ハーバード見聞録(42)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

長文なので、【前段】【中段】【後段】に分けて掲載したい。
今年12月で80 年となる。本稿「山本五十六」を皆様にお届けできるタイミングに私自身が感慨深い思いに浸っている。


山本五十六【前段】(10月31日の稿)

山本五十六帝国海軍少佐に出会った。

いや、正確に言えば、ハーバード大学のLAMONT図書館のアーカイブに所蔵されている「COMMITTEE ON ADMISSION」という表題の入学手続き書類にSPECIAL STUDENTとして入学するに際し記入した、山本少佐が薄めの鉛筆で書いた自筆の署名に出会うことが出来た。奇しくもその日は、真珠湾攻撃が行われた64回目の開戦記念日の05年12月7日のことだった。

山本少佐の筆跡は細く薄い鉛筆で書いているせいもあるだろうが、丁寧で、緻密・繊細な性格の持ち主のように見える。

また、山本少佐は、秘密保持のためなのか、海軍兵学校(Japanese Naval College)で英語を学んだという以外、自分の軍歴や日本大使館との係わりなどについては一切言及していなかった。

山本少佐が記入した書類の内容を原文のまま抜粋すると次の通りである。(アンダーライン部分が山本少佐の自筆の回答)

☆ Full Name
Isoroku Yamamoto

☆    Date and place of birth
April 4, 1885, Tokyo,Japan.

☆    Home address.
157 Naples Rd,Brookline,Mass.

☆ Give the names and addresses of at least two persons from whom information about you may be obtained.
Mrs.Sarah Elvira Clifford, 157 Napls Rd, Brookline
Mrs.Frederick Charles Morrow, 157 Naples Rd,Brookline

☆    Have you applided for admission,or been examined for admission, to any college or scientific school? If so, what was the result of such application or examination?
Graduated Japanese Naval College.

☆    What is your purpose in entering Harvard? Explain this purpose as fully as you can.
I have to take up English only.

☆ What courses of instruction do you wish to enter? Give the name of the courses according Harvard Catalogue.
Special Instruction in English for Foreign Students.

☆    What instruction have you received in the following subject:
English.I studied four years in a Japanese high school and three years in Japanese Naval College.
 
スタンフォード大学にフルブライト奨学金で留学して来られている土井秀文氏から12月3日に山本少佐のハーバード時代の資料が存在することを教えていただいた。

史上に残る偉人にはその遺徳を偲ばせる「残り香」乃至は「足跡」があるものだ。弘法大師、イエズス・キリスト、マホメットなどの足跡には、今も巡礼者がその跡を辿り、遺徳に肖ろうとする。

山本五十六は神ではないが、私も、真珠湾奇襲攻撃のその日、山本少佐が残した「筆跡」を拝みたいと思い立ち、LAMONT図書館を訪れ「筆跡」を拝む機会を得、感慨深い思いに浸った。

その後、山本五十六元帥の生き様に関し急に興味が湧いてきて、ハーバード大学の燕京(イエンチィン)図書館に赴き、同館職員山田久仁子様の御協力で阿川弘之氏の「山本五十六」という本を見つけ出し、借りてきて一気に読んだ。

不思議なことに、読み終わった、ある日の夜、山本元帥が元帥の階級章が付いた白い軍服で夢に現れ、「夢の中の会話」をした。元帥の御尊顔は開戦記念日に合わせて放映されたNHKの番組で見た連合艦隊指令長官時代の面影であった。私も、夢の中とは言え相当緊張したが、色々と質問を試みた。元帥は快く、応じてくれた。

以下が、夢の中で会話の記憶に基づいた、回想録である。誤りや、問題があるとすれば、それは私の夢の記憶ゆえのことであり、ご容赦を頂きたい。
 
 


筆者: 元帥は筆忠実(まめ)でしたね。
 
元帥:それは、そうだなぁ。兄の高野季八や姉の高橋嘉寿子や海軍兵学校同期の盟友堀悌吉君、更には福山君には「心の友」と表現させてもらうが、河合千代子ちゃんと鶴島正子ちゃん(筆者注:元帥の恋人)をはじめ、多数の人に対し、我ながら実に良く書いたものだ。福山君の場合はe-mailがあるから紙も封筒も切手も要らず、簡単にしかも瞬時に日本の友人などと交信できるから羨ましい限りだ。私がハーバードに在学した1919~20年頃は、手紙が日本に届くまでに1ヵ月以上はかかっていた。従って返事をもらうのは最低でも2ヶ月余も先のことだった。

私は船乗りなので、人と会う機会が少なく、手紙が恋しくなる立場だった。軍艦に乗って、方々航海して、着いた港で受け取る手紙の嬉しさは格別だった。特に先に言った兄姉や盟友堀君、そして千代ちゃんや正ちゃんから届いた手紙は実に宝物のようだったよ。

そんな宝を手に入れる為には、こちらも筆忠実にならざるを得ない訳だ。それが自然習慣として身についたのかな。手紙は相手によっては自分の本心を吐き出させる作用がある。俺は大時化(しけ)で、軍艦が揺れても、酔ってはくことは無かったが、心を許せる相手への手紙には本音をゲロゲロ吐いたものさ。

例えば、盟友堀悌吉君の場合は、時局についての率直な判断を述べたものだった。当時はご承知のように私や米内さん、井上成美君などのように親米反独の立場の軍人は「海軍左派」と呼ばれ、少数派だった。陸海軍を含む世論は極めて保守的で「親ドイツ」に偏った時局認識を持っていた。従って、自分のような立場になると、情勢判断などについて、迂闊に誰にでも本音を話せる時代じゃなかったよ。堀君にはまた、海軍上層部の陸軍や政府に対する優柔不断さを痛烈に批判したりもしたものだ。

海軍次官や連合艦隊司令長官というポストはストレスの溜まるものだった。そんな時「心を裸」にして、千代ちゃんや正ちゃんに手紙を書くことで、心の重圧から開放されるような気がしたよ。
 
筆者:ハーバード大学のLAMONT図書館のアーカイブに保管されている「COMMITTEE ON ADMISSION」という入学手続きの書類の中に元帥自筆の鉛筆書きの英文の署名と記述を拝見しましたが、筆跡から見ると元帥は豪傑肌というよりも緻密で繊細な神経の持ち主ではないかとお見受けしたのですが。
 
元帥:うむ。自分の事を言うのもなんだが、当っていると思うよ。正直に言うと、私は外見ムスっとして周囲を無視しているように見えるかもしれんが、実は自分でもイヤになるほど細やかな神経を持っていて、また、シャイだったんだ。

日本海海戦の連合艦隊参謀秋山真之先輩が「焦慮細心は実行の要能である」と言われているが、「細心」さの行き届かない軍人は戦争を企画・指導することなんかできないと思うよ。只、部下の前で自分の細心さをあからさまにすると、部下が萎縮して思いっきり伸び伸びと仕事ができなくなるものだ。上に立つ者は、中身は細心でも、外見は豪放磊落に振舞う必要があるだろう。
 
筆者:既に述べたアーカイブに保管されている元帥関連資料の中に、元帥の五十六というお名前に関し「The name Isoroku is unusual in Japan.Because it means “56”. He was named that because his father was 56 when his sun was born.(五十六という名前は日本では珍しい名前で、それは数字の56という意味である。彼の父親が56歳の時に彼が産まれたので、五十六と名付けたものである。)」と書いてありますが、元帥はハーバードの英語のクラスでは何と呼ばれていたのですか。
 
元帥:Isorokuと呼んだり、Isoと呼ばれていたよ。俺が、Isorokuという意味が「56」のことだと教えてやったらクラスメイトの中には「フィフティシックス」と茶化す奴もいたよ。
 
筆者:元帥のご長男義正氏の旧制成蹊高等学校時代のクラスメイトの中に、増淵興一氏という方がおられました。戦時中の昭和18年10月に東京大学の船舶工学科に入学、昭和19年秋から学徒動員で横須賀海軍工廠に配属され、生涯の仕事となる溶接と出会い、これに関する研究を始められました。敗戦後、アメリカに渡り、マサチューセッツ工科大学教授に進まれ、世界の溶接学会の権威として米国の戦略ミサイルやオハイオ級の原子力潜水艦の建造――溶接の分野――に多大な貢献をされた方がいます。
 
元帥:増淵博士のことは天上から良く見ていたよ。博士の溶接技術がミニットマン・ピースキーパーなどの大陸間弾道ミサイル(ICBM)やオハイオ級原子力潜水艦の建造などに多大な貢献をされたのは事実である。我が国は日米安保条約で米国から「核の傘」を提供してもらっていることを考えれば、増淵博士が日本の安全保障に間接的に貢献したことになる。

もし、日本が、アメリカと戦争をして負けていなければ、帝国海軍は今日も雄々しく存在しており、増淵博士の溶接技術が帝国海軍の新鋭の軍艦建造に役に立ってもらえたのに誠に残念でならない。
 
筆者:増淵博士によれば、外務省ボストン総領事館には元帥がハーバード時代に記帳されたノートブックが残っていたそうですが、今日見当たらないと言われていました。私も拝見したかったのですが残念です。
 
元帥:私が書いた手紙や墨書は私の戦死が劇的だったせいもあり、あちこちで相当な数が公開されてしまった。プライバシーも何もあったもんじゃないなぁ。私個人としては、何でもかんでも世間に出されることは迷惑以外の何者でもないが、致し方ないことだろう。

実は阿川弘之君も書いているように、私は航空母艦「赤城」の艦長時代、丹念に筆写した「壇ノ浦夜合戦記」というのがあった。今風に言えば「エロ本」の写本である。阿川君の「山本五十六」から引用させてもらうと、次のような顛末だった。
 
〈海軍の洋上勤務で、副長以下の一般士官には、士官室や士官次室の同僚がいるし、司令官には幕僚達が付いているが、艦長、特に大きな軍艦の艦長というものは、奉られる一方の一種孤独的存在であって、食事も一人で取らなければならない。むやみにデッキを歩けば兵員達の作業の邪魔になり、嫌われる。

昭和3年の暮れから10ヶ月間、その艦長の職にあった間、山本は『赤城』の艦長室で『壇ノ浦夜合戦記』を習字のつもりでせっせと書写し立派な写本を作り上げた。しかし、軍令部出仕兼海軍省出仕に補せられて艦から上がると、この秘本の処置に困ったらしく、小寿賀こと『和光』(筆者注:築地の料亭)の女将丹羽みち(筆者注:本名丹羽美智子(新橋芸妓)に、『これをお前にやろうか』と言い出した。

『それじゃあ、書き人知らずで、大事にしまっとくわね』といって、小寿賀はそれを貰った。

それから何年か経って、山本が少将となり、中将になり、次官になった頃、山本とは全く関係の無いある酒宴の席で『壇ノ浦夜合戦記』の話が出、一人の客が、名高いものだそうだが未だ読んだことがないというので、小寿賀のみちがつい、『それなら、私、とてもいいものを持っているわよ』というと、『何だ、持ってきて見せろ、見せろ』ということになった。

貸すと返ってこないから、けして持ち帰らない、此処で読むという約束で、彼女はそれを座敷に持って来、約束に従って一人が朗読を始めた。
そのうち、客の1人で、石川島造船所の社長をしていた松村菊男が、『どれどれ。その後、俺が読もう。』と朗読を交替した。

松村は、山本より9年ばかり先輩の兵学校出身で、中将で予備役になり、石川島に入った人である。

みちは、山本のことなど一言も話さなかったのに、松村菊雄は読んでいるうちに、ハッと、これが誰の字であるか察してしまったらしい。急に言葉の調子を変へ、『必ず還すから、この本ちょっと貸せ』と言い出した。

こうして『書き人知らず』の『壇ノ浦夜合戦記』は、みちの許から持ち去られ、その後、彼女が何度催促しても還してもらえず、借りて行った松村が昭和16年の4月に亡くなり、みちは悔しがって随分調べたが、ついに行方が分からなくなってしまった。

山本五十六の遺墨遺品の中でも、少々風変わりなこの作品は、戦災で焼かれなかったら、今でも日本の何処かに現存しているはずである〉
 
 
元帥:わしが隠しておきたい文書の第一は、彼女たちに書いたラブレターだ。たしか、正ちゃんに書いた「ラブレター」だけでもトランクいっぱいあったが、米軍の爆撃で焼失してしまったはずだ。
死んでからでは手の出しようがないが、恥を曝すようなラブレターや壇ノ浦夜合戦記の写本のような記録や文書の類は、私の恥の上塗りだから、永遠に世に出ないで欲しいと願うばかりだ。
 
筆者: ハーバード大学特別コースにおける英語の学習について何かご印象はありますか。
 
元帥: 既に君も私のハーバード大学における英語の成績表を見たろうが「Cプラス」だった。

私は、長岡中学で4年間と兵学校で3年間英語を学んだが、当時も現在と同様、日本の英語教育は「読み」「書き」に偏っていたため、ハーバード大学では「ヒアリング」と「スピーキング」が難しく感じられた。

福山君の場合は家に帰ってテレビを点ければ、いつでも英語を聞けるが、私の頃はラジオさえも普及しておらずヒアリングとスピーキングはわざわざアメリカ人に金を払って家庭教師を頼まなければ、練習できなかったよ。

君もアメリカに来て、英会話が思うように進歩が無いので、一時期思い余って、奥さんと二人で熱心に日常の生活の中で、英会話練習をやっていたようだが、その焦る気持ちは良く理解できるよ。わしは、陰で二人の奮闘ぶりを微笑ましい夫婦だと眺めていたよ。

わしの場合、余暇は勉強もしたが、日本人留学生の森村勇君や小熊信一郎君など留学中の若者達と将棋をさしたり、ブリッジをしたりで、余りアメリカ人と会話をする機会はなかったなあ。君も余り焦らずに気楽にやりたまえ。私は当時30歳代半ばだったが、君はもうすぐ還暦だ。余り無理しないほうが良いよ。
 
筆者: 元帥は私に対しては「余り焦らず、無理するな」と言われますが、元帥ご自身は、長岡で一番の料亭、「若満津」の女将に送った御手紙に「アト半年か一年デ帰ルガドモ、一コウ思ウ様ニ、ベン強ガデキンデ、気ガ気デネイテ」と書かれ、また、令兄の季八氏に宛てた手紙に、「昼ハ学校、夜ハ家庭教師ト謂フ次第ナレハ、老骨ニハ充分ノ仕事ナルヘク、一年位ハ怱々経過可致ト存候、来タハカリト思フウチ最早三ヶ月相成リ既ニ1/10以上ヲ経過セシ次第、気ノモメル話ニ御座候」とありますが、元帥こそ何を焦ってそんなにまで勉強していたのですか。
 
元帥:英語を勉強したのは勿論だが、英語を通じて、アメリカという国、アメリカ文化・社会、アメリカ人などアメリカに関するあらゆる情報(インテリジェンス)について理解を深めたかった訳だ。

孫子の兵法に「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言う訓えがあるが、私は滞米間アメリカの全てについての理解を深めたいと思っていたんだ。そこで、反町栄一君が書き残しているように、毎日丹念に新聞を読むように努めた訳だ。但し、彼が書いたように「四十種類の新聞を読んだ」と言うのは正しくない。第一にケンブリッジでは四十種類もの新聞が手に入らないし、それを買う金も勿体無いではないか。アメリカの新聞は当時から分厚く、40ページくらいはあった。それを隅から隅まで丹念に読んでいたのは事実だ。反町君はページ数と種類の区別を誤解したのだろう。

新聞は実にアメリカ全体の動きを活写していた。福山君も韓国における防衛駐在官、陸上幕僚監部・調査部・調査第2課長や情報本部・画像部長などで情報に携わっており、新聞などの公開情報を丹念に読めば、何も「007」に出てくるスパイのような情報活動をしなくても、重要な情報を知ることが出来るのはご承知の通りだ。

そんな訳で、英語の勉強を兼ねて、新聞を丹念に読むことに努めた。これにより、アメリカの軍事、政治、外交、社会、文化、経済、農・工・鉱業生産、世論などの理解が大いに進んだよ。これに視察旅行を加えれば、ほぼ完全にアメリカの実像について把握することが出来たと思う。勿論、私の最大の関心事であるアメリカ軍、就中、海軍の動向についても新聞を読むことでほぼ十分にフォローすることが出来たよ。
福山君は余り新聞を読んでいないようだが、新聞を精読することを薦めるよ。
 
筆者:元帥はロンドン海軍軍縮予備交渉(海軍側首席代表)を終えて帰国後、海軍省出仕兼軍令部出仕の閑職時代――昭和10年――には長岡に4回も帰省されたそうですね。阿川氏によれば、爛漫の桜の頃、元帥が長岡を流れる加治川下りの舟の中で、舟の舳先に両手を付いてパッと逆立ちをされたとか。その逆立ちのシーンは、戦後制作された「連合艦隊司令長官山本五十六」と言う東宝映画で主演の三船敏郎氏が見事に船の舳先で逆立ちをやっていました。

元帥は1919年郵船諏訪丸で初めて訪米される時もゆっくりローリングしている船のサロンの手すりで逆立ちをして見せましたね。ところで、ハーバード時代、ケンブリッジ市のチャールス川では舟上の逆立ちはされなかったのですか。
 
元帥:俺はこう見えても芸達者だよ。逆立ちだけじゃなく、皿を両手にぴったりくっつけて縦横十文字に振り回し、手に皿をつけたままトンボ返りをするという曲芸も得意技だったよ。黒潮会という海軍記者クラブとの宴会では、部屋の隅から隅まで卵を口で噴いて転がすことまでやったよ。

チャールス川には、昔もハーバード大学の学生達がフォア、シングルスカル、ダブルスカル、エイトなど各種ボートを漕いでいた。しかし残念ながら、これらのボートに乗って逆立ちする機会は無かったよ。俺は、いつでも機会があれば逆立ちが出来るように毎日下宿で練習していたんだが、チャンスがなかった。

当時は、ケンブリッジ界隈にも馬に乗る人が沢山いたので、実は、馬を走らせながら、鞍の上で逆立ちしてやろうと秘かに企てたものだが、一つ困ったことがあった。実は乗馬には自信がなかったんだ。陸軍士官学校では乗馬が必須科目であったが、海軍兵学校では乗馬が無かった。馬にさえ乗れたら、馬上の逆立ちも簡単に出来る自信があったんだが、逆立ちの前に「落馬」したんじゃ話しにならんからな。

そこで思いついたのは、馬車の上での逆立ちだった。しかしこれも、当時のアメリカではすでに自動車が大流行で、自動車に押されて、馬車を手配するのは難しいことが分かったんだ。従って、ハーバードでの逆立のエピソードが残らなかった、という訳だ。

【続く】

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