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ただ満足のほうへ 個人の時代を生きる

石山アンジュさんの『シェアライフ』という本を読んだ。渋谷のシェアハウスで、0才から60才まで、約60人のメンバーと「家族」として暮らしているという。

60人を「家族」といわれると❓マークがつく。彼女のいう「家族」は、血縁ではなく、「意識」でつながり仕事や生活を支え合いながら生きていくコミュニティー、だそうだ。意識の話はまあ良いとして、生活の場にたくさんの人が入りまじるのが心地よいかどうかは人それぞれで、私はほぼ無理だ。

でも、この本で共感するのは前提としての「個人の時代」ということだ。「個人と個人が共感や信頼を物差しにあらゆるものをシェアしながら生きていく」時代。

60人という拡大家族の中には独り身の人もいるし、家族持ちの人もいるだろう。でも、みんな「個人」として存在しそれを支える「家族」。根本にある考え方には共感した。

自分の話をすると、母はいわゆるアダルトチルドレンだった。しばしば、生きてても仕方ない、お母さんは何もできてない、と言って泣いたり、部屋から出てこなかったり、と調子が悪いことが多かった。

精神的なアップダウンが本人も辛そうだったし、それに振り回される家族も何かと気を使った。さらに私は長女だったから、母の欠落感の裏返しとして期待や感情移入をモロに受けていた。

そんな姿を観察してきて、家族といても寂しい人はずっと寂しいのだと思った。言うなれば、置き去りしてきた自分を見失ったまま見つけることができない、という苦しさで、人との関係ではなく自分自身との関係の問題だ。

安らぐ暇はなく両親を一人の人として観察してきた。一人一人だと思うと「家族」という単位は時に窮屈で、演技の片棒をかついでいるような気持ち悪さがあった。子供なりに家族っぽく和やかになるように気を使っていたのにも疲れた。

そうして私も大人になった。ここまで生きてこれたのも両親のおかげだと思う。

でも今、なによりも思うことは、一人の人として満足して生きることが一番尊い、ということだ。言葉としてはフワフワして聞こえるが、母の姿を見てきた私からすると、ちっとも簡単なことじゃない。

逆に、自分に満足していられる人は周りの人を安心させたり大丈夫だと思わせてくれる。社会的な成功とか、子供がいるとか、家族の調和、とかじゃなくて、ともかく満足して生きられる個人個人が一番尊い。その人が周囲に与えるポジティブな影響を信じている。

そう整理してみると、私の人生は、もうただ自分の満足に向かえばよいのだと気づく。仕事の不安や周りとの関係などもろもろ振り切って、ただ満足のほうへ。そして、これは石田ゆり子さんの言葉だが、「個」として立つ、ということだ。この問題意識を「個人の時代」は後押ししている。

正直、「家族」とは何か、という問いも意外とどうでもいいことかもしれない。人生を応援してくれて親密な関係の人を時に「家族」みたいだなと思う。法律的に家族かとは関係なく、助けてもらい助け大切にする。人生応援団として。ただそれだけのことだ。


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