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お前のバカで目が覚める! 第18回「日本語ギャランドゥ論」

【注記】
これは、ぴあが発行していた情報誌「weeklyぴあ」に2003年7月14日号〜12月22日号の半年間連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在のポリティカル・コレクトネスや倫理規範に照らし合わせて問題のある表現が数多くあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

日本語ギャランドゥ論

 どうしたことだろう。このところ毎日が眠い。一日中おおむね眠くて仕方ないのだ。朝電車に揺られてはうたた寝し、授業に出ながら睡魔に襲われ、帰りの車内も寝ずにはいられず、夜は夜とて眠くなる。おいおい、お前は一体いつ目覚めてるんだ。ほとんど眠気の合間を縫って生きているようなもんじゃないか。できれば電車の中では読書や考え事をして有意義に過ごしたいのに、あっさり眠気に負けてしまう自分がふがいない。抗おうとしても心の中のルーシー・リューが「寝ッチマイナ!」と命じてくる。・・・・・・ちょっと苦しいが、そのギャグの苦しさも含めて諸々ふがいない。

 だが、なにもこれは私に限った話ではない。ふと見渡せば、電車内で昼間っから乗客がこぞって爆睡しているのはきわめてポピュラーな光景であり、場合によっては「座席一列全滅」などという事態も十分ありえる。人々の頭がことごとくダラリとしなだれている様子は、さながら「去勢専用車両」。脇に「お悩みの方へ」などとキャプションをつければバイアグラ推奨のイメージ広告になりそうだ。大丈夫か日本人。ちょっと眠たすぎではないのか。これはいよいよ、世の中が夢とうつつのメリハリもつかない、あやふやな世界へと溶解しかかっていることの証なのだろうか。

 あやふやといえば、他ならぬ日本語の得意技である。たとえば、「ぽっちゃり美人」という言葉。それまで「やせてる」か「太ってる」しかカテゴライズの言葉を持たなかった体型評価の世界に、彗星のごとく現れた「ぽっちゃり」という不敵なグレーゾーン。それまでザックリと「あちら側」にくくられがちであった者までが、「ぽっちゃりしていてかわいいね」というトリッキーな論法でもって次々と「こちら側」に返り咲きはじめたのだ。このことがどれほど多くの女性に生きる活路を見出したことか。

 いやあ、日本語の半分はやさしさでできてるね。あやふやバンザイ。曖昧模糊でもええじゃないか。もっと模糊模糊しようじゃないか。英語に比べてハッキリ断定しない、趣旨をぼかすなど、とかくグローバルな視点で批判されがちな日本語だが、黙れ黙れい。どこまでがヘソ毛でどこからが陰毛なの? そんなシビアな境界線に対して、「陰毛見えちゃってもヘソ毛ってことにしてセーフ」みたいな「ゆるし」のスタンスをとることで、日本人は今までうまいこと相互理解をこなしてきたのである。白黒ハッキリ、正確にわかりあおうとするからギスギスするのでしょ。見てみなさいよ日本語を。まったり、しっぽり、もっさり、がっつり。この素晴らしきニュアンスの世界。いっそ「のっぽり」とか「まっこり」とか語感だけでうやむやにわかりあえば、真に平和なグローバルコミュニケーションになるんじゃない?

 今、日本人が絶えず眠たいのは、ぬるくて過酷な現実を夢に溶かしてうやむやにするための悲しい知恵なのかも知れない。

(初出:『Weeklyぴあ』2003年11月10日号)

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【2023年の追記】

前半と後半でまったく違う話を「あやふやといえば」というマジックワードで無理やり繋げているキメラのような反則回。この原稿自体が曖昧なニュアンスのみで成立しているという意味ではメタ色が強いですが、当然、当時の私はそこまで考えて書いてません。

「ほとぼりが冷めるまで」といった言い回しに漂う、明確な善悪の基準を設けずに世間様の顔色をうかがって空気的にOKとなればグラデーションでうっすら解禁していきましょうみたいな、ジャンポケ斎藤は問題ないし、東出昌大もそろそろいいけど、アンジャッシュ渡部はやっぱりまだ無理みたいな、そういう言語化できない線引きの曖昧さを、オリジナリティあふれる日本の美徳……と思っていた時期も昔はありました。

でも、ここ10年くらいの世の中を見ていると、むしろそうやって責任の主体をどこにも置かないうやむやなスタンスが、日本をこんな状態にしてしまったのかもなあ、と暗澹たる気持ちにもなるのです。

からかさ連判状!

あ、いきなりすみません。昔、日本史の授業で習ったじゃないですか。誰が一揆の首謀者かお上にバレないように、農民が傘の形に寄せ書きスタイルで署名した訴え状みたいなやつ。日本人は、すべての物事をあの発想で押し進めてきたんだなあ、と思うわけです。「iモードの仕掛け人」と言われている人が何人もいるのは、いざというときiモードの責任を誰も取らなくて済むようにだったんじゃないか。孫正義とか、宮崎駿とか、日本にああいうワンマンタイプの天才がなかなか現れないのは、画一的な教育のせいとかじゃなくて、一人だけ突出して責任取らされたらたまんない、という根っからの国民性のような気がしてやまないのです。

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