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公演の振り返り⑤(脚本編)

公演終わってしばらくたって。
公演を見ていただいた、ある脚本・演出・役者の方に
「アルバムを“読む”って台詞がいいなと思って。普通“見る”なのに、“読む”なんだって。そこに脚本家の作家性みたいのを感じて」という趣旨のことを言われた。
それを聞いたとき、一瞬何を言われてるのか「?」となり、すぐに「確かに」と思い直した。アルバムは普通“見る”もんだな。
脚本見返すと確かに“読んだんだ”って書いてある。

実際、“アルバムを見る”という言葉に個人的に違和感がある。“アルバムを読む”の方が、今回の脚本に限らず、日常的にもしっくりきてしまっている自分がいる。
理性的には見るもんだとわかっているけれど、私の中ではアルバムは“読む”ものなんだな、と改めて思った。それは一義的にはアルバムに文字が書かれていてそれを“読む”ということなのだけれど、もう一方で私の中でアルバムは“読み解くもの”という意識があるのかもしれない。
古代の絵画とかは“読み解く”という表現がありうる。
共通しているのは過去との連続性の不確かさ、だ。
違和感のある言葉は適切に使うことができればそういった奥行を感じさせることができる。この部分に関しては完全に私の無意識的なやつだったが。

脚本に関しては、
・関西弁、標準語の使い分け
・一人称(私、僕)の使い分けによる叙述トリック
・冗長率の意識的な使い分け(平田オリザの著書準拠)
みたいなのはかなり意識的に書いたつもり。
言い回しの微妙な違いでいえば、
例えば「母・母さん」を対象(関係性)によって使い分ける、
とかやってたけど、どこまで効果を発揮してたのかは正直わからん。

脚本書くにあたっては
これまで読んできた脚本、見てきた芝居はもちろん参考にしたし
平田オリザの「演劇入門」や受けてきたワークショップ等の知識も
フル動員したつもり。
勉強はしてると思ってるけど
体系的な知識も実践もまだまだ乏しいと感じる。
両方、引き続き取り組んでいかなくては。

アーカイブ配信に関しては2月で終了となったけれど
上演台本のPDFデータは引き続き
https://fukyowa.stores.jp/
こちらにて500円で販売中。
気になった方は是非・・・!

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