人造乙女美術館

ラブドールの展覧会。同画廊は、この分野の最大手であるオリエント工業が制作したラブドールの展覧会を4回催してきたが、今回は美術史家の山下裕二を監修に迎え、日本画とラブドールのコラボレーションを実現させた。日本画家の池永康晟による《如雨露》に描かれた女性をモチーフにした作品をはじめ、7体のラブドールが展示された。

注目したのは、やはり立体造形の技術的な完成度。頭と首を接合するうなじに不必要な線が入っていたり、着物がいかにも安っぽかったり、いくつかの難点が見受けられたにせよ、それでも人体の忠実な再現性という点では、いまやラブドールの右に出る造形はないのではないか。そのことをもっとも実感するのが、肌の質感である。これまでの展覧会と同様に、すべてではないにせよ、来場者は展示されたラブドールを部分的に触ることができた。

その質感を正確に形容することは難しい。むろん人肌そのものとは言えないが、だからといって機械的な無機物というわけでもない。ただ、その独特の質感は、ラブドールを性的な愛玩具という機能を超越する何ものかにさせているように思えてならない。今日のラブドールは、ある種の立体造形として正当に評価されるべきではないか。

しかしラブドールへの偏見は根強い。同展で来場者に配布されたパンフレットに掲載されたオリエント工業の造形師やメイクアップアーティストへのインタビューには、ラブドールがそのような日陰者的な扱いを受けていたことが記されているし、何より彼らの顔写真で顔が伏せられていることからも、その穿った見方が依然として持続していることを如実に物語っている。

ただ立体造形としてのラブドールの評価を妨げているのは、社会的な視線だけではない。ラブドールの造形そのものの内側にも、その要因は折り畳まれている。たとえば、顔面や身体のプロポーションの面で、少なくともオリエント工業のラブドールには、ある一定の偏りがあることは否定できない。ロリータフェイスと豊満なボディの組み合わせは、ラブドールに求められる実用的な機能を満たすうえでの必要条件なのかもしれないが、これが定型的なイメージをもたらしていることもまた事実だ。顔の印象を大きく左右するメイクにしても、どういうわけかみな同じようなメイクに見える。ようするに、ラブラドールにはほとんど多様性が認められないのである。

人間の生活や身体と密着した造形。近代美術が見失ってしまった造形のありようを、ラブドールが実現していることは疑いない。その可能性を育むには、ラブドールの定型を打ち砕く、造形的な挑戦が必要ではなかろうか。

初出:「artscape」2016年6月1日号

人造乙女美術館
会期:2016年4月26日~2016年5月22日
会場:ヴァニラ画廊

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