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お前のバカで目が覚める! 第20回「生ぬるい恐怖新聞」

【注記】
これは、ぴあが発行していた情報誌「weeklyぴあ」に2003年7月14日号〜12月22日号の半年間連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在のポリティカル・コレクトネスや倫理規範に照らし合わせて問題のある表現が数多くあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

生ぬるい恐怖新聞

 世知辛い世の中である。いきなりボキャブラリーがシルバーシートにしゃがんでしまったけど、言いますよハタチだって「世知辛い」って。爽やかな朝はコーヒーとトースト、パリッとした朝刊でエレガントに迎えたい私であるが、新聞を開けばデロデロデロ。信玄餅のきな粉をはじいてカラまない黒蜜のように、先行き不安でナイーブな記事がポタポタ垂れ落ちてくる。政治・経済・社会面どこもかしこも、取り組みを終えた力士がエレベーターにびっしりひしめき合っているがごとき閉塞感でいっぱいだ。やるせない。昼休みに食べたファーストフードのポテトのコンソメ臭がなかなか指から抜けないことも諸々ざっくり含めて、なんだかほとほとやるせない。

 救いを求めて投稿欄を見ても、子供の作文練習と年寄りのボケ防止のための場になってるし。なんでこんなとこで織田裕二批判してるんだ。ラ・テ欄すら、サトエリの顔が将来的にたどり着かんとしているのは「引田天功」ではないか等、余計なことに思いを馳せてしまい心萎える。逃げ場なし。世知辛いなああああ血ああ。もう語尾の後半そのままクロスフェードでため息になっちゃったよ。なんか血も混じってたし。もはや紙面を繰る指先は、限りなく重くもたつきがちだ。コンソメ臭いし。

 そんなすさんだ新聞紙上にあって、唯一エアポケットのように存在する安らぎのオアシス、それは「地方版」ではなかろうか。「市民ボランティア海岸でゴミ拾い」とか「恒例ちゃんちゃら祭りに五万人の人出」とか、おおよそスクープ性からは程遠い牧歌的な見出しがそこには並ぶ。風呂でいったら半身浴程度の心地よいぬるさ。ああ、まるでおばあちゃんの話を聞いているようだ。癒されるなああああ金木犀ああ。おや、安堵のため息からキンモクセイの香りがしたよ。

 こないだ地方版読んでたらあったね。地域のほのぼの教育ネタっていうの? ああいうの特にいいよねぇ。情操教育っていうのかな、小さいうちから自然や生命の営みに触れてさ、感性豊かな心を育もうとしているのでしょ? そういう活動を積極的に取り上げた新聞記者の心意気も素敵だね。やましさゼロ。そんな無垢と無垢とのがっぷりよつの健全な取り組みがひねり出した見出しだったんだろう。

 「サケの人工授精に児童ら興奮」

 ……いやいやいや。まずいだろそれは。わかる、わかるよ言いたいことは。でも、もっと言葉選べなかったのか。なんだかとても教育的でないことになってしまった映像が脳裏をよぎるのである。興奮しちゃったのだ、児童が、授精に。別に倒置法で言い直す必要もないわけだが、そこには「高校時代、家庭科の授業で出産のビデオをアダルトビデオにすり替えて流した友人A君」的悪意を、はからずも記者に感じてしまうのである。

 「サケの人工授精に児童ら興奮」

 もはや地方版にも安心はできない時代なのかもしれない。

(初出:『Weeklyぴあ』2003年11月24日号)

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【2023年の追記】

「信玄餅のきな粉をはじいてカラまない黒蜜のようにポタポタ垂れ落ちてくる」とか、「取り組みを終えた力士がエレベーターにびっしりひしめき合っているがごとき閉塞感」といったワードセンスに、この頃の私の原稿にしかない勢いが感じられていいですね。「ボキャブラリーがシルバーシートにしゃがむ」とか、今読んでも嫉妬するくらいキレキレの表現です。

しかし、前半の言い回しに凝るあまり、後半の 「サケの人工授精に児童ら興奮」という実際にあった地方版の見出しのインパクトが薄れてしまっているのがもったいない。

比喩の意味を脱臼させるような過剰な言語表現で笑わせる松尾スズキ的な「動」の文体と、日常の中に埋もれた違和感を探り当て掘り起こすことで笑わせる宮沢章夫的な「静」の文体は、一緒に乗り合わせるとハウリングを起こしてしまってうまくいかないのに。

そういうことにまだ当時の未熟な私は思い至らなかったんですね、と、無理やり円熟を気取ることで今の私は、昔の私にセンスで負けていることから目を逸らしているのかもしれません。

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