ハーバード見聞録(54)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
以下、ロバート・ロス教授の論文『平和の地政学、21世紀の東アジア』について、9回に分けて連載したい。

今週は先週(1月17日)の「要旨」に引き続き本論文についての「若干の所見」を述べたい。


『平和の地政学、21世紀の東アジア』――「若干の所見」(1月23日)

〇 若干の所見
・東アジアにおける米中の棲み分けは「ヤクザ縄張り争い」の如し

台頭する(国力が急増する)国家が、領土を拡大し周辺国家に影響力を拡大した例は、古くはローマ帝国、歴代中国王朝などはもとより近代においてもナチスドイツやソヴィエト連邦など、歴史上枚挙に暇ない。アメリカもその例に漏れず、今やパクスアメリカーナと言われるほどの勢力を誇っている。

台頭する中国が、その国力増強を背景に、影響力を拡大しようとするのは、当然の成り行きと思われる。その結果として、ロス教授はこの流れの中で、「東アジアの地勢は、中国は大陸部を、米国は海洋部を支配し、均衡する」という考えのようだ。

これは、まるで山口組と稲川組の「縄張り」の世界のようだ。その「縄張り」の中で、「子分」に相当する当該地域の関係諸国は「親分」である米中の指図に従って、夫々の縄張りの中の「秩序」を作ることになる。

この考えに立つと、アメリカという「親分」は少し冷たいようだ。「子分」の小泉首相が靖国問題で中国から叩かれても素知らぬ顔だった。それでいて、BSE問題や、安全保障などの対米貢献についての要求は厳しい。

また、日本のリベラル・左翼の中には、日本の外交の自由度を高めるために、アメリカから少し距離を置き、中国との関係を改善し、「米中の間を上手に遊泳すべし」とする論もあるが、ロス教授の「米中棲み分け論」の中では、これは通じないことになる。

・米国の「海上からの封じ込め戦略」は中国を封じ込めうるか? ロス教授は、中国の強かさを甘く見ているのではないか?

ロス教授は、中国は、大陸に陸接する東アジアを自分の傘下とし、米国の「海上からの封じ込め戦略」に対して米国が海・空軍基地へのアクセスを有する大陸周辺の海洋島嶼国家には手を出さないと考えているようだが、それは中国を甘く見ることにならないだろうか。私の見るところでは、中国は極めて、強(したた)かである。中国大陸では歴代の群雄たちが割拠し、抗争した歴史の中から育まれた強かさ・権謀術数の伝統が根を下ろしており、これを継承した中国の指導者・戦略家達はそんなにヤワではないはずだ。中国は、アメリカが安泰だと思っている中国封じ込めの鎖(チェーン)となる島嶼国家(日本を始め台湾、フィリピン、インドネシア、シンガポール、ブルネイなど)を間接侵略などで”Undermine”或いは”Erode ”しようと狙っているに違いない。

ハーバード大学の親中派・リベラリストの先生達には想像もつかないないようなやり方(謀略・工作)で、これらの国々を手懐けてしまうかも知れない。日本だって例外ではない。アメリカが何の努力もしないで、日本がアメリカの意のままに従属すると思ったら大間違いだと思う。ついでながら、中国の対日工作に関し一言述べたい。アメリカの誤解は、「中国が台頭すれば、アメリカが努力をしなくても、日本は自動的に米国の傘下に入って来る(追い込まれる)。離脱するはずが無い」と思うこと。同様に、日本の誤解は「中国が台頭すると、米国は自動的に日本の防衛にコミットせざるを得ない。中国の強圧に対してはアメリカが阻止してくれる」と思うことだ。双方が、相手の善意の行動を期待し、手を拱いて日米関係の緊密化に努力しなければどうなるだろうか。日米関係は、簡単に悪化する。今こそ、双方が真剣に日米関係強化に取り組むべき時であると思う。相手任せではいけない。そうであれば、中国に付け入る(日米離間の)隙を与える。

中国大陸周辺の海洋・島嶼国家が間接侵略などの非軍事的手法で、中国と緊密な関係になれば、最早アメリカは手を出せない。中国は、易々と太平洋に向かう扉を開けることが出来るようになるだろう。

また、中国は、海洋正面の封鎖に備えて(対抗して)中央アジア、ロシア及びインドなどの大陸正面に高速道路や鉄道の建設に乗り出すかもしれない。この正面にはヒマラヤ山脈やゴビ砂漠・タクラマカン砂漠などの地形障害が広がっているが、必要に迫られれば、現代の土木建設や鉄道などの技術はこれら自然障害を克服できるだろう(【後記】中国はその後「一帯一路」戦略を実行している)。

更に言えば、中国による「ウルトラC」とも言うべき戦略があるのではなかろうか。それは「イスラム世界との合作」である。現状においては、新疆ウイグル自治区のイスラム教徒などの少数民族問題で、中国とイスラム世界の関係は必ずしも良好ではない。しかし、「イスラムとの戦略的な和解」が成立すれば、中国の戦略環境は東アジアのみならず世界規模で抜本的に改善されるだろう。米国が対決している世界規模のテロ組織とイスラム世界との関係は、例えて言えば、ベトナム戦争当時のベトコンとジャングルとの関係に似た所があり、「中国とイスラム世界の合作」が達成されれば、米国は、「世界規模の対テロ戦争」と「台頭する中国の封じ込め(戦争)」の二つの課題(二正面戦略)に取り組まなければならなくなる。この「合作」を達成するためには、様々な困難・障害があるが、強かな中国なら出来るのではなかろうか。

私は、「中国共産党の強かさと戦略的な柔軟性」を1937年から1945年の「第2時国共合作」を実現させた史実から窺えるような気がする。米国としても、心しておくべき中国の戦略ではなかろうか。「敵の敵は味方」という格言は風化しない。

その兆候が幾つかある。例えば、中国の温家宝(ウェン・チアパオ)首相は9月18日、レバノン南部に展開する国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)への派遣部隊を1000人に増強する方針を中国訪問中のイタリアのブロディ首相に示した(新華社通信)。この動きは、イスラム世界との関係改善を意図したものに違いない。

・米陸軍・海兵隊を軽視しているのではないか?

本論文によれば、米国の東アジア戦略の担い手は米海軍と空軍である。ベトナム戦争と朝鮮戦争の苦戦に懲りて、米軍では「アジアにおいてはこれ以上の地上戦はゴメンだ」という思いが今も支配的だという。

しかし、イラク・アフガンにおいて、今日治安回復・ネイションビルディングに励んでいるのは、米陸軍・海兵隊ではないか。「東アジアの地勢は中東とはちがう、中国本土に向けての上陸作戦はありえない」――と言うかも知れないが、周辺の島嶼国家に米陸軍を投入しないと考えるのは早計ではないか。日本においても、米陸軍の支援を貰わなければならない事態は無い方が良いが、自衛隊だけでは手に負えない事態が無いとは言い切れまい。ましてや、東南アジアの島嶼国家においては、米陸軍を投入する事態は当然あり得る。また、中国本土、或いは大陸上のアジア諸国に米陸軍を使用することは無いとは言えないのではないか。いずれにせよ、本論文の米陸軍・海兵隊軽視は気になるところだ。

話は変わるが、米国で「海・空軍重視論」が台頭すると、日本でも「海・空自衛隊重視論」と共に「陸上自衛隊自軽視論」が話題になるかもしれない。しかし、アメリカの東アジア戦略にとって決定的要素は「在日米軍基地・機能」の存在である。この「在日米軍基地・機能」は、「日本の本土の安全があってこそ成り立つ」ものであり、極論すれば、「陸上自衛隊の整備・精強化こそが米国の東アジア戦略にとって、絶対不可欠の条件である」と言えよう。

・ 米国は、台湾と韓国を切り捨てるかもしれない

ロス教授は、韓国と台湾に関し、次の様に述べている。

韓国:「21世紀に於ける中国の外洋艦隊が『贅沢艦隊』であるのと同様に、朝鮮半島の米国のプレゼンスは『贅沢地上軍』である。… … 韓国は、米国にとって『価値ある財産』ではあるが『死活に関わる国益』ではない」

台湾:「朝鮮半島と同様、台湾問題は米中両国ともには、死活的国益ではない(注:勿論、中国にとっては死活的国益(ロス教授に確認)、次の文章と矛盾せず)。キューバが米国の安全保障に果たす役割に鑑み、台湾問題は中国にとっては死活的な国益であるが、米台協力も台湾に対する中国軍のプレゼンスを拒否することも、米国のバランス・オブ・パワー、或いは、船舶航行上の利益を損なうことにもならない。… … 最悪の場合、中国が台湾を占領しても、せいぜい中国の戦力投射能力が中国海岸から150マイル東方に拡張するだけである。」

このほかの論述をも勘案し、米国は、台湾と韓国を死守する必然性は無いと受け取られる。台頭する中国とのギリギリの「棲み分け」のための領域争いの線引きでは、米国は、意外と簡単に台湾と韓国を諦めるかも知れない。そうなると1950年の韓国と台湾を除外したアチソンラインの復活だ。アメリカが頼まなくても、韓国のアメリカ離れは、既に現実のものとなりつつある。

アメリカにとって台湾・韓国は「死活的な価値」ではないかもしれないが、日本にとっては「死活的」である。台湾が中国のものになると、日本の中東向けのシーレーンが脅かされ、まさに「皆既日食状態」になりかねない。また、朝鮮半島はロス教授自身の言葉を借りるならば「日本の心臓部に匕首(あいくち)を突き付ける(dagger pointed at the heart of Japan)」形になっており、明治政府以来、朝鮮半島に戦略縦深を求めることが、我が国にとって、死活的に重要な国防戦略であった。韓国が中国の影響下には入れれば、「博多の正面に匕首(あいくち)を突き付けられる」状態となり、我が国は、壱岐、対馬、五島列島などの防衛を格段に強化しなければならなくなるだろう。
このように、アメリカの「御都合」だけで、日本を始め東アジア諸国の死活的な国益を簡単に切り捨てられては堪らない。

・「パンダ・ハガー(panda hugger)派」が正しいのか「レッド・ドラゴン・スレイヤー(red dragon slayer)派」が正当なのか?

人間の本性の見方として、「性善説」と「性悪説」がある。同様に、台頭する中国についての見方も「中国性善説」と「中国性悪説」がある。台頭する中国に対しても「期待」と「猜疑」が交錯している。前者をアメリカでは「パンダ・ハガー(パンダを抱いて喜んでいる中国大好き馬鹿)」とやや揶揄する意味を込めて呼んでいるようだ。この代表人物が、最近辞めたぜーリック前国務副長官だ。一方後者は、僭越ながら私の造語であるが「レッド・ドラゴン・スレイヤー(dragon slayer)」と呼ぶこととした。この造語は、先日(9月21日から24日)のライダーカップ(米欧間のゴルフマッチプレー団体競技)の中継で使われた言葉だった。その前の週(14日から17日)に行われたHSBC世界マッチプレー選手権でタイガー・ウッズを一回戦で、大差で破ったショーン・ミキール選手(米国)のことを、解説者が”Tiger slayer”と呼んでいた。日本語で言えば「虎殺し」である。この造語にヒントを得て、台頭する中国を「性悪」と警戒するアメリカ人グループを”red dragon slayer”と呼ぶこととした。因みに、龍は中国皇帝のシンボルだと言われている。

アメリカの”red dragon slayer”の代表としては、米国防省(DOD)ではなかろうか。米国防省は、2000年度国防授権法の第202項(広報106-65)に基づき『中国の軍事力』について連邦議会に年次報告を行っている。この、公文書を書く米国防省の担当者達の「目」は、「疑惑に満ちた目」である。『05年度版 中国の軍事力』においては次のように記述している。

〈中国軍の戦力拡大、即ち、弾道ミサイル、新型艦、新型機、及びその他の近代システムによる態勢整備は『平和的再統一』という台湾問題に対する政策の背景に相反する。(中略)長期的に見て、現在の傾向が続けば、中国軍の能力は東アジア地域で活動する他の近代的な軍に確実な脅威をもたらすものとなり得る。〉

この公文書の記述内容を、分かりやすく言えば「中国の弾道ミサイル、海空軍の近代化が続けば、『東アジア地域で活動する他の近代的な軍』即ち『米軍』に確実な脅威をもたらすものとなり得る。」――ということだ。

この見方は、ロス教授のように「冷戦後の東アジアは二極化し、大陸地域(中国)と海洋地域(米国)に区分され、お互いに介入しないだろう」という寛大な見方ではなく、中国の軍拡の野心の照準が台湾に留まらず、東アジアの中国大陸周辺海域で米軍と闘争しようとする企図を秘めているのではないかと疑っているようだ。米国の安全保障を担う米軍の役割として、当然のスタンスとは言え、今後同報告書を通じ、中国の軍の近代化のぼんやりしたイメージが時間と共に焦点が定まることになるだろう。

私はこの問題に関しては、大分市の高崎山のサルの集団をモデルに説明することにしている。即ち、「高崎山のサルは幾つかのグループを作り、餌取りの順序を巡って抗争している。『高崎山』を『地球』に置き換えれば、将来、『ナンバー2』の中国グループは必ず『ナンバー1』のアメリカグループに軍事を含むあらゆる分野で挑戦することは間違いない」と。

・アルフレッド・セイヤー・マハンの戦略はアメリカにとっては今もバイブル

ロス教授は、アルフレッド・セイヤー・マハンの海軍戦略の論述を諸所に引用している。アメリカは独立後インディアンを駆逐しつつ西へ西へと進んだ。そして遂に、ジェファーソン大統領が派遣した西部調査団のルイスとクラークは、1805年11月15日にコロンビア川河口で太平洋とを対面を果たした。その後、フランスやスペインから植民地を獲得し領土を広げ、黒人問題という内政問題を巡り南北戦争を戦い、19世紀末になってようやく太平洋に向かって西進する余裕・態勢が出来た。まさにこの時に、「マハンの海軍戦略」が世に出た。私は、同書を「アメリカが太平洋を越えて西進するノウハウを書いた『ガイドブック』」の役割を果たしたものではないかと考えている。

この『マハンのガイドブック』は、今日も色褪せることなく、今日では「パックスアメリカーナ」を維持する上の『ガイドブック』となっているような気がする。

我々は、アメリカの今日の軍事戦略を見る時、アメリカの歴史と、マハンの海軍戦略を常に念頭に置くべきだと思う。

【後記】
この論文が出たのは1999年であるが、20年余経った現在(2022年)読んでみると、中国の台頭ぶり、なかんずく軍事力の質的・量的な増強を背景にした米国への挑戦についてはロス教授の「見立て(評価)」をはるかに上回っていることがわかる。

この論文では「米軍の優位は揺るがない」という楽観的な「見立て」であったが、米中の軍事力は今日では「拮抗」する状態になりつつあり、このままでは「凌駕される」ようになると見るのが一般的である。

国際情勢の中・長期的な「見立て」――特に大国の興亡の予測――がいかに難しいかを物語るものではないだろうか。


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