を食べているとしても、面白いと思ってもらえるように】
あるいは
【この女性の感情を想像することに面白さを感じられるように】
意図して演出するならば、それは問題ないのだろうが、
そのボタンの掛け違いによって作品全体が面白くなくなる、
というのであれば、それは大問題ではないだろうか。
上の例で言うなら、あるシーンで女性の哀しさが前提となって次のシーンが展開されているにも関わらず、その女性は喜んでいたと取られてしまったら、後のシーンで整合性を感じられず、「なんだこの作品は」と感じられる芝居になってしまうのではないだろうか。

過去の観劇経験で
「これは、〇〇として提示してるんだろうけど、そうだとしたら拙いなぁ」
とか「これは××なんだろうけど、そうは思えないんだよなぁ」
と感じてつまらない、と思ってしまったことは往々にしてある。
鶴山さん談でもあったように、“面白い・興味深い”、そうお客さんに感じてもらえれば、究極的には私も良いと思っている。
ただ、【ある部分が伝わらないと、作品として面白くなくなる】
ということは、演劇において少なからずあるのではないだろうか。

同じく話に参加していたシイナナ(劇団)の皆都さんが指摘していたように
【ある部分が伝わらないと、作品として面白くなくなる】度合いは
作品のプロットによっても変わるだろう。
大雑把に言って、主人公型か群像劇型か、でいえば、一人の人物の人生を追う主人公型のプロットの方が
【ある部分が伝わらないと、作品として面白くなくなる】
傾向は強いかもしれない。
(ただし、一つの意図の掛け違いが作品全体に響く、
ということは群像劇型も往々にしてある。)

個人的なまとめとしては・・・

どこまでを過不足なく伝えるべきなのかを見極め、
どこからを多元的な解釈に委ねるのか、
その構成を考え、お客さんに「面白い作品だ」と感じてもらえるようにすることが演出の一つの役目なのではないか

ということだ。
作品全体として、
「どう解釈してもらってもよい(面白いと感じてもらえる)」
はありうるが、
「どのシーン・演技においても、どう解釈してもらってよい」が成立するかと言えば、
それはどうか、と感じる。
(もちろん、それが限りなく少なくても成立する演劇は存在する。)
話の中で、“噛み合ってない”と感じたのは
この辺りがゴタマゼになっていたからではないだろうか。

しかし、改めて
演劇における“伝わる・伝える”ということについて明晰に考えることができたように思う。個人的には一旦落ち着いたけど、反論・異論もあるかもしれない。まだまだ試行は道半ばなのだろう。

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