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【エッセイ】 スーパーマーケットのデリバリー 〜やっぱり今でもカルチャーショック〜

 こちらでスーパーマーケットのオンラインデリバリーを頼むと、ほぼ100%の確率で、頼んだものが全部届かない。毎度毎度、届く前に予め心構えをしておくのだが、それでも伏線を張った私の想像を遥かに超えて、私を驚かせてくれる。私は未だに慣れることが出来ない。
 
 日本では長年、おうちコープのお世話になっていた。おうちコープの分厚いチラシは良くできていて、見ているだけでワクワクする。小洒落たレシピも紹介しながら、夕食のアイディアをくれ、「今週は何を食べようか」を楽しみながら考えられる。そのチラシを見ながら注文表に欲しいものを書き込み、週一度、商品を届けてくれる顔馴染みのお兄さんに書き込んだ注文表を手渡しするか、またはオンラインで注文しておくと、翌週、いつものお兄さんが頼んだ商品を玄関先まで届けてくれる。
 どちらの方法で注文したとしても、毎週毎週、100%、パーフェクトに注文したものが全部きちんと手元に届く。ひとつも欠けることなく、だ。品揃え豊富な商品の中には似通ったものだって多い。なのに、寸分違わず、間違いがない。毎週毎週パーフェクトだ。個数だって間違うことはない。一年か二年に一度くらい、「あれ、アレが入ってないわ」「あれ、これ頼んでないのに」ということもあるが、人間のしていることだ。間違いだってたまにはある。常にパーフェクトだから、たまのちょっとした間違いには、ロボットが荷造りをしているのではないことをうかがい知れ、寧ろ、人間味が感じられるから、あっさりと許せてしまう。
 
 ところが、こちらのデリバリーときたら、全問正解があった試しがない。こんなに頭の悪い、出来の悪いデリバリーなど日本では見たことも聞いたこともない。三歳児の「初めてのお遣い」だって、もっとマシだ。
 小学校の頃、毎晩、明日の持ち物を揃えるのが日課だった。明日は何の授業があるのか時間割を見ながら、授業に必要な教科書やノート、持ち物ノートに書かれている持ち物を揃え、ランドセルの中へ入れていく。私たちの食品デリバリーの用意をしてくれた人は、小学校の時に自分で荷物を揃える練習をしてこなかったのだろうか。きっと、この人は、旅行へ行っても、旅行先で歯磨き粉がないことに気づいたり、靴が片方だけしかスーツケースに入っていなくて役に立たなかったということになるだろう。そんな想像しながら、どんな人が商品を詰めてくれたのか気になってしょうがない。
 
 車を持たない私たち夫婦は週末の度にせっせとスーパーマーケットへ歩いて買い出しに出かけていた。こちらのスーパーマーケットで売られている商品はいちいち単位が大きく、いちいち量も多い。だから、あれもこれもと、購入したい商品が多い場合は、最終的にかなりの重さを背負わなくてはならない。それに、このスーパーマーケットにはこれはあるけどあれがない、あのスーパーマーケットにはあれはあるけどこれがない、といった具合に、大抵、ひとつのスーパーマーケットで買い出しが完結できない。特に、アジア系の食材や、東ヨーロッパ、中東、メキシコ、インドなどの食材を買うとなれば、それぞれのエスニックスーパーマーケットへ行かなくてはならないから、毎週末、三軒ほどスーパーマーケットを梯子する。せっかくぐだぐだできる週末の一日を買い出しという労働に費やす羽目になっていた。
 ある年の冬、強風によって体感温度がマイナス40℃ほどに感じられる日が続き、外へ出るにあたっての防寒支度にホトホト疲れ果てていた倹約家の私たちも、いよいよ余計な料金を払ってでもいいからデリバリーを頼もうということになった。配達料だけでなく、注文リストを見ながら商品を揃え、袋に詰める「袋詰め係」の料金までついてくるのだが、仕方がない。
 
 初デリバリーが届く日。配達予定日時に、私の予想を裏切って、ちゃんと家のチャイムがなった。
「おっ、ちゃんと時間通りに来るぞ!」
 感心するのも束の間。デリバリーの人はおうちコープのように玄関先にまで運んでは来ず、車からアパート下の階段まで運ぶと、階段の下へドンと商品を置き、当たり前のように「私の仕事はここまでだよ」と言った態度を示した。おうちコープはアパートだって、ちゃんと玄関先まで届けてくれるのに、彼の態度はアパートの建物の前までだと言い張っていた。
 仕方がないから、重たい荷物を持ち上げ、階段を登って自宅へと運ぶ。運びながら抱えた荷物に目をやると、乱雑無造作に押し込まれている商品たちが苦しそうにうなっていた。「僕、潰れちゃうよー」「重たいよぅ」と声がする。
「あぁー」案の定だ。
「ごめんねー、すぐに出すからね」と野菜たちに声をかけながら、すべてを家の中へ運び入れる。そして、備え付けられているレシートと届いた商品を照り合わせる。
 私の落胆は乱雑ガサツなパッキングに対してだけではなかった。なんと、注文したうちの四分の一の商品が入っていないではないか。更に、りんごとアルグーラは日本のスーパーマーケットなら廃棄処分かまたは75% offで売られているような状態だった。
 私は、即、苦情の電話を入れた。
私の茫然自失はまだまだ続く。
   「あぁ、全部品切れね」
「Excuse me?」そんなはずはない。
間髪入れずに聞き返す?「今、何と言った?」
 注文した商品のうちの四分の一、15項目の商品が入ってなかったのに、調べもせずに、
「あぁ、全部品切れだからね」と軽々しく言い放ち、「すみません」すら言おうとしない。
 何という態度なんだと、余計に憤慨する私にようやくクレームの電話だと気づいたのか、
「じゃあ、りんごとアルグーラは明日、新しいものを持って交換しに行くからどう?」と、面倒臭そうにさっさと片付けようとしているのが見て取れる。
「15項目全てが品切れだなんて、一体どんなスーパーマーケットなのだ」と言ってやりたいところを抑え、納得しないまま「とりあえず、しょうがない」と事実を受け止め、りんごとアルグーラだけ新鮮なものと交換しに来てくれるということで、私は折れた。
 ところが、だ。
 翌日、りんごとアルグーラを交換しにきた別のデリバリーの配達員は、りんごの代わりにトマトをぶらさげてやって来た。
「君はりんごとトマトの区別もできないのか?」
「それともなにか?君の上司はトマトをりんごだと言ってよこしたのか?」
 どこでどうりんごがトマトになったのかは分からない。だが、私の元へ届いたのは間違いなくトマトだった。
「なんでやねん!」
「三歳児の初めてのお遣いだって、りんごとトマトくらい間違えずに買って来れる」
 
 私はまたまた、苦情の電話をかけた。
最初の電話とは違い、今回は最初から不機嫌な怒った口調で話し始めた。それもあってか、私の電話は転送されまくった。転送された先々で、いちいちどんな内容の電話かと聞かれ、いちから説明のし直しだ。やれやれだ。苦情の電話も楽じゃない。転送5回目、
「後から担当者が掛け直しますので」と言われて、電話を切られた。
しかし、待てど暮らせど電話はかかって来ない。
 よくある手口だと聞いたことがあった。客に根気負けさせる手だ。
 エアカナダはクラウン航空会社のくせに不祥事をよく起こし、度々ニュースにもなっていたが、ある時、エアカナダの狡猾なルールに、返金を訴える女性が、
「エアカナダに苦情を言うのはフルタイムジョブよ。丸一日、何日も何ヶ月も根気良く闘わなくてはならなくて、時間と労力とストレスがかかるのよ、慰謝料をもらいたいわ」
とニュースメディアに訴えていた。客を諦めさせ泣き寝入りさせるのが目的だと囁かれている。
 私は泣き寝入りはしまいと、しびれを切らせて、翌日、また私から電話を入れた。冷静に低くシビアな声でゆっくりと、
「苦情の電話です、マネージャーを出してください」と一言言い放って沈黙した。
 すると、昨日とは一変。毎度のように長々待たされることもなく、転送されまくることもなく、マネージャーと名乗る女性が速やかに電話に出て来た。
 また一連の話を始める羽目になったが、今度は話が早かった。苦情の電話は償いをもってするべしという解決の鍵を理解したマネージャー職は、私の話が終わると、「すみませんでした」ときちんと謝罪し、
「それでは、りんごとアルグーラ代の返金に加え、次回ご注文頂いた際の袋詰め料と配達料無料でどうでしょうか」
と譲歩案を提示した。
 オンラインショッピングとデリバリーで楽チンに済ませるはずだったのに、えらい余計な時間と余計な労力と余計なストレスがかかってしまった。エアカナダのクレームと同じだ。フルタイムジョブだ。
 こんな簡単なことですら、何もかも一筋縄ではいかない。いちいち闘わなくてはならない。日本は本当にすごい国だとまた改めて日本のサービス産業の素晴らしさを実感した。
 
 しかし、私の中で、釈然としない思いが残る。私は一般のカナダ人にように、文句を垂れず、「しょうがないな」とすべてを受け入れ、諦めればいいのだろうか。三歳児以下のデリバリーシステムのために、私は自分の在り方まで深く考えさせられてしまったではないか。そもそも、カナダ人がアメリカ人みたいに文句を垂れないせいで、カナダのサービスの質はべらぼうに低い。しかも、何もかも一向に改善が見られない。アメリカ人は苦情を垂れるのが上手な上、すぐに裁判だと脅すから、アメリカの会社のクレーム対応はカナダとは全く違う。
 届かなかった15品目には重たいものが揃っていた。重たいものこそ確実に届けて欲しかったのに、結局またエスキモーコートとエスキモーブーツを履き、重たいものを背負い雪の中を歩かなくてはならない羽目になった。
 何のためにデリバリーを頼んだのか。悶々としながら、文句を垂れるべきか垂れずにありのままの現実を受け入れるべきなのか、私は寺に修行に入る前日のように考えあぐねながら歩いた。配達料だけじゃない。袋詰め係りの人の料金もかかる。なのに、日本のおうちコープには足元にも及ばない。「金を取る前に、サービスを見直せ」と心の中で叫びながら、私はまたホームシックになった。
 あぁ、日本のサービス業界のサービスが恋しい。
 
 それからも、デリバリーを頼む度に、三歳児以下のデリバリーが続いた。そして、私の苦情電話は続いた。
 注文したものは入っていないくせに、過去の注文履歴上にもない商品や、買ったことのない商品、初めて見る何とも得体の知れない商品が入っていることも多々あった。こんなものが売られているのかと新たな発見をすることもあったが、必ず、余計な付属品と合わせて、出来の悪い間違いだらけだった。
 相変わらずの「在庫切れ」に加え、個数が違うだの、野菜が腐っているだの、届いていないのにレシートには料金だけ加算されているだの、押し潰されて割れていたり、袋が破けていたり、毎度毎度、「なんでやねん」の連発だった。その度に、次回の注文時に15ドルoffだのなんだのと代償を勝ち取るも、私の気持ちは一向に冴えない。
「何故、もっと苦情の電話を活かして、サービスを改善させないのだろうか!」
 何年経っても向上しないどころか下り坂のサービスを相手にくたびれかけた頃、突如、私は答えを得たような気がした。そして、「もう二度と闘うまい」と決心したある日のこと。
 またしても、デリバリーはやってくれた。もう苦情の電話はしないと決めた矢先のことだった。
 きっと私は試されているのだろう。そうは思ったものの、売られた喧嘩はやっぱり買わずにいられない。
 今回は、特に大量に注文した訳ではなかったが、日本から戻ったばかりで、冷蔵庫の中には野菜が何もなかった。だから、野菜を中心に26品目を頼んだ。
 ところが、だ。
 野菜だけひとつも届かなかったのだ。ひとつも、だ。パスタと缶詰は届いたが、野菜が全滅だった。野菜が全部在庫切れだなんて、一体どんなスーパーマーケットなのだ。そんなことなら、「乾物屋」と名前を変えてしまえ。だいたい、何故、ウェブサイトに在庫切れだと表示しないのだ。「売った以上、各店舗を回ってでも揃えて来い」と言ってやりたい衝動に駆られ、また苦情の電話をすることにした。実家の近くにある「しまむら」は買いたい商品が品切れだったり、自分のサイズが店頭になければ、他の店舗を当たって探してくれる。
 野菜が欲しくて注文したのだ。注文したうちのほとんどが「在庫切れ」で、その全部は野菜だ、こんなことなら、配達自体をキャンセルしたかった、なぜ電話をくれないのだ、私はいきりたった。
 こんなことなら他のスーパーマーケットにすればよかった、しかも、競合相手の方が配達料は安いのだ、いいたい放題言ってやった。
 電話の向こうはひどいインドなまりの英語だった。私は彼女の言っていることが一度では理解出来ず、彼女は彼女で私の捲し立てた一方的な言い分をちっとも理解できず、いちいち聞き返して来た。
   「何が届かなかったのか、全部言ってみて」
という無駄でアホな質問に、
「オンラインで注文していて、注文番号を教えたんだから、あなたが確認できるでしょ」
つっけんどんに言い返す。
   「アクセスしようとしているんだけど、まだ見れてないの。ちょっと全部列挙して教えてくれる?」
 仕方がないから、届かなかった野菜の名前を列挙した。私の英語が下手くそ過ぎるのか、いちいち野菜の名前を聞き返す彼女に向かって、私は野菜の名前を大声で何度も叫ばなくてはならなかった。時には、
   「スペルを言ってくれる?」
という彼女に、野菜の名前のスペルを一文字一文字ゆっくりと、無線通信に使うフォネティックコードを使って、叫ばなくてはならない始末だった。
   「P?」
「No, Not “P”, “B” for “Bravo”」
ってな具合だ。
 何故、こんなに野菜の名前とスペルを呼び叫ばなくてはならないのだ。私は苦情の電話をしてるのだぞ。私はあまりのくだらなさに呆れて笑えてきた。
 このスーパーマーケットはカスタマーサービスがインドに置かれた中央のコールセンターに集約されているようで、苦情係はきちんと苦情の対処を心得ているようだった。
 全部の野菜を書き終えた彼女はやっとカスタマーサービスの苦情係の仕事に取り掛かった。
   「本当ね、野菜が全部お届けできていなかったのですね」
   「これはひどい、あなたが怒るのも無理ないわ。キチンと苦情を上に上げておきます」
と丁寧に答え、やっとアクセスできた私の注文履歴に書かれたメールアドレスに、即座に15ドルのクーポンをくれた。
 やっと、話が通じてきた。アメリカの会社のクレーム対応と同じような訓練がされているのだろうか。まずは文句を垂れるクレーマーにたっぷりの傾聴、そして受容と共感とを示し、すぐさま補償についての提案を始める。話が早い。
 クレームが解決できた安堵感からか、急に穏やかで静かな怒りが湧いて来た。デリバリーの度に溜め込んだこれまでのストレスだった。私は「お客様は神様だ」と、偉そうに話を始めた。
 たとえば、10品目頼んで、1品目しか揃わないのに、わざわざ1品目を配達されてしまえば、配達料と袋詰め係の代金、そしてそれにかかる税金を払わなくてはならない。その結果、その1品目はとんでもない値段になってしまう。欲しいものが無いなら無いで、揃わないことが分かった時点でキャンセルの選択も欲しい。オンライン上で瞬時に在庫がないことが表示されるようにして欲しい。大手スーパーマーケットなのかと疑うほど、毎度毎度、在庫切れが多過ぎる、もっと在庫管理を徹底して欲しい。などという苦情に、「私が文句を垂れるのはあなたたちの企業の成長のためよ」と、正当化した言い訳までつけ加えて訴えた。
 日本では苦情を言う客を神様のように扱うほどだ。何故なら、それによって、より良く改善できるチャンスだからだ。ちゃんとこのチャンスをモノにしろよ。私だって好きで文句垂れているんじゃないんだぞ。文句垂れるのだって、大変なのだ。カナダでは苦情を言うのはフルタイムジョブだ。
 
 カスタマーサービスのひどいインド訛りの女性は仕事が出来た。すぐさまクレーム処理をしたようで、同じ日に、商品を送り出した店舗の責任者から謝罪の電話がかかって来た。
 ところが、トレーニングされていないカナダ人マネージャーは、一言、ぶっきらぼうに謝ったものの、「野菜が揃っていなかったのは積荷をした何とかという女性の責任で、もし本当に野菜が全部品切れだとしたら、電話をすべきだったのにそれをしなかった、彼女のせいだ」ということを力説しただけだった。欧米では、とにかく謝罪ついでに「私は悪くない」を訴える。正確に言えば、「私は悪くない」の主張のついでに、ちょこっと謝っておくといったところだ。要は、
「私は上に言われて謝罪の電話をしているけど、私のせいじゃないのよ」ということが言いたかっただけのようだった。苦情電話の受け答えをトレーニングされていない北米の管理職は皆、こうだ。自分には責任がないことを訴えることが一番大切だ。これもまた日本の常識とはえらく違うところだと、腹の中の虫が何やらわめき出しているのを感じながらも、私は闘いを止めにした。このマネージャーに何を言ったところで無駄であろう。彼女は自己正当化で必死だ。私は聞くに徹した。でも、何故、謝罪の電話をもらったはずの私が、仕事のできないマネージャーの言い訳を傾聴しているのだろうか。私の方がクレーム対応係のような気がしてきた。カナダのサービス業界め、アメリカのカスタマーサービスを見習え。
 
 おうちコープの驚くべきことは、まだまだある。
 配達のお兄さんは受け取った注文用紙を無くしてしまうことなんて一度もない。チラシに載っている商品の写真と配達された実物がえらい違うなんてことだって一切ない。毎週毎週、写真通りのものがちゃんと届く。しかも、完璧に、だ。チラシにあるから注文したのに、「在庫切れでお届けできません」なんてことは一切ない。万一、同じ時に全国のおうちコープで注文が集中し過ぎて商品が間に合わないということがあっても、入手できた途端にすぐに届けてくれる。決められた配達の曜日でなくたって、わざわざ届けてくれる。
 
 注文したものが間違いなくきちんと手元に届く。そんな日本では当たり前の日常がここではまるで奇跡だ。
 その奇跡に遭遇した時、私は夫と思わず祝杯を上げた。今のところまだ一度きりだが、本当に何一つ間違いはないのかと、間違いのないことが信じられず、二人で何度も何度も注文履歴とレシートと、配達された商品を照らし合わせ確認してしまったほどだ。何と言う奇跡なのだろうか。間違いがないなんて。
 
 引っ越しをし、食料の買い出しにも便が良くなったお陰で、あまりスーパーマーケットのデリバリーを利用しなくなった。しかし、ある時、またオンラインで食料配達の注文をした。ひどいインド訛りのカスタマーセンターをインドに構えた大手スーパーマーケットのチェーン店だ。
 以前のようにオンラインで注文をする際、在庫の有無が即座に分かるようになっていることに気づく。私は、昔、「お客様は神様だ、お客様のご意見を有難く聞け」と、偉そうに訴えたことを思い出した。私一人が文句を垂れたせいではないだろうが、もしかしたら、私の苦情も、あのひどいインド訛りの優しい女性がきっちりと上に報告してくれ、一役買ったかもしれない。そう思ったら、あのひどいインド訛りの優しい女性に無性にお礼が言いたくなって来た。
 「もう、闘うまい」と決めた矢先にやってしまった苦情だった。神様に試されていたのに、また闘ってしまったあの時だった。でも、このウェブサイトの改良を見る限り、結果オーライだったことにしよう。
 ところが、この久しぶりのデリバリーでも相変わらず、数が違う、パッケージの袋が破れている、野菜は明らかに古い、注文していないものが入っている、などの間違いがあった。一回のデリバリーで盛りだくさん。やれやれだ。
 夫と相談し、今後は、商品を破棄しなくてはいけないほどのよっぽどのレベルでなければ良しとしようと決めた。初めて、デリバリーの大間違いを闘わずに受け入れた。
 「闘わない」
 ようやく、実践できるかもしれない。そんな気がして来た。このまま、穏やかで平和な日常が続きますように。そして、闘いを放棄した私の腹の虫はうんこに乗って私の中から完全に出て行ってくれますように。


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