ハーバード見聞録(75)

「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

「イタリア・スペイン紀行」を二回に分けて連載したい。


第1回目——ローマ遺跡巡りとカテドラル参拝(6月18日の稿)

●記憶の沈殿・発酵作用
10月25日から11月9日の間、妻と晩秋のイタリアとスペインを旅した。私達にとっては滅多に出来ない旅だから、アメリカの自宅に帰って来て、すぐに紀行文を書き残しておこうと思った。が、1ヵ月ほど待つことにした。紀行文を書く際には、旅行直後の記憶の鮮明なうちに書き留めるやり方と、暫く時間を経た後に筆をとるやり方があるのではないだろうかと思う。このような違いは、人間の記憶に沈殿・醗酵作用があることに由来するものと思う。

人間の記憶にも比重がある。60年近い歳を重ね、そう思うようになった。小学校の時、先生から教わって薩摩芋から澱粉を作ったことがある。芋を卸金で擂り潰し、これを布巾で絞りその白い絞り汁を器の中に入れ、暫く置いておくと、比重の高い澱粉が水と分離して、器の底に澱粉が沈殿する。

旅行の記憶も同様に、直後は様々な出来事が渾然として、頭の中に一杯浮遊しているが、時間とともに沈殿し、強く感動したり、印象付けられたことは鮮明に残るが、そうでないものは、次第に忘却のリストに挙げられていく。

また、人間の記憶には、発酵作用もあるのではないか――とも思う。記憶と感情が心の作用で結びついたり、抽象化されたりして、原記憶よりも幾分味わい深いものとなる。

少年期の思い出は、既に発酵し尽くして「古漬け」の部類に入る。記憶の輪郭がぼんやりとし、事実よりも幾分味わいの変わった思い出に変わっている。私の場合、自衛官退官前の10年間程の思い出が「旬」のようで、記憶の鮮明さとその味わい深さのバランスが最も充実しているように思える。

こんな思いから、イタリア・スペイン旅行の思い出を2ヵ月ほど経ってから書き始めた。

●弥次喜多道中
旅行は完全に妻の手作りの計画だった。妻は、イタリアからハーバード大学に研究に来て、私達の部屋の階下に住んでいるPaolaさん(中国研究学者)や嘗てイタリアで勤務されたボストン総領事館の高島副領事の奥様の晃子夫人などから旅行情報を聞くとともに、『地球の歩き方』(ダイアモンド社)の中のイタリアとスペイン編を熟読し、2006年の夏場から計画作りに取り組んだ。

団体旅行に参加すればもっと簡単だっただろうが、手作り旅行にもそれなりの楽しみ方があった。私達二人は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に出てくる弥次郎兵衛と喜多八の伊勢詣に描かれているように、数々のハプニングや困難に出会い、失敗の連続であった。しかし、手作り旅行の良さは、そのハプニングを楽しむことかもしれない。案内してくれるガイドがいないお陰で、英語の通じ難いイタリアとスペインで道路や目的地の場所を聞いたりして、多くの人々に接することができた。

旅の途中、妻が、「毎日、牛(私の事)を引っ張って回らなければならないので大変よ」と、娘に電話で愚痴をこぼしているのを聞いた。これを聞いて、私は、逆に、「牛(妻のこと)に引かれて、カテドラル(カトリック大聖堂)参り」――「牛に引かれて善光寺参り」を捩ったもの ― と、独り言を言ったものだ。今回の妻の計画のテーマは、まさしく「カテドラル参拝とカトリック美術の鑑賞」だった。

私は、自衛官の頃の職種(兵科)は「普通科(歩兵)」であった。昔は、銃を持ち20キロほどの背嚢を担いで一晩で40キロ以上も歩いたものだが、最近はすっかり弱くなって、妻の健脚には及ばなくなっていた。妻から見れば、トボトボと付いて来る私が、牛のように見えたのかもしれない。

●ローマの遺跡
最初に訪れたローマ市で最も印象に残ったものは、コロッセウム(闘技場)をはじめ、市内あちこちにある古代ローマの遺跡であった。遺跡を見ながらあれこれ考えた。

まず思ったのは、「ローマは一日にして成らず」という諺だった。この諺は、文字通り、ローマの都市や文化が完成するには長い歳月がかかったという意味だろう。今回、古代ローマ遺跡を目の当たりにし、私はこの諺に別の感懐を持った。それは、ローマの町を作るうえで数十年かかったという時間の概念を更に2000年程過去に延長することだ。即ち、ローマが紀元前6世紀ごろから出現する遥か以前に、世界四大文明のうちのメソポタミア文明とエジプト文明、更にはエーゲ文明などが2000年以上の歳月を費やして、伏流となって地中海沿岸伝いに陸上と海上から西の方向に伝播し、イタリア半島で奔流となって噴出し、ローマという都市と文化が出現したという考え方である。

ローマは、狼に育てられた双子の兄弟のロムルスとレムスが建国したという伝説あるが、そんなに桃太郎が桃から生まれるように簡単にローマが出現したわけではならないだろう。既に述べたとおり、ローマが出現する約2000年から3000年前に誕生したメソポタミア文明・エジプト文明こそが、ローマの源流になったと考えるのが自然だろう。「ローマは一日にして成らず、2000年以上の古代文明の延長上に成った」というのが正しいのではないだろうか。

古代ローマの200年を越える興亡の歴史に関しては、塩野七生氏の『ローマ人の物語』(新潮社)全15巻が完結したと聞く。帰国して読むのが楽しみだ。

次に考えたのが、これらローマの興隆を支えた財政についてだった。壮大な建築物の建設や、様々なイベント、市民の衣・食・住などを賄うためには巨額のお金が不可欠だったろう。これらを賄う財政の資源は「パックス・ロマーナ(紀元前27年から約200年間)」と呼ばれた時代の広大な版図を見れば頷ける。ブリタニカを含むヨーロッパ、中近東、北アフリカなどの地中海周辺地域はすべてその版図に属している。ローマは、中央集権と地方自治の微妙な組み合わせでこれらの地域を安定させ、膨大な冨をローマに集めることが出来たのだろう。

塩野七生氏の『ローマ人の物語』を読めば、かくも広大な版図を上手にコントロールして、巨額の富をローマに集積出来た統治システムの秘訣を知ることが出来るかもしれない。今日のアメリカや、これから世界に覇を唱えようとしている中国の参考になることでもあるはずだ。

更に考えた。それは、大理石の巨石を用いた建築技術のことだった。あの遺跡の材料となる、巨大な大理石はどこから来たのだろうか?妻とローマ郊外約30キロ東方にあるヴィッラ・デステというローマカトリックの枢機卿の別荘跡(大小さまざまな噴水で有名)を見るためにバスで移動している時に、大理石の広大な石切り場(採石場)を見つけた。それは山から石を切り出すのではなく、平地の地中から堀り出していた。遺跡に使用されている大理石は、柱状のものや板状のものとして切り出され、これを加工し研磨して、例えば胴が僅かに膨らんだエンタシス形式の巨大な柱などに仕上げたのだろう。2000年以上も前にそんな石材加工技術があったとは驚きだ。また、クレーンやエンジン付きの大型車両も無い時代にこれらの巨石をどうやって運搬したのだろうか。更にはこれらの石材で寸部も狂わないようにコロッセウムや神殿を造営する技術が確立されていたことには驚嘆させられた。

人間の能力は、決して発展して来た訳ではないと思った。2000年前の昔に、既に素晴らしい能力を発揮していたのだ。

アメリカ東部のケンブリッジ市に住んで、ハーバード大学界隈のレンガを敷き詰めた道路を見て珍しいと思ったが、そのルーツをローマで見つけた。ローマの遺跡の中に石を敷き詰めた道路を見つけた。そして、更にそのルーツを辿れば、現在から5000年ほど遡る、メソポタミア文明やエジプト文明に行き着くのではあるまいか。徳川時代、鎖国の中で、ポルトガルが伝えたとされる、長崎の石畳のルーツはそれ程古いのだろう。

コロッセウムの傍の芝生の上に憩い、観光客で賑わう広場を眺めていた。2000年前の光景もこんなものだったのだろうか。往時とさながらに、ローマのスパルタクスに扮して、記念写真撮影に応じる事を生業としている数人のグループを見ていると、2000年前にタイムスリップしたような気になった。往時も、スパルタクスの闘技を見た興奮冷めやらぬ群衆が、コロッセウムのゲートから吐き出され、賑やかな人の流れが出来ていたことだろう。当時と少し違うのは、話す言葉と、服装などだけなのでは。

そのうちに、アメリカ人らしい旅の青年が、写真撮影協力で支払うチップのことで言い争いを始めた。双方が大きなジェスチャーで、早口でまくし立てている。2000年前のローマでも、同じような人間の営みがあったことだろう。しかし、コロッセウムの中からは、スパルタクスに飛び掛ろうとするライオンの唸り声も、これを見て熱狂する観衆の叫び声も聞こえない。「ここはやっぱり遺跡だったのだ」と、我に返ったら、地中海性気候の澄み切った空の中でまばゆいばかりの太陽が凱旋門の上に傾いていた。

●教会巡礼
今回の旅で、妻は、カトリックの総本山ヴァチカンや司教の教区に一つだけあるカテドラル―司教の座席(カテドラル)が設けてある聖堂、司教区の中心の都市にあり、ドゥオーモ、ドームとも呼ばれる―を始め教会の参拝・見学することを中心に計画した。

勿論、日本ではカテドラルは東京の目白に一つしかない。しかし、イタリアやスペインでは地方ごとに沢山あった。両国ではカトリック教国なので、信者も多く、教区も沢山あるのだろう。また特にイタリアでは、国内にヴァチカンを抱えている他、19世紀後半までは小国が分立していたので、これら小国毎にカテドラルを持っているという理由があるようだ。  

因みに、イタリアでは、これら嘗ての小国毎にサッカーチームを持っているために、国内チーム同士の戦いとは言え、敵愾心むき出しで熱狂すると聞いた。両国では、カテドラルではない教会も、日本はもとよりアメリカでさえも到底及ばない程の壮麗なものだった。

訪れた教会は、今思い出すだけでも、サン・ピエトロ大聖堂(以上ヴァチカン市国)、システィーナ礼拝堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、(以上ローマ)花の聖母教会ドゥオーモ、サンタ・マリア・デル・ミネ教会、サン・ロレンツォ教会、メディチ家礼拝堂、サンタ・クローチェ教会、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(以上フィレンツェ)ドルオーモ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、(以上ミラノ)サン・マルコ寺院、サンティッシマ・ジョヴァンニ教会、スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ教会、S.M.デッラ・サルーテ教会、スクオーラ・サン・ジョヴァンニ・エヴァン・ジェリスタ教会(以上ヴェネツィア)、サン・イシドロ教会、サン・フランシスコ・エル・グランデ教会、アルムデーナ大聖堂(以上マドリッド)カテドラル、サグラダ・ファミリア聖堂(以上バルセロナ)カテドラル、王室礼拝堂(以上グラナダ)など数え切れないほどの教会だった。

こうやって振り返ってみると、我ながら驚くほどの教会巡礼の旅だった。これらの教会は、単なる観光施設ではなく、今も人々の魂を救済する神の館であった。「教会が神の館として息をしている。教会の中に、神の声が聞こえる」――そんな気がした。信仰心の薄い私と違って、熱心なカトリック信者である妻は、どの教会でも、いつも、熱心に祈っていた。

これら教会の壮大さ、荘厳さは、筆舌には尽くしがたいものだった。ミケランジェロ、マザッチョ、マゾリーニ、フラ・アンジェリコ、ギルランダイオ、ヴェロネーゼ、ベッリーニなどの絵画、ステンドグラス、イエズス・キリストや聖人の彫像、様々な宝物には圧倒されるばかりだった。

イエズス・キリストの教えは、聖書に「文字」で書かれている。これを神父が信者に「福音」として「言葉・音声」で伝える。これに加え、ミケランジェロなどの天才画家達が「受胎告知」、「キリストの生誕」、「聖母子像」、「キリストの磔」、「キリストの復活」など「聖書物語」の重要な部分を、絵画で表現し、ビジュアルに信者に訴えることが、インパクトをもって神の存在・福音を伝えるメディアだったのだろう。現在のように、映画もアニメも無い時代だから、絵画は聖書そのものや神父の説教と同等に、神の存在を人間に理解させる重要な手段だったのだろう。このようにして、キリスト教と結びついた、中世の西欧の絵画芸術が極めて高い領域まで洗練され、その後の絵画芸術発展の礎を築いたものと考えられる。

これらの教会の造営には、長い歳月と恐らく巨万の富を要した事だろう。スペインのバルセロナで見たサグラダ・ファミリア聖堂は、あの有名なガウディの設計・デザインであるが、1882年の着工から100年を越えた今日もまだ工事中であった。日本の目白のカテドラルと比べ、矢張りカトリックの本家であるイタリアとスペインの教会は別格だった。

これら壮大・壮麗な教会の建設・維持を可能にしたのは何だったのだろうか。それは、ヴァチカンを頂点とするカトリック教の組織とこれを支える信者の堅信の賜物ではなかろうか。

人間は、生まれながらに、死や病気に対する恐怖、長命や幸福・地位・名誉への希求、免罪の願いなどがある。これらの様々に懊悩する人々の魂を救済するため、教会組織は信心深い信者から巨大な冨を集め、これを教会の造営に当てることにより、これ程の素晴らしい教会ができたものだろう。

今から2000年以上も前に、人類の罪を背負い十字架に処せられたイエズスの復活を信じるキリスト教は、幾多の迫害を受けながらも、313年、ローマのコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令により公認された。1054年、ローマカトリック教と東方正教会(中東・ギリシャ・アナトリア・東ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派(ギリシャ正教・東方正教会とも称される正教会および東方諸教会)の総称)に分裂したものの、特にローマカトリック教の組織は、世界に広がり、現在のカトリック教徒の総数は10億人以上といわれている。

また、一方で、封建領主の圧制と相俟って、このような巨大な教会組織の権威に息苦しさを覚えた人達もいた。マルティン・ルターは16世紀始めにローマ教皇の免罪符を批判し、「人は信仰のみによって救われる」と主張した。これが今日のプロテスタントの始まりだ。

何れにせよ、今回の旅では、イタリアとスペインの数多くの教会を巡礼してみて、教会の持つ本来の素晴らしさを味わっただけでなくルターやカルヴィンが宗教改革に突き動かされた心情も分かるような気がした。

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