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お前のバカで目が覚める! 第14回「着こなしませんシャツまでは」

【注記】
これは、ぴあが発行していた情報誌「weeklyぴあ」に2003年7月14日号〜12月22日号の半年間連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在のポリティカル・コレクトネスや倫理規範に照らし合わせて問題のある表現が数多くあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

着こなしませんシャツまでは

 先日立ち寄った書店に、一人の女子高生がおったのですわ。そいつがパッと見「女子高生」というよりは「じょしこおせぇ」くらいの表記が相応しいような女で、メール打つときは「ナ」と「二」で「た」をあらわしますみたいな、「ξ」と「υ」で「縮れた陰毛」をあらわしますみたいな、まあ後半ウソをついたが、そんないかにもな「じょしこおせぇ」だったわけ。

 で、その女の格好ってのが、たぶん学校の制服なんだろうね、白のシャツにチェックのスカートという今にもドタキャンしそうないでたちだったんだけど、例によってスカートの丈をミニミニにしてるのよ。もうお部屋探しができそうなほどミニミニなのよ(わかりづらいか)。でもね、そこまではおぢさん許しましょう。見せたいんだよね、「太い足」という名の若気の至りを。いいよいいよ、その若気、至れり尽くそうよ。

 だが問題は、腰のところでスカート巻いてるのがモロ見えだよ! ってことなのだ。もうとぐろ巻いてるのだ。ほぼ「しめ縄」なのだ。待て待て待て。よーく考えてみようよ。そこはさあ、「スカート短い」状態における「舞台裏」でしょうよ。そんな縁の下のけなげで見苦しい頑張りは見たくないのこっちは。足見せるのと、しめ縄見えてるのとは、彼女のファッション感覚の中でバッティングしてないんだろうか。捕鯨反対だけど豚食うのはオッケーみたいな、それで折り合いついてるのか。

 ファッションってさ、よっぽどセンスがないと、ヘタに動けば動くほどボロが出るでしょ。場に一人微妙なファッションの人間がいただけで、そこには「誰もが触れたいのに見て見ぬふり」みたいなぎこちないムード渦巻くアンタッチャブルな領域がぽっかり出現するわけで。そんなデリケートでシビアな批評活動にさらされるリスクが重たすぎるから、私はファッションにうかつに手を出さない。いつも「ビバ無難」をスローガンに、バラエティ番組における恵俊彰の存在感のような、毒にも薬にもならない服装を心がけている。

 だのに、雑誌を一冊小脇に抱えただけで、そのチョイスにも着こなし方が問われてしまうのがファッションのいやらしいところなのだ。たまたま通りがかった書店で、自分の彼女が立ち読みしていたのが「婦人公論」だったらどうだ。思わず声をかけるのをためらってしまうだろう。「わかさ」や「爽快」をむさぼるように読んでいても萎えるし、「第三文明」もまずい。「漫画ゴラク」とかだったら他人のフリである。

 このように世界は「彼女に立ち読みしていてほしくない雑誌」であふれているが、さてそれでは「ぴあ」を読んでる風景をいろんな人々に当てはめてみるとどうだろう。おじさん、若者、老人、中学生、ホームレス、天皇、犬。不思議とどれもしっくりくるではないか。どんな絵柄にもニュートラルに対応できる雑誌なんて「ぴあ」以外になかなかないよ。って、どういうヨイショの仕方なんだ、それは。

(初出:『Weeklyぴあ』2003年10月13日号)

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【2023年の追記】

女子高生に先祖の墓を荒らされたのか?と思うほどの苛烈な女子高生いじり、女子高生ディスがひどく、今だったら間違いなく炎上不可避な原稿です。

ですが、せっかくこんな時代遅れの原稿を掘り起こしてきて載せるからには、単に「ミソジニー」「ルッキズム」と一蹴して思考停止してしまうのはもったいないな、とも思うわけです。

ただスカートの丈を短くして脚を出しているだけの女子高生を、ここまであしざまに(脚だけに)あげつらい、こき下ろしていいと当時の私に思わせた時代の空気とは何だったのか。この時代の校閲はちゃんと仕事をしていたのか。恵俊彰のことをこんなにイジってもスルーしてくれた当時の「ぴあ」は、忖度しないむしろいい雑誌だったのではないか。そういったことを、ちゃんと振り返り検証するべきではないでしょうか。

世の中でポジティブな「是」とされることを、うがった見方でいじくり回し「非」と言ってみるのがおもしろい。そういう時代の空気は当時たしかにありました。私もそういう空気に思い切り乗っかってました。今でいうそれは「冷笑主義」と言われるものだったかもしれません。

では、なぜその対象に「女子高生」が選ばれたのか。

キラキラした青春を送り損ねた、今でいう非モテで陰キャの弱者男性にとっては、当時の女子高生は「強者」に見えていたからです。「女子高生」であるというだけで高いブランド価値があり、あくせくと地道に働くサラリーマンなんかよりも、よっぽど消費社会に発言権があって、若くて怖いものなしの底抜けのバイタリティを持った、大きい顔をしてもいい存在である。まさに「女子高生バブル」とも言うべき幻想をマスコミが作り上げ、喧伝していたと思います。

驚くべきことに、当時は弱者男性だけでなく、普通のサラリーマンですら、「自分たちは女子高生たちにうっすら見下されている立場の弱い存在だ」と本気で思っていたし、当の女子高生自身も「私たちって最強!」という謎の万能感を抱かされていたような気がします。

本邦における「ミソジニー」って、女性に対する単純な見下しや蔑みではなく、こうした上下関係や権力構造のねじれた認識による羨望や嫉妬、やっかみという側面が非常に強いと思います。彼らにとっては、本気で女性のほうが特権を持った強い存在に見えているんですよね。そこを理解しないことには、日本のミソジニーの特殊性は見えてこないんじゃないかと思うのです。

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