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男のコンプレックス Vol.1「寝言系男子のリスク管理」

【注記】
これは、マガジンハウス「POPEYE」2010年2月号〜2012年5月号に連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在では男尊女卑や女性蔑視、ジェンダーバイアスに当たる表現もあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

男子よ、ポテンツを抱け!
…ただし寝言に気を付けながら

 言うまでもなく、我われ男子はモテたい生き物である。勉強、スポーツ、文化、科学、産業、政治…あらゆるものの進歩や発展は、すべて「モテたい、そしてなるべく抱きたい」という動機によって行われていると言っても過言ではない。

  でもね、悲しいかな、実際のところモテを手にするのは、実力や才能といった「ポテンツ」がビンビンに張ったほんのひと握り。大多数の「ポテンツレス」な男子たちは、自分の人生がどうやらインポであることを自覚し、モテるのではなく「モテそうに思われる」イメージ戦略にシフトして、なんとか生きのびるしかないわけです。

  で、問題発生ですよ。そもそもが、フワフワとした実体のない足場に支えられている「モテたさ」「男らしさ」のポテンツは、ちょっとしたことですぐ萎える。最近の男子が傷つきやすいと言われるゆえんだ。そして最大の問題は、付け焼刃の男らしさは、気を抜くと簡単にボロが出てしまうということだ。

  そんなボロがもっとも出やすい状況、それが「寝言」である。寝言で違う女の名前を呼んで浮気がバレた、なんて話はよく聞くが、寝言の本当のリスクはそんなことではない。たとえば、私はかつて彼女にこんな寝言を聞かれていたことがある。

 「…な、なんでもするから!」

  私はどこの女王様に懇願する夢を見ていたのか。これまで彼女に対して築き上げてきた私の「本宮ひろ志」的なマッチョ性が、脆くも崩れ落ちた瞬間である。夢の中の俺よ、なぜ心にもないことを言う。これではまるで、私の本性が「なんでもするM奴隷」みたいではないか。

  無意識に漏れてしまう「モテなさ」「男らしくなさ」までは自己管理できない。だからこそ、彼女にヘタレな寝言を聞かれてしまうことのリスク管理について、我われはもう少し真剣に考えるべきではないだろうか。

  少なくとも、寝る前に「着ているTシャツを破り捨てる」「木刀を素振りする」「『レスラー』『クローズZERO』を見る」など、自分の中の「漢(おとこ)」指数を高めてから床につくことをおすすめしたい。我われ男子のポテンツは、けなげな努力によってやっと支えられているのだから。

(初出:マガジンハウス『POPEYE』2010年2月号)

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【2023年の追記】

この連載は、当時の『POPEYE』編集長が、大学生時代に『ぴあ』に連載していた私のことを覚えていてくださり、その頃ただの編集プロダクション社員だった私に「なんか書きなよ」といきなり連載枠を与えてくれた大変ありがたい仕事でした。

内容は、世間一般の「男らしさ」にコンプレックスを抱えた男子代表である私が、「男って実はこんな些細でチマチマしたことを気にしている生き物なんですよ」という愚痴や不満や心配を書き綴るものですが、“あるあるネタ”で共感を誘うというよりは、どんどん過剰に考えすぎていく妄想ネタ、という趣向でした。

男性誌という性質上、ホモソ的価値観におけるモテヒエラルキーに乗れなかった「非モテ男性」の立場で書いているので、連載を通して男性側の被害者意識ばかり書いている卑屈で自虐的な文章になっていることをあらかじめお断りしておきます。男性の持つ偏見や勘違い、思い込みを”おもしろ”で誇張した虚構性の高いコラムとはいえ、今読むとポリコレ的にもモラル的にも問題のあるミソジニーな表現が多いです。

ただ、当時の私にとって「笑いをとる」とはこういうことだったのだ、という時代の気分や自分自身の変化を記録しておく意味でも、原文のまま掲載します。

今でこそ、フェミニズムやジェンダー論といった言説には意識的にコミットしようとしているつもりですが、これを連載していた当時はガチで非モテメンタル丸出しの、今でいう「インセル」や「弱者男性」になり得る自認がありました。

それでも、小さい頃から運動が苦手、体育会系マッチョイズムが心底嫌いで、中高生時代は完全にモテヒエラルキーの蚊帳の外にいる「イケてないキャラ」だったせいで、「男らしさ」の欺瞞みたいなものには独自のアプローチで早くに気付いていたと思います。

その状態からいわゆる「女叩き」に走らず、フェミニズムや男性学に興味を持つようになったのは、たまたまというか幸運としか言いようがありません。

初回のこの原稿も、「男らしさ」が「実体のない足場に支えられている」もので、実際にモテることよりも同性間で「モテそうに思われる」ことの方が重要だ、という指摘は、実はなかなかにホモソーシャルの本質を突いていたな、と思います。

要するに、我々がモテるために必要だと思っている「男らしさ」というのは、世間一般から押し付けられたジェンダーロールにすぎないので、「夢」という無意識や内面が露呈する領域ではあなたも無理を感じているかもしれませんよ、というお話ですね。

そこからさらに考えを進めて、「女らしさ」に押しつぶされている女性の苦しさにも当時思い至ることができていたら、今ごろは俺も「桃山商事」になれていたのに!と思わなくもないです(笑)。

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