動物と人間、生物と自然 「宮崎学 自然の鉛筆」展
世界を切り分けて見るのか、それともつなぎ合わせて見るのか。美術にしろ写真にしろ批評にしろ、芸術をめぐるあらゆる営みには分節と節合という二面性がある。それらは基本的な身ぶりとして分ちがたく結び付けられているが、宮崎学はおそらく後者に重心を置いているのではないか。
事実、宮崎の動物写真を見ると、動物と人間の境界がそれほど明確なものとは思えない。羽を大きく広げたフクロウは大見得を切る歌舞伎役者のようだし、両脚で立ってカメラに悪戯するクマはまるで大柄なカメラマンのようだ。クマの眼がこれほど表情豊かなものだったことを教えてくれたのも宮崎の写真だった。眼といえば、墓地のお供え物をかすめ取るサルの眼は明らかに墓碑を見上げているが、やましい心を仏様に悟られることを怖れるかのような姿は誰もが身に覚えがあるにちがいない。
むろん、動物を擬人化する視線は、鳥獣戯画からディズニー・アニメまで、人間文化にとっての通時的かつ共時的な特性である。宮崎の動物写真もそれを内蔵していないわけではないが、それだけに限定されているわけでもない。クマやサルなど野生動物が擬人化されて親しみやすく見える反面、イヌやネコなど人間にとって身近な動物がやけに野生的に見えるのは、宮崎の視線が動物の擬人化にとどまらず、その先にも到達していることを如実に物語っているからだ。
里山の山道を定点観測した写真に写し出されているのは、ヒキガエルやカマドウマから野ウサギ、野ネズミ、ニホンザル、ニホンカモシカ、さらに百姓や郵便配達のヒト。同じ道を、大きさも生態も異なる生物たちが行き交っている。けもの道であろうと作業道であろうと、道が無数の生物による歩行から生まれることを実感できるほどだ。宮崎の視線は、擬人化によって動物を人間の立場に引き寄せる水準を超えて、動物と人間を生物という同一の地平でとらえているのである。
なかでも、もっとも象徴的だったのが、宮崎が野外撮影のために改良したカメラだ。既製品では必要を満たさないため、日用品を組み合わせて新たな機能を開発する柔軟な発想と巧みな手わざがすばらしい。だが、翻って宮崎の写真を見なおしてみると、それらは、たとえば営巣のためにブラジャーを拾い集める鳥の行動と、大きく重なり合っていることに気づく。ありあわせものでなんとかするブリコラージュという点でも、動物と人間は通じていたのだ。
多くの優れた写真がそうであるように、宮崎の写真もまた肉眼ではとらえにくい世界を可視化している。ただ、その視角が動物と人間の関係から生物と自然の関係まで収めるほど幅広いところに、宮崎写真の醍醐味がある。ニホンカモシカの亡骸を定点観測した写真は、季節の移ろいとともに、肉体が自然に還元されていく過程を克明に写し出す。まずウジ虫がわき、他の動物に毛をむしられ肉を喰われ、雨に打たれて骨が崩され、やがてゆっくりと土に溶け込んでゆく。頭蓋骨が最期まで原形をとどめているからだろうか、文字どおり大地と一体化したように見えるのだ。宮崎のまなざしは、生と死を分節するのではなく、それらを節合しているのである。
初出:「美術手帖」2013年4月号
宮崎学 自然の鉛筆
会期:2013年1月13日〜4月14日
会場:IZU PHOTO MUSEUM