魁!!テレビ塾 第14訓『絶対に笑ってはいけない大脱獄24時』
『笑ってはいけない』を大晦日の
実家で見なくなった理由
押忍!! ワシが当テレビ塾塾長の福田フクスケである!
思えば90〜00年代の長きにわたり、大晦日の『紅白歌合戦』はゆっくりと、しかし着実にオワコン化していた。男女に分かれて争う旧態依然の番組構成、台本通りの優等生的な司会進行、予定調和で寒い企画パートなどが、ことごとく時代に合わなくなっていたからだ。そんな中、06年から始まった『絶対に笑ってはいけない○○』シリーズは、お笑い好きにとどまらず、一定の視聴者層の心をがっちりと捕らえた。
大晦日を実家で過ごす若者の心は複雑だ。たまにしか顔を合わせない親とは、年々会話がかみ合わなくなる。子供の頃はあんなに頼もしかった親の体力や記憶力の衰えを、ダイレクトに突きつけられたりもする。『紅白』の“演歌の時間帯”でもはやチャンネルを変えなくなった、親の老いた姿を見るのは、ちょっぴりつらい。
そんなとき、ただひたすら高度な笑いの仕掛けを見せ続けてくれる『笑ってはいけない』は、希望だった。笑いの感性もずれ、もはや同じものを見て笑えなくなっている親の隣で、ダウンタウンやココリコと同じように笑いをかみ殺し我慢している自分。その気分は気まずさであると同時に、「俺はまだこれを見て笑っていられるぞ」という妙な意地と特権意識だったような気もする。優越感に逃げ込んで、親の老いと向き合わないようにしていたのかもしれない。
そして今、『笑ってはいけない』には少しずつマンネリ感が漂いはじめ、逆に『紅白』は、みんながツイッターで盛り上がるための豪華なネタ元として、番組の強度を増しつつある。ワシも、親と同じ部屋で『紅白』を見ていても、つらいと思わなくなった。もしかすると、これが成熟であり、大人になるということなのだろうか。
◆今月の名言
14年で9回目となる大晦日の恒例企画。笑ったらお尻をしばかれる出演者たちの煩悶と、実家で自分しか笑っている者がいない気まずさは、“感情抑制”という点で奇妙なリンクをしていたとも言える。
(初出:学研「GetNavi」2015年3月号)
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【2023年の追記】
当時、年末年始しか実家に帰っていなかったので、親の老いを実感するのが「同じテレビ番組を見ているときの親のリアクション」くらいだったため、こんな湿っぽい原稿になりました。
あれからさらに10年近く経ち、年末年始にすら実家に帰らなくなり、たまに会う両親の老いっぷりはわざわざテレビを介さなくてもあからさまとなり、そして『笑ってはいけない』は21年に放送を見合わせて以来、おそらくこのままフェードアウトしていくでしょう。
松尾芭蕉でなくても、時の流れは訪れては去る旅人のように無情だなと思います。あえて往年の2ちゃん風にいうなら「ちょw wおまw w w月日とかいう奴マジ百代の過客杉ワロタw w w w w」です。
『笑ってはいけない』が3年連続で見送られたのも、還暦を過ぎた老年男性が尻をしばかれ続けるのはもう見てられない、ということなのでしょう。中年の尻しばかれは体を張ったロックかもしれませんが、老年のそれはペーソス混じりのエレジーです。私たちは大晦日に道化師の悲哀を見せつけられて平気でいられるほどの心の余裕をもはや持っていないのだと思います。
全然関係ありませんが、パンサーの尾形はもう47歳だそうです。『ジョンソン』でしれっと若手芸人たちに混ざって声を張りあげリアクションを取る姿に、なぜか日本の失われた30年の象徴を感じてしまいました。
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