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【第4話】もう一人のおいらがいるのニャー〜とわ子とかごめのシスターフッド〜

「ニャースのうた」はかごめのテーマソングか

萩の月と通りもん。グアムとサイパン。埴輪と土偶。普通のコロッケとカレー味のコロッケ。囲碁の白と黒。勝って落とす三ツ屋早良(石橋静河)と、負けてモテる田中八作(松田龍平)。第4話には、よく似ているが確かに異なる2つのものが、気がついたらあちこちに配置されており、それは大豆田とわ子(松たか子)と綿来かごめ(市川実日子)の関係をほのめかしている。

とわ子が小学校2年生のときに書いたと思しき書き初め「もうひとつの人生」とは、普通に考えれば「あり得たかもしれない別の人生の選択肢や可能性」のことだ。だが、ここでは「お互いを分身のように思い合う、しかし決して同じではないもう1人の存在」のことを指しているのだろう。

なぜなら、かごめをデートに送り出した後、とわ子が部屋で歌う「ニャースのうた」には、こんな歌詞があるからだ。

ひろい ひろい 宇宙の どこかに
もう 一人の おいらが いるのニャー

ニャースは、親も兄弟も知らず、田舎の街で一人で暮らしてきたポケモンだ。ある日、メスのマドンニャに恋をして告白するが、「人間のような暮らしをさせてくれたら考えてあげる」と袖にされる。真に受けたニャースはがんばって二足歩行を習得し、人の言葉を話せるようになるが、再度アタックすると「人間の言葉をしゃべるポケモンなんて気持ち悪い」とフラれてしまうという設定だ。

それを踏まえて「ニャースのうた」の歌詞を読むと、とてもとても切ない。

一人きりが こんなに せつないなんて
こんなに せつないなんて
こんなに…
いまごろ みんな なにして いるのかニャー
いまごろ みんな なにして いるのかニャー
誰かに 電話 したくなっちゃったニャー

一見、とわ子がここにいないかごめのことを思って歌っているようにも聞こえるが、これはむしろ「みんなが当たり前にできてることができない」という孤独と寂しさ、生きづらさを抱えたかごめのテーマソングである。

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「じゃんけんのルールがわからない」かごめの孤独と苦悩

かごめが「みんなが当たり前にできてることができない」の例えに挙げるのは、「じゃんけんのルールがわからない」。同じ坂元裕二脚本の映画『花束みたいな恋をした』で、「グーがパーに勝つことが理解できない」と言い出した山音麦(菅田将暉)に、八谷絹(有村架純)が同意したのをきっかけに2人は意気投合し、恋に落ちていったのを思い出す。欠けているもの同士が惹かれ合うのは、坂元裕二作品でおなじみの愛すべき光景だ。

だが、かごめにとっては恋愛そのものが「じゃんけんのルール」なのだ。「この人好きだな、一緒にいたいなと思ってても、五条さん男でしょ。私は女でしょ。どうしたって恋愛になっちゃう。それが残念」と、ヘテロセクシュアルを前提としたこの社会で、アロマンティックである(そしておそらくアセクシュアルでもあるのだろう)ことの生きづらさがはっきりと言及されるのはドラマでは珍しい。

しかも、「べつに理由はない」「それが私」と、ことさら特殊な事情を背負わせたりせず、さりげなく描かれる。とわ子が、それに対して「そう」とだけ返して受け止めるのもいい。

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ミジンコのように気がついたらそこにいる存在

4話には、「気がついたら●●」「つい●●しちゃう」という無意識/無自覚のモチーフも頻出する。うっかり押しちゃってた系の写真、かけたらそこにあるスマホ、よくたまっちゃう保冷剤、何もしなくても自動的にモテる「モテ方が自然現象」「オーガニックなホスト」こと八作、そしてつい1人を選んじゃう、「気がついたら」が多すぎるかごめ。

ミジンコの語源は「微塵(細かいチリ)」であり、耐久性のある卵を植物の種のように風や鳥に運ばせる(まさに空を飛ぶ)ことで、離れた水たまりでも繁殖するのだという。「空野みじん子」というペンネームは、この広い世界にあまねく存在し「気がついたらそこにある」ものということかもしれない。このドラマにおける「丸いもの」や「3」という数字、あるいは、かごめにおけるとわ子の存在のように。

かごめにとって、2人でひとつのペンネームを持ち、「友達じゃないんだよ、家族なんだよね」とまで語るとわ子は、性愛を介さなくていい大切なパートナーであり、自然現象のように人生を並走してきた「もう一人のおいら」「もうひとつの人生」なのだろう。わざわざ巡りあうかけがえのない恋愛関係もいいが、気がついたらそこにいるありふれたミジンコのような関係もまた尊いのだ。

スマホをなくしても3日気づかない。入社3ヶ月目で退職。生後3ヶ月の乳児を誘拐。実家の資産3億円を全額寄付。3日風呂に入ってないという八作の嘘。3回ズボンをずり落としてしまう鹿太郎。不在だったかごめの家を去るとき3回振り返るとわ子etc……。今回も「3」という数字があらゆるところに潜んでいるのは、望むと望まざるとにかかわらず私たちは一人ではなく、この世界のあらゆる場所に遍在しているのだというメッセージだろうか。

私たちは、このドラマにおける「3」という数字のようにどこにだってありふれているし、空を飛ぶミジンコのようにどこにだっていける。だから、「空野みじん子はもう2人じゃない。私1人のソロプロジェクトになったの」というかごめの決意は、決して悲しい決裂や後ろ向きな解散ではない。とわ子が3度離婚を繰り返しても元夫たちと今でも一緒に生きているように、「残らない別れなんてない」のだから。

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「社長」はとわ子がやらなきゃいけない仕事

『花束みたいな恋をした』以外にも、本作にはこれまでの坂元裕二作品を思わせるセリフやモチーフが登場する。かごめの名字は綿来だが、実はこれ、『カルテット』の世吹すずめ(満島ひかり)の出生時の名字でもある。

「私、実家でお葬式あげられるのだけは嫌だから」と語り、親戚との間に何らかの確執を抱えているのであろうかごめを、とわ子は「家族なんだから」といった一般的な規範で咎めずに、彼女の味方をする。一方『カルテット』にも、同じく松たか子演じる巻真紀が、遺恨を持つ父親の死に目に会いたがらないすずめに、「病院行かなくていいよ。かつ丼食べたら軽井沢帰ろ」と寄り添い、擬似家族・居場所としてのカルテットの4人のもとへ戻ることを促す場面がある。

とわ子とかごめ。真紀とすずめ。名字を同じくする2人を介して、並行世界から転生したかのような2組のシスターフッドが熱い。

また、とわ子の職業がなぜ、日本ではまだまだ女性にとってポピュラーとは言い難い(わざわざ視聴者の共感から遠いポジションである)「社長」なのかについて、Real Sound映画部のこちらの記事で、成馬零一氏が重要な指摘をしていた。

かごめ「あなたみたいな人がいるってだけでね、あ、私も社長になれるって小さい女の子がイメージできるんだよ。(中略)それはあなたがやらなきゃいけない仕事なの」

これは劇中のセリフだが、ドラマの中で女性が社長として働く様子が当たり前のように描かれることが、視聴者(特に将来、職業選択をする女の子)へのエンパワーメントになる、というメタ的な意味合いにも受け取れる。成馬氏はそこに作り手の使命感を感じて感動した、と述べているのだ。

このセリフで私が思い出したのは、『問題のあるレストラン』だ。弁護士の烏森奈々美(YOU)が、「復讐って、怒るだけじゃ出来ない。ちゃんと楽しく綺麗に生きることも復讐になる。田中は楽しく綺麗に生きることを目指しなさい。わたしは怒る方をやる」と田中たま子(真木よう子)に語りかけ、宿敵である企業を提訴する決意を固めた場面である。

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楽しくて綺麗な世界を見せることで現実を変える

坂元裕二はこれまで、『問題のあるレストラン』『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』『anone』などのドラマで、女性差別や不当労働、貧困、経済格差、搾取構造などの切実さを描いてきた。しかし、これらはドラマ通からの評価こそ高く熱烈なファンも多いが、放送当時はいずれも視聴率としては大苦戦を強いられたのも事実だ。「フィクションの中でまでしんどい現実を見たくない」という視聴者(本来届けたかった層)に作品が届かなかった苦い経験と歯痒い思いが、坂元氏にはあるのだと思う。

だから、本作『大豆田とわ子と三人の元夫』で、坂元氏はあえて「楽しく綺麗に生きる」ことを見せるドラマに徹したのではないか。登場人物たちはいわゆるステータスの高い職業に就き、生活水準が高く、ドラマ全体から漂うトーンがおしゃれであることから逃げていない。らしくないナレーションを多用し、シーンを細かく割って、Youtube世代の視聴者も飽きずにテンポよく見られるような工夫を施してある。

そういえば、3人の元夫たちは、とわ子をはじめとする女性との関係において、全員ナチュラルに家事役割を担う側として描かれている。結婚に失敗こそしているが、とわ子との関係はあくまで対等で、強権的・支配的な「有害な男らしさ」を発揮する人物もほとんど出てこない。

楽しくて綺麗な世界を見せることで、視聴者の現実への解像度を上げていく。表層的な心地よさの先にある、ほろ苦さに少しずつ気づかせる。ドラマにはドラマのやらなきゃいけない仕事があるという、坂元裕二の矜恃を見た思いだ。

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