熊本市現代美術館による外山恒一検閲事件について(前)
また、検閲事件が発生しました。ほとほとうんざりしますが、誰かが書いておかないと闇から闇に葬られかねないので、書いておきましょう。
舞台は熊本市現代美術館。2021年3月27日に企画展「段々降りてゆく 九州の地に根を張る7組の表現者」(6月13日まで。現在、臨時休館中)が開幕しましたが、出展者の中に革命家の外山恒一さんの名前はありませんでした。外山さんは同展に参加を請われていましたが、開幕前に美術館から一方的に参加を拒否されたからです。
現在のところ、同館から公式の説明が発表されていないため、事件の詳細な顛末はわかりません。ただ、検閲とは「公権力をもつ行政機関が国民による表現行為や思想の内容を強制的に検査し、その発表や公開を禁止すること」を意味するのですから、同館による出展拒否が検閲に該当することは明々白々です。1986年の「富山県立近代美術館事件」のように裁判闘争になれば、熊本市現代美術館が検閲を禁じた憲法第21条第2項に抵触したことが争点になることは間違いないでしょう。
しかし問題なのは、今回の事件が重大な検閲事件としてまったく知られていないという厳然たる事実です。それはいったいなぜなのでしょうか。
第一に、熊本市現代美術館が公式の声明を一切公表していないこと。つまり、同館は最初から「なかったこと」にしようとしている。公文書の廃棄や改ざんなどによる事実の隠蔽や責任の回避は、わたしたちがこの数年のうちにさんざん眼にしてきた、きわめて醜悪な政治的身ぶりですが、同館はそれとまったく同じ政治学を実践しています。公共性を勝手に私有化していると言ってもいい。しかし、人を呼んでおいて来るなと手のひらを返した道義的責任(ようするに仁義の問題)はもとより、わたしたち鑑賞者の「見る権利」を大きく阻害した以上、同館には事実の経緯と責任の所在を公表する義務があります。かりに検閲に当たらないと主張するのであれば、いったいどんな論理なのか。同館の公式見解が待たれます。
第二に、ジャーナリズムがまったく機能していないこと。2021年の6月初旬現在、今回の検閲事件について報じた新聞紙や雑誌などは、わたしが確認したかぎり、ほぼありません*1。とうぜんジャーナリズムが報じないのですから、検閲に敏感であるはずの「美術評論家連盟」なる組織も、今回の検閲事件については端的に無知なのでしょう。一切、声明などは発表していません。でも、なぜなのでしょうか。美術ジャーナリズムが風前の灯であることは周知の事実であるとはいえ、なぜこれほどまで黙殺されているのか。
ひとつには、美術ジャーナリズムがわたしたちの思っている以上に仕事をしていないという恐るべき事実。『美術手帖』であれ『芸術新潮』であれ、ただ情報をお手軽に紹介するばかりで、地道な調査報道など望むべくもありません。「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」が検閲されたとき、わたしは芸術監督だった津田大介さんにインタビューする機会を得ましたが、いちばん驚いたのは津田さんが肝心なところでコメントを控えたことよりも、核心を突く調査報道をするジャーナリストが誰一人いなかったという事実です。「表現の不自由展・その後」を一時的に閉鎖した理由として、いわゆる「電凸」による甚大な被害が挙げられましたが、であればジャーナリストの焦点は職員たちの心神耗弱がどの程度であったのかを調べて、その被害を確認することにあったはずです。裏を取ることはジャーナリズムのもっとも基本的な身ぶりであるのに、誰もそれをしなかったという事実はきわめて深刻です。
もうひとつ、外山さん自身が美術家として認識されていないし、本人も芸術家として認識されることを嫌っているという点が大きいのかもしれません。本人の肩書は「革命家」。もちろん美術史を振り返れば革命家と美術家は分かちがたく密着していたことは公然の事実なのですから、革命家であることが美術家でないことの理由にはなりません。けれども、少なくとも美術館が美術の現場を支配するようになった1970年代以後、政治を必要以上に忌避する傾向が強まったことは疑いようのない事実です。近年に発生した検閲事件や自主規制の問題も、大きくは美術から政治を切り離す文脈の中に位置づけられます。同館が外山さんの何を問題視したのか、まったくわかりませんが、選挙制度を否定したり、ファシストであることを公言したりしている、ある種の目立ちやすい政治的な身ぶりが美術館から毛嫌いされ、結果的に生じうるさまざまな混乱の責任を美術館側があらかじめ回避しようとしたことは十分に想像できます。
美術館だけではありません。美術家の中にも、外山さんのような政治活動家を排除する傾向がなかったとは言い切れないように思います。なぜなら、今回の検閲事件について、「あいちトリエンナーレ2019」のように、出展者であるアーティストたちが抗議のために展示を取りやめるという事態は発生しなかったからです。外山さんと同じく、美術家の白川昌生さんは群馬県立近代美術館の「群馬の美術2017」に参加した際、会期直前になって出品が取り消されましたが、展示作品を改変した白川さんに続き、一部の出品作家も作品の展示の仕方を改めました。抗議の意思を作品の展示によって表現したわけです。ところが、今回の検閲事件ではそうした連帯する動きは見られませんでした。もしかしたら、政治活動を忌避するというより、表現の質が低いと判断されたのかもしれませんが、ろくでなし子さんの「わいせつ裁判」で改めて確認したように、表現の質が低いからといって検閲を許す理由にはまったくなりません。表現の質が高かろうが低かろうが、検閲は一切容認されてはならないのです。
唯一、大きな希望だったのは、「段々降りてゆく」展の出展者であるアーティストの加藤笑平さんが、同展会期中の5月16日に外山恒一さんを招いたトークを自主的に企画したことです。会場は熊本市現代美術館のすぐそば。わたしも外山さんの対談相手として東京から自費で参加しました。立ち見が出るほどの盛況でした。ここでその内容を繰り返すことはしませんが、外山さんの発言や表現がこれだけ高い関心を集めていることを思うと、同展に外山さんがいないことが残念でなりませんでした。美術館とは、とくに現代美術の美術館とは、同時代の表現を紹介する文化施設なのだから、同時代を体現している外山恒一を同館が展示しなかったのは、致命的な失敗というほかありません。熊本市現代美術館は歴史的な汚点を残してしまったことを、外山さんとのトークによって改めて痛感しました。
というのも、外山恒一は「革命家」ではあるけれども、同時に、やはり「芸術家」なのだということを、まざまざと実感したからです。だからこそ本展の企画者である佐々木玄太郎学芸員は外山さんに参加を請うたのでしょうが、佐々木さんが本展の図録でその点について言及するかどうか知らないけれども、わたしは芸術家としての外山恒一について書いておく必要があると思いました。そうすれば、熊本市現代美術館の検閲がどれほど愚劣な行為だったかということが、一般的な読者はおろか、検閲の当事者にも理解できるにちがいないからです。
[この稿続く]
*1 西日本新聞の藤原賢吾は、外山恒一とわたしのトークをまとめた記事の中で、熊本市現代美術館と明記してはいないにせよ、一方的に展示不可とされた件について言及している(「西日本新聞」2021年6月1日朝刊12面)。
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