見出し画像

お前のバカで目が覚める! 第22回「生き抜く路線図、住み分けの分布図」

【注記】
これは、ぴあが発行していた情報誌「weeklyぴあ」に2003年7月14日号〜12月22日号の半年間連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在のポリティカル・コレクトネスや倫理規範に照らし合わせて問題のある表現が数多くあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

生き抜く路線図、住み分けの分布図

 もう誰もがすべからくひしひしと切実に感じていることだし今さらこれみよがしにこぞって指摘するのもかっこ悪いかなぁと思ってノンシャランにおめおめと素通りに徹していたんだが、せっかくの機会だから腹式発声で小気味よく言わせてもらうけど、も、なんなら照れ隠しに語尾を「れろ」にしてやぶさかに言わせてもらうけどさ、auの「世代コータイ」のCMにおける松下由樹の扱われ方、あれ、どうなんだれろ! 一体なにが「せっかくの機会」なのかはこの際触れずに押し切ろうと思っている私だが、そんな私の身勝手さなどもおおらかに懐に抱きつつ、さっきから過剰に施された日本語表現のやかましさをビーフジャーキーのように噛みしめながら考えてみてほしい。

 あからさますぎないだろうか。「あからさま」という言葉の、全部ア段で統一された口開けっぴろげな感じから、このCMのえげつなさをもおもんぱかってほしい。要するにこれ、仲間由紀恵から松下由樹への「公開下克上宣告」であって、まるでブームを過ぎても増え続けるカスピ海ヨーグルトのような扱われ方だ。確かにヨーグルトっぽい顔はしているが、えげつない。えげつが、すごくない。深刻なえげつ不足にあえいでいるよ!

 俺の中で松下由樹ってそういうんじゃないのな。枯れてもいないけど今まで咲いたことがあるかと言われるとそうでもないわけで、仲間由紀恵と同じラインで追いつかれたり追い抜かれたりする人じゃないのだ。野菜で言ったらインゲンみたいな。この世の献立からごま和えやハンバーグが消えない限り、インゲンもまた和えられたりソテーになったりしながら食卓に並び続けるように、ほとんど立ち位置を変えないままなんだかずーっとあんな感じでテレビに出続ける、彼女はそういうポジションの女優である気がする。

 「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」、と言われるように、仲間由紀恵のブレイクに対する「没落」の反義語は松下由樹ではない。「霊柩車が通ると親指を隠す」という子供っぽさに対する「大人の態度」が、「霊柩車に向かってサムズアップ」ではないのと同じだ。今、たとえに凝るあまり底なしのぬかるみにはまっている私というものの存在を活字上に確認できるのだが、みなさんはお元気ですか?

 先日飲んだ席で「卑怯な男が好み」というすごい女性がいてね。せこければせこい男ほどタイプだと言うのだ。不良にからまれたとき自分だけ逃げてしまうような奴にグッとくるそうで、「金で解決しようとする」のはもっといいらしい。こういうところで世の中の需要と供給というのは帳尻合わせをしているのだな、としみじみ思う。

 つまり世界はもはや単純によしあし・勝ち負けの二元論では捉えきれない複雑な住み分けの上に成り立っているわけで。松下由樹を生かす代わりに、どうかこの俺の回りくどさもどこかで愛してほしいと切に願う。

(初出:『Weeklyぴあ』2003年12月8日号)

* * * * * * * * * *

【2023年の追記】

もはやauの「世代コータイ」のCMなんて誰も覚えちゃあいないわけですが、より鮮度のある若いタレントを起用するときに、古いタレントとの交代劇も含めて劇中劇としてユーモアにしちゃおう、みたいな構造のCMは、時代を問わずたまにありますよね。残酷さを隠しきれてないのがまた残酷、みたいな。たぶん、仲間由紀恵と松下由樹のCMもそういうアレだったのだと思います。ビタ一文覚えてないけど。

そんなことより、この頃の私の文体がノリノリでふざけているのが微笑ましく、羨ましいです。松下由樹の顔立ちをヨーグルト、立ち位置をインゲンに喩える絶妙さもさることながら、

「霊柩車が通ると親指を隠す」という子供っぽさに対する「大人の態度」が、「霊柩車に向かってサムズアップ」ではないのと同じだ

この表現なんかもう惚れ惚れします。今からでももう一回使っていきたいですもん。こういう絶妙にわかりづらく、回りくどく、喩えとして絶妙に的を射てない表現を、これからも一生探し続けたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?