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【第6話】とわ子が食べたチャンプルー〜存在と不在、生と死、現実と虚構は交流する〜

「いいセリフを書けば、それが自然と伏線になる」

坂元裕二は、連続ドラマの執筆前に登場人物の性格や背景、生い立ちを綿密に書き込んだ詳細な「履歴書」だけを作り、いわゆるプロット(あらすじ)というものを立てないそうだ。驚くべきことに、いつも先のストーリー展開を決めないまま脚本を書き進めているのだという。

にもかかわらず、なぜあんなに周到に伏線を張り巡らせたかのような見事な脚本が書けるのか。坂元は以前、どこかの対談かインタビューで「いいセリフを書けば、それが自然と伏線になる」といった旨の発言をしていた(出典がどこだったか忘れて見つけられなかった。これ、どこで言ってたんだったろうか)。あまりにもかっこよすぎる言葉なので、どこまで額面通り受け取っていいかわからないが、つまりは前半にできるだけたくさんの”ドラマが生まれそうな種”を蒔いておくことで、後半はそれを刈り取るように物語を転がすことができる、ということだろう。

そういう意味で、第6話で中村慎森(岡田将生)、佐藤鹿太郎(角田晃広)、田中八作(松田龍平)の元夫たちと、彼らと関わる小谷翼(石橋菜津美)、古木美怜(瀧内公美)、三ツ屋早良(石橋静河)の3人の女性たちが一堂に会する餃子パーティーのシーンは、これまで5話ぶんかけて育ててきたキャラクターのすべてが前振りとなって、彼らが自然と喋りだして掛け合っているかのように会話劇が転がっていく様子が見られた。坂元裕二の筆がノリに乗っているのを感じられて楽しい。

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一方で、誰もが予想しなかった主要登場人物・綿来かごめ(市川実日子)の死が訪れ、視聴者の心を手のひらで転がすような脚本の妙技が光る回であった。その主要なレビューと考察については、「FRaU」に詳しく寄稿させてもらったので、そちらをご覧いただきたい。

というわけで、こちらのnoteでは、FRaUに書ききれなかった第6話のディテールを拾い集めることにしたいと思う。

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第2話で、とわ子と慎森が「犬派ですか?猫派ですか?って聞かれるより嫌い」「お休みの日は何をしてるんですかって聞かれるより嫌い」と嫌いなものを言い合うシーンがあったが、今回、男女6人の自己紹介シーンでそのとき蒔いた種がネタ振りとなり、美怜や早良からまんま同じ質問をぶつけられ辟易する慎森、として生かされている。

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アートイベントの仕事が7000万円近い予算オーバー、餃子の材料を買いすぎた旺介は「多ければ多いほどいいの」と元夫たちを家に呼びつける、部屋のテレビがボリューム62の大音量になっているなど、第5話から続く「多すぎるもの」「溢れ出るもの」のイメージが第6話でも豊穣なことは、FRaUの記事で書いた通りだ。

もっと言えば、のちのシーンに出てくる「100本入りのストロー」にも「多すぎるもの」のイメージが投影されている。そしてとわ子はそれを、「まあ、そうなるか」と苦笑し、受け入れるのだ。

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坂元裕二作品における「雑談の作法」

とわ子のことが議題に上った会話の流れで、翼は「彼女の柔道の締め技がすごいからプロポーズした」「家のトイレの鍵が閉まって1週間後に救出された」河合さんという人の逸話を話し続ける。雑談の中に「知り合いの誰々さん」のエピソードが出てくるのは坂元作品でお馴染みの光景だ。

『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(以下『いつ恋』)では、恋の四角関係が交差する気まずい料理シーンで、木穂子(高畑充希)が「ポケットに携帯五台持ってる」岩田さん、朝陽(西島隆弘)が「ポケットに唐揚げをいつも入れて持ってる」近藤さんの話をするのが印象的だった。

その場にいない他人の話をする理由を、坂元はCREAの「脚本家・坂元裕二が語る
創作の秘密」
インタビューの中で、以下のように語っている。

 決してその雑談自体を書きたいわけじゃないんですよね。基本的に僕が書く雑談は、登場人物が言いたいことを隠そうとしているときに書いていて。
 本来そこで話すべきこと、話されるであろうことが話されずに、関係のない誰かの失敗談を話しているから興味が持続するし、面白いんですよね。
 その隠された感情がなくて、いきなり他人の話をしてもただの余談になっちゃう。登場人物の感情が別の方向を向いていて、お客さんもそれを知ってるのに、「他人の話」をはじめるから面白いんだと思います。
脚本家・坂元裕二インタビュー (4) 登場人物がクリーニング店で働く理由

これを知っていると、翼が「河合さん」の話をし続けるのが、ただ場の空気の読めない面倒臭い子だから、だけではないのがわかる。

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とわ子の父・旺介(岩松了)による「冬の便座は命を刻むよ」というセリフは、『カルテット』における家森諭高(高橋一生)の「冷たい便座って寿命縮むよね」ほぼそのままだ。ちなみに、『いつ恋』第6話にも、シナリオ集ではカットされているが、音のナレーションで「トイレの便座が冷たいのは、5年後も同じ」というくだりがあった。坂元裕二は、冷たい便座をとことん憎んでいるようだ。

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「地獄の餃子パーティー」のシーンでは、FRaUの記事で紹介した元夫たちへのダメ出し以外にも、恋愛名言の数々が全編にわたって速射砲のように繰り出される。

美怜「私の持論では、男を見る目と恋愛感情は敵対関係にあるから」

早良「優しければちゃんと伝わるから。器用だろうと不器用だろうと。そこで不器用利用したら不器用がかわいそう」

翼「ああ〜、ロマンチスト最悪。そういう人ってロマンはごはんだと思ってるんですよ。でも、ロマンはスパイスなんですよね。主食じゃないんだな〜」

美怜「ふと気づくんだよね。この人は私と会話してるんじゃなくて、私が話しやすいところにボール返してるだけなんだって」

美怜「いい恋愛って、2人でいるときだけじゃなくて1人でいるときも楽しくなるもんだもんね」

美怜「はい、出た、言い訳の第一位。言いたいことの半分も、はい、言えなかった」
翼「言えたことですよ。言えたことだけが気持ちなんですよ」

まさに名言製造機たる坂元裕二の面目躍如といったところだが、これらのセリフは、来たる後半の衝撃の展開に比べれば、物語上ほとんど重要なウエイトが置かれていないことに驚かされる。この程度の「それっぽい」セリフを書くだけなら朝飯前なんですよ、という坂元の余裕すらうかがえる。あるいは、名ゼリフばかりに着目し、それ単体で抜き出してバズらせようとするSNSでの消費のされ方を無効化させようとしているように見えるのは、いささか考えすぎだろうか。

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不在だからこそ雄弁に語るとわ子の存在感

美怜「えぇ〜だって、この人たちと結婚した人なんでしょ。絶対普通じゃないよね」

第6話が始まって、実に40分以上も登場しなかったとわ子。その長い長い不在の時間によって、視聴者は元夫たちの「いないからこそより存在感を意識する」「別れたからこそありがたみに気が付く」を追体験するのはFRaUの記事で書いた通り。そして穿った見方をすれば、私たちはこの後訪れるかごめの喪失を、とわ子の消息不明によってすでに予行練習していたのだ。

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慎森「僕たちがさっき指摘されたようなこと、彼女から責められたことありました? こんなだめな3人なのに、彼女はそこを怒らなかった。僕たちは、大豆田とわ子に甘えてたんです

この場面の直前では、しろくまハウジングの松林(高橋メアリージュン)が、デザインのこだわりに固執して予算の削減に応じない頼知(弓削智久)に対して「社長が設計部出身だからって甘えてるんじゃないですか?」と詰め寄っており、公私ともにとわ子に甘えていると評される男性が出てくるのが興味深い。

かごめから「じゃんけんできてるじゃない」と言われたとわ子は、向いてないとへこたれながらもちゃんとできてる大人であろうと「受け入れる」「包み込む」ポジションに回ろうとしてきた。それに対して、餃子に名前をつけて遊んだり、餃子をお互いに喩えたり、女性陣に批判されキッチンに退却して反省会をしたり、ホモソーシャルなイチャイチャっぷりが加速する男性陣の子供っぽさが強調されるのが対照的だ。

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元夫たちはとわ子に甘えていたことを反省し、お互いの相手とちゃんと向き合うことを決意するが、早良から「もう遅いよ。どこを好きだったか教えるときは、もうその恋を片付けるって決めたときだよ」と言われてしまう。しかし、そう語る早良だけが、八作の好きなところをとうとう伝えないのが切ない。彼女がいちばん八作のことが好きで、最後の最後まで彼を諦めきれなかったのだ。

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生者と死者のチャンプルーを生きる

スマホ通知を受け取る八作のただならぬ表情。「電話に出ることができません」と繰り返される応答メッセージ。コンビニでの謎の買い物。病院に駆け込むと、手が震えている唄。死亡時刻と死因を話す医師。そこへようやく待合椅子に座るとわ子が、この日初めて登場する。先ほどまでの雰囲気を一変させ、「もしかしてとわ子の身に何かが… !?」とミスリードさせて緊迫感を高めていく脚本の筆致。そして、八作が靴下を買い、とわ子がパーカーの紐を直す、その優しさの描写によって亡くなったのが誰かを伝える流れは、さすがの一言だ。

そこからの展開を、「友達を亡くした今週、こんなことが起こった」という伊藤沙莉のいつものナレーションで淡々と処理していくのもすごい。悲しみに浸る余裕もないまま、段取りで慌ただしくすぎていくリアルを表しているのと同時に、「数ヶ月前には入った喪服が入らない大豆田とわ子」という語りで、彼女が母親を亡くしたばかりだったことを思い出し、人の死すらもループする日常のリズムの中に刻まれ、組み込まれてしまうことを視聴者は思い知る。

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坂元作品において、死は消えてなくなってしまうことではなく、私たちは思い出や想像力を介して死者と触れ合える。だから、かごめの死も決して単なる悲劇ではない、ということをFRaUの記事で書いた。その根拠をひとつ挙げておきたい。

慌ただしい1日を終えたとわ子は、主のいなくなった部屋でかごめが描き上げた渾身の漫画原稿を読みながら涙ぐみ、ひとり手料理を頬張る。『カルテット』の、「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」を彷彿とさせる胸に迫るシーンだが、『カルテット』に続いて本作でもプロデューサーを務める佐野亜裕美は、自身のTwitterでこのときとわ子が作ったのがソーセージと卵とピーマン、そして豆腐のチャンプルーだったことを明かしている

フードスタイリストを担当する飯島奈美は、これまでも数々の作品で素晴らしい仕事をしている。そんな彼女が「交流」という思いを込めたというチャンプルー(一般的には「混ぜこぜにしたもの」という意味だとされる)に、赤・黄・緑の3色の食材が使われているのは、決して深読みのしすぎではないだろう。白い豆腐は、おそらくかごめだ。

別れた人も、亡くなった人も混ぜこぜになったチャンプルーは、とわ子の中に取り込まれ、血肉となる。生者と死者、現実と虚構はその境界を超え、混ざり合いながら交流していくのだ。

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「家に帰ったらまたお腹が空いたので、お茶漬けを食べた。おいしかったけど、わさびを入れすぎたかもしれない」という伊藤沙莉の語りは、第5話で刺身にわさびをつけすぎたとわ子のリフレインだが、同時にそこで初めて心おきなく涙を流したことを暗示させる、心憎い演出である。

現実の偶発性や流動性に左右されるテレビドラマの特性

ドラマの最中、ニュース速報で俳優の田村正和の訃報が流れた。リアルタイムで放送を見ていた人は、フィクションに割り込むように入ってきた現実の訃報に驚き、そして数十分後、今度は劇中のかごめの急死にまたしても驚かされたはずだ。

もちろん現実のニュースと虚構の展開は、何の因果も関連もない偶発的な出来事だ。だが、ドラマを見ていてあの速報に接した人が、後に訪れるかごめの死で受ける印象は、制作陣の本来の意図とはちょっとだけ違うものになっただろう。あるいは、リアルタイムで見ていたときと、先にニュースで訃報を知っていた人が後から録画でドラマを見たときとでは、やはり受け取る印象は少し異なっただろう。

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テレビドラマとは、作り手も視聴者もコントロールできない現実の偶発性や流動性にどうしても左右される、極めてまれなジャンルだ。緊急性の高いニュースがあれば放送は中断されるし、災害時には画面の上と横が青い帯で分断され、絶えず台風情報などが流れている。ひとつの作品として鑑賞するには、あまりにノイズが多い。

しかし、テレビドラマが映画や演劇と決定的に違うのは、そうして現実が割り込んできてしまう不本意な事故や、偶然の誤配にこそあるのではないだろうか。この先私たちは、田村正和を見るたびにかごめをちょっと思い出してしまうだろう。ドラマを見た記憶と、あの日あの場面でニュース速報のテロップが流れた記憶が、どうしてもセットで呼び起こされてしまうかもしれない。

だが、だからテレビドラマはおもしろい。テレビドラマというジャンル自体が、現実と虚構を越境するごちゃ混ぜのチャンプルーなのである。

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