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加速するアナクロニズム──2021年日本現代美術回顧

「警察じゃけぇ、なにをしてもええんじゃ」。映画「孤狼の血」(白石和彌監督、2018年)で役所広司が演じた大上の名台詞である。その続編「孤狼の血level.2」(同監督、2021年)で大上の跡を継いだ、松坂桃李による日岡も「全員ブタ箱叩き込んじゃる!」と啖呵を切るが、大上の恐るべき脅し文句に比べると、いかにも弱い。この迫力の差は、役者の演技や体格というより、物語の時代設定に由来していたように思われる。前者の物語が昭和63年だったのにたいし、後者のそれはそれから3年後。つまり、前者の舞台は最後の昭和であり、後者のそれは平成のとば口だった。

重厚な昭和と軽薄な平成──。むろんこうした単純な図式は、かつて「昭和軽薄体」というフレーズがあったように、相対的なものでしかない。だが令和の今となっては、昭和の重さがやけに輝いて見える反面、平成の軽さが忌々しく思えてならないのは、偽らざる実感である。平成の渦中においては、昭和がノスタルジックに回顧されることはあっても、昭和の重さをもって平成の軽さを批判することは必ずしも多くなかった。けれども平成が終わり、白石和彌が鮮やかに示したように、昭和と平成が対比的な歴史として対象化されたとき、わたしたちは不覚にも痛感することになったのである。平成とは、かくも軽佻浮薄な時代だったのかと。

美術評論家の椹木野衣が企画した「平成美術:うたかたと瓦礫デブリ1989-2019」(京都市京セラ美術館)でも、同じことを印象づけられた。椹木によって「平成美術」として括られた作品の大半は、端的に薄く、軽く、弱い表現ばかりだったからだ。本展の参加作家は基本的にユニットやグループで統一されていたが、平成期にアーティスト・コレクティヴが台頭したことは事実だとしても、ほとんどの場合、それらは強固で自律的な集団的主体性を構築するほど成熟しなかったし、だからといって各々の個性をそれぞれ豊かに表現したわけでもなく、コレクティヴに組み込まれることで、かえって集団に埋没するほかない個の脆弱さを露呈した。同じ傾向は令和の現在になっても続いている。アーティストを自称する者の大半は、なぜか群れることには熱心だが、山中を闊歩する孤高の狼になる勇気も実力もなく、であるからして文字どおり名もない一介のデブリでしかない。むろん、そのような薄弱さは平成という軽薄な時代の正確な照応であると考えられなくもない。だが、批評にとって重要なのは時代の客観的な反映などではなく、あくまでも主観的な価値判断である。だとすれば、退屈な時代にふさわしい退屈な作品を肯定的に評価する美術批評など断じてあってはならない。退屈な時代と退屈な作品をもろとも両断することにこそ、批評の存在理由があるからだ。したがって、本展で紹介された陰影も明暗も欠落させた平板な平成美術に、わたしは芸術的な価値も歴史的な価値も一切認めないが、だからといって例外がないわけではない。それは、薄っぺらい平成美術の中に深く焼きつけられた昭和美術の残像である。

稲村米治による「昆虫千手観音像」(1975年)は、近年、アウトサイダー・キュレーターの櫛野展正によって大々的に紹介されたという点で平成美術に組み込まれていたが、この作品が制作されたのは紛れもなく昭和であるから、本来、この傑作は昭和美術として評価されるのがふさわしい。傑作であると断言できるのは、二万匹もの昆虫を自力で採集し、処理し、再構成する独自の方法と技術に加えて、それらの根底で渦巻く尋常ではないほど強力な表現欲動に、わたしたちの誰もが間違いなく圧倒されるからだ。当人は制作の動機として昆虫の「供養」を証言したが、この言葉を字義どおりに受け取りがたいほど、「昆虫千手観音像」には稲村の美意識や執着心が色濃く反映されている。造形への並々ならぬ意欲が「供養」という名目を内側から突き破っているといってもいい。じつのところ平成美術の多くに欠落していたのは、このやむにやまれず表現せざるを得ない、きわめて個人的で衝動的な表現欲動にほかならない。「昆虫千手観音像」は、表現する理由にも動機にも恵まれないがゆえに没個性的な集合性に依存するほかない平成美術の中にあって、唯一無二のアウラを放っていたのである。

とはいえ、そうした軟弱な平成美術に昭和的で濃厚な表現欲動の発露を求めることじたいが筋違いなのかもしれない。なにしろ田畑の隅々にまで高性能の農薬が散布された平成以後の日本社会では、稲村のような方法と技術を実現することは事実上不可能に近いからだ。同じ手法によって「昆虫千手観音像」を再制作しようとしても、おびただしい数の昆虫を採集する作業が困難を極めるであろうことは想像に難くないし、そうである以上、そもそもそれらを素材として観音像を制作するという発想すら生まれるはずもない。平成から令和にかけての日本社会は、「昆虫千手観音像」のような傑作を生み出しうる精神的・物質的な土壌を失ってしまったのである。

ただ、表現欲動と時代背景は必ずしも厳密に対応しているわけではない。同じく櫛野による「クシノテラス」の一部として紹介されたガタロは、平成や令和にあってなお濃密な表現欲動を視覚的に物質化している希有なアーティストである。集合住宅の清掃員としての仕事を終えた後、ガタロが繰り返し描いているのは、日々の労働で使用した雑巾。いずれも固く絞られた雑巾には、一瞥しただけで彼自身のただならぬ思い入れが感じられるが、画材が支持体にしつこく塗り込められた描写法や、余白に書き込まれた批評的な独白が相まって、雑巾の塊はたしかな重量感を伴ってわたしたちの心底に落ちてくる。より具体的に言い換えれば、物質性とメッセージ性が両立された彼のドローイングを目の当たりにすると、モチーフの雑巾がいつの間にか硬い石のように見えてくるのだ。それらはたんなる石ではない。抗議や不服従、異議申し立てといった批判的な意味が埋め込まれ力強く放たれる石の塊である。無能で不誠実な政治家や甘ったれた世間が、その標的となっていることは間違いないが、ガタロの投石はあまりにも重いがゆえに、標的とされた彼らを突き抜けて、わたしたち自身を含む時代そのものにも激突しているのではなかったか。だからこそ、わたしたちはそれらにたんなる階級的な共感を覚えるにとどまらず、それらを手がかりにしながら生ぬるい時代を漫然と生きがちな自分自身の生き方を根本的に問い返すのだ。こうした自問自答は現代美術の基本的な鑑賞技術のひとつだったはずだが、物質的にもメッセージ的にも未熟な平成美術には、そのような機会は到底望めない。

ガタロや稲村米治の作品に共通しているのは、ある種のアナクロニズムである。ドローイングや昆虫造形という表現形式が古いというわけではない。作品の制作に挑む作り手の意識が時代の趨勢とそぐわず、もしくは意図的に逆行しているということだ。平成や令和にあってなお昭和を生きること。いや、昭和にあっても大正を生きる芸術家や思想家は実在したし、明治においても江戸を生きる抵抗者たちは盛んに活動していたのだから、ここでいうアナクロニズムとは特定の時代に限定された主義主張ではない。いつの時代でも、未来を憂いてこそ、現在に反逆し、あえて過去に立ち返るアナクロニズムは存在した。とりわけ現代美術においては最先端の技術と思想を表現した作品が高く評価されがちだが、必ずしもそのような洗練された作品だけが同時代的なリアリティーを獲得できるわけではないし、未来を展望できるわけでもない。むしろ平成期に大きく進行した管理社会の徹底化および剥き出しの表現規制という政治学が、わたしたち自身の表現欲動をますます収縮させ、なおかつ昨今のコロナ禍がその縮減傾向を明らかに加速させている現状を思えば、そのようなポリティクスの鬼子ともいえる平成美術の延長線上に令和の現代美術を定位させるべきではない。薄く、軽く、弱い平成美術を継承したところで、表現の強度が今さら復活するはずはなく、これまた平成が生んだ怪物ともいえるネトウヨに代表されるように、自己と世界ないしは時代を直結させる不健全な精神性の中で、やがて雲散霧消せざるを得ないことは眼に見えている。したがって稲村米治やガタロのような力強く、魅力的な作品を評価するわたしたちの未来にとって必要なのは、平成美術の根を潔く断ち切り、昭和や大正、明治や江戸、さらにはその先まで可能な限り遡行しようと試みる、戦略的な方法論としてのアナクロニズムである。

事実、令和3年、すなわち2021年の現代美術を振り返ったとき、すぐれた成果や達成を遂げたのは、いずれもアナクロニストとしてのアーティストだった。沖縄の米軍基地や東日本大震災を主題として大規模な平面作品を制作している金原寿浩がおもに使用しているのは、チャコールペンシル。かねてからデッサンで用いられているそれと墨などを巧みに織り交ぜながらダイナミックに描写した、現実と虚構を混交した世界は見る者を圧倒するほどの迫力を放っている。国会議事堂の前に汚染土を収容したフレコンバックを積み上げるなど、批判的なメッセージも鋭い(「金原寿浩 海の声」、原爆の図丸木美術館および「金原寿浩vsジャスミン 愛の力」、リトリートフィールドMahora稲穂山)。同じく平面でいえば、とりわけ圧巻だったのが遠藤彰子。キャンバスの最大サイズである500号を連結させた1500号の巨大油彩画が立ち並んだ展観はまさしく壮観で、それらのあいだを歩き回ると、鑑賞者は遠藤が描写した謎めいた神話的世界の中に巻き込まれ、めまいを覚えるほどだ。ニューペインティングやスーパーリアリズムとは異なるかたちで、具象的な油彩画の可能性を力ずくで見せつけた展観であった(「物語る 遠藤彰子」、平塚市美術館)。「絵画の死」はこれまで何度も宣告されてきたが、金原や遠藤はそのような知ったかぶった言説を吹き飛ばすほどの重厚で強大な平面世界をわたしたちの目前に差し出したのであり、平成美術を相対化する上で、その意義と効果はとてつもなく大きい。

さらに、写真では今道子(「フィリア─今道子」、神奈川県立近代美術館鎌倉別館)。日常的な事物と生物を組み合わせ、自然光のもと、モノクロ写真で撮影した作品である。椅子やマネキン、ハイヒールなどと生魚や野菜、生花などをコラージュ的に結合させ、ユーモアやエロティシズム、異化効果を生むのが特徴だ。何より興味深いのは、その造形上の手わざがアウトサイダーアートに近しく感じられる点である。燕尾服に大量のザリガニを貼りつけた今の作品は、明らかに稲村米治の「昆虫千手観音像」と通底しているし、さらに起源をたどれば富山県高岡市福岡町で現在も継承されている「つくりもん」の伝統行事にまで行き着くはずだ。今道子の写真作品は外皮として耽美的な幻想性をまとっているが、その内実としてのオブジェは民俗性や生活そのものに根づいており、じつのところ今の作品を本質的に支えているのは、明治期に輸入された近代美術より深く古い、そのような民俗性なのだ。だが、これも平成以後、全社会的に高まった動物虐待を戒める風潮からすると、今の作品は、あるいは非難の対象になりかねないのかもしれない。それは生物をバラバラに切断し、任意のかたちに接合し、そのような暴力行為を芸術の名の下で正当化しているように見えなくもないからだ。けれども、そのようなある種の野蛮な行為こそ、人類の文化に普遍的に見出せる共時的かつ通時的な特徴だったのであり、それが異常な例外に見えるとすれば、それこそ異常といわなければなるまい。重要なのは、今道子や稲村米治のような原始的な表現欲動を、令和を生きるわたしたちにとっての原点として位置づけることである。作品を生み出す表現欲動がますます縮減させられ、やがて消滅することすら懸念される昨今、それはますます意義深く、また喫緊の課題となるにちがいない。作品をつくる側にせよ見る側にせよ、コンプライアンスやら表現規制やらの論理とレトリックに惑わされることなく、みずからの欲望の水準をこのような原点からむやみやたらに後退させないことが、令和の現代美術を健やかに前進させる原動力になるのではないか。したがって、アーティストを志す者たちは連帯から速やかに離脱せよ。孤独を恐れず、むしろ楽しめ。さすればやがて、他者が無視し得ないほど、おのれの表現を研ぎ澄ますことができよう──。

「孤狼の血level2」で日岡は幻のような狼を山中で目撃するが、これが大上(おおがみ)を体現したイメージであることは疑いない。昭和は過ぎ去ったが、平成は昭和の残像に苛まれ、その行方を求めて、いつまでも彷徨するほかない。アナクロニズムとは、たんなるロマンティシズムではなく、不可能を可能にしようとあがく、はてしない挑戦なのだ。 

初出:「図書新聞」3530号、2022年2月12日、8面


参考:ひらくラジオ①「勝手に始める”批評”のススメ

#孤狼の血 #美術 #アート #福住廉

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