Orion 〈小説〉

 十二月にだけ夜空を眺める、という奇妙な女性がいた。

 それは見事に十二月「だけ」だった。
 一月一日から十一月三十日までは、全く眺めないらしい。日付が十二月一日に変わったあたりから少しずつ夜空のことが気になりだし、十二月の一週目の途中ぐらいから頻繁に夜空を見に外に出かける。
 二週目から大晦日までは、雨の降っていない日にはほとんど毎日夜空を見るために厚手のコートを羽織って手袋をして夜の世界に現れるのだが、年が変わって一月一日になったら、彼女は世界からぱったりと姿を消す。
「どうして十二月だけなんですか?」
 ある時にぼくが尋ねたら、彼女は少し悩んでから答えてくれた。
「多分、そうやってぎりぎり世界と繋がっているということを自覚したいんじゃないかな」
 彼女のその言葉はぼくを納得させるには全く値しなかった。
「よくわからないんだけど」と言ってからぼくは次の言葉を探した。
「それがどうして十二月だけ、ということになるんでしょう」
 彼女は少し沈黙してから答えた。
「見たい星があるから」
 それでもぼくはよくわからなかった。

 ぼくが彼女と出会ったのは、近所の河原だった。
 もちろん十二月の話だ。
 仕事が終わるとぼくはよく一人で歩いて近所の河原に行く。誰もいない河原の土手に腰掛けて、買ってきた缶ビールを開けてゆっくりと時間をかけてそれを飲む。居酒屋やバーなどではなく河原を選ぶのは、誰とも会いたくないからだ。店員にすら会いたくないので店には行かない。
 誰にも会わずに一人の時間を過ごしたい時というのはぼくには結構頻繁にあって、それはおそらくぼくが他人といることが嫌いだからではなくて、むしろ他人と過ごすことは好きな方なのだが、同等かそれ以上に一人でいることが好きなのだ。そしてぼくは一人で過ごす楽しみ方を人よりもよく知っている。あれこれと思いを巡らせてみたり、景色を眺めてみたり。そういうことによって自分の心がニュートラルな状態に近づいていくことを自覚できる。ぼくにとってはそれはかなり必要度の高い時間なのだ。

 ぼくは河原でビールを飲むときには目についた場所のゴミを拾って帰るようにしている。空き缶だったり、タバコの吸い殻だったり、ビニール袋だったり。中には「そんなものがなぜここに?」と言いたくなるようなものまである。だいたい半径十メートルぐらいの範囲だ。決してその河原の全てのゴミ拾いをするわけではない。
 こういうことを「良いことをしている」と思わないようにした方が良いというのはぼくの人生の基本方針の一つで、ゴミ拾いのようないわゆる「良いこと」をしている時には、心のどこかでは「自分の機嫌を取るための独善的な行為をしている」ぐらいに思っておいた方が良いと思っている。

 いつものように缶ビールを片手にタバコの吸い殻や空き缶を拾ってうろうろとしていた。ぼくの視線は地面にあった。そうしたら、急に人影を見つけた。

 そこに彼女はいた。
 河原の芝生の上で、彼女は仰向けに寝転がっていた。

 誰もいるはずがない、と思っていたその河原に誰か人がいたことにも少しぎょっとしたし、それが女性だったことにも驚いた。
 十二月の寒さゆえに彼女は厚着をしていた。厚手のコートと手袋、コートのフードは顔を覆っていた。フードからかすかに覗く彼女の顔は、鼻筋が通っていて美しかった。
 ぼくは最初、酔っぱらって誰かが倒れているのだろうかと思った。
「大丈夫ですか?」と声をかけたら、すぐに彼女はこちらを一瞥して「大丈夫」とだけ言って再び仰向けの姿勢のまま夜空を見上げていた。

 本人は大丈夫と言っていても、やはりその状況はぼくの常識からすればいささかおかしな状況だった。厚着をした女性が河原の芝生の上で仰向けに寝転がって夜空を見上げているなんて。けれど、それ以上は彼女がコミュニケーションを拒絶しているようにも思えたし、ぼくは黙ってその場を少し離れて元いた場所に座り直してビールを飲み直した。彼女はぼくの視界の隅の方にまだいた。
 十分ほどが過ぎてぼくのビールもなくなったのでそろそろ帰ろうかなと思った。あまり彼女の方を見ないようにはしていたのだけれど、ふとそちらに目を向けると、その瞬間におもむろに彼女は立ち上がってコートについた草を手で払ってからこちらに近づいてきた。
「気にしてくれてありがとう、でも私、本当に大丈夫だから」
 そう言って彼女はぼくの横を歩いて通り過ぎていった。
 冬の夜の冷えた空気がぼくの頬を撫でた。
 それが彼女との出会いだった。

 数日してからまた仕事終わりに河原にビールを飲みに行った時に、再び彼女はそこにいた。以前と同じように厚着をして、芝生の上に仰向けに寝転んでいた。
 必要以上に声をかけるのもどうかと思って、ぼくはやはり視界の隅になんとなく彼女を置いたまま、ゆっくりとビールを飲んだ。
 彼女の視線が向いている先の夜空を眺めた。雲が少なくて明かりが少なかったせいもあって、星がよく見えた。ぼくは星座にはあまり詳しくないが、頭上に見えている三つの星が連なっているのはオリオン座の三つ星だということぐらいはわかった。
 その日もやはりぼくがビールを飲み終わるか終わらないかぐらいのタイミングで彼女は立ち上がり、ぼくの横を歩いて通り過ぎてどこかへ行ってしまった。
 ぼくも半径十メートルぐらいのゴミを拾ってビニール袋に入れて帰った。

 そんなことが数回続いた日、先に声をかけてきたのは彼女の方だった。
「よく会うね」
 彼女の声は抑制が効いていて、とてもおかしな行動をとっている人のそれには思えなかった。何もおかしなことなど起こっていないかのように自然であり普通だった。
「寒くないですか?」
「寒い。でもそれはあなたも一緒でしょ」
「ぼくは寒さが我慢できなくなってきたら帰ります。あ、でもそれはあなたも一緒か」
 ぼくがそう言うと彼女は少し笑ってうなずいた。
 「少しだけ横に座ってもいい?」
「どうぞ。ここはたまたまぼくが今座っているだけで決してぼくの場所ではないですから」
「じゃ、失礼」そう言って彼女はぼくの横に腰掛けた。

 そこでぼくは、この物語の冒頭で語った不思議な話を聞いた。
 十二月だけ外の世界に出てきて星を眺めること。それ以外の期間は世界の片隅で息を潜めるようにして生きていること。十二月の空には見たい星があること。

 彼女の話に対して、そうなのか、なるほど、と思えるところはほとんど一つもなかった。「何を言っているのかわからない」ということがほとんど全てだったが、その道理をぼくが納得することにもそれほど価値があるとは思えなかった。ぼくは自分の意見を挟むことなく、相槌を打ちながら彼女の話を聞いた。
 話し終わると、彼女は「またそのうち会えそうね」と言ってあっさりと去っていってしまった。

 実際その後も彼女とは度々顔を合わせ、たまにはほんの数分だけだけれども話をすることもあった。話はいつも要領を得ないものだったが、いつの間にかぼくはその時間を少し楽しみにしている自分に気づいた。何となく彼女に好意を抱いていたんだと思う。

 彼女に会えなくなったのは、十二月が終わったからだ。
 一月になると本当に彼女はぱたっと姿を現さなくなってしまった。
 彼女は今ぼくがいるこの世界から、彼女本人が言うところの「世界の片隅」に行って息を潜めているのだろうか、と思った。
 夜空を見上げてみたが、一月の夜空の星は十二月とそんなに変わるとはぼくには思えなかった。

 オリオンの三つ星もまだそこに、あった。

 いつしか寒さが薄れてきて花粉のせいで鼻がむずむずとし始めて春が訪れてきているのがわかった。
 そうこうしている内に長袖のシャツでは汗をかくようになってきて夏の到来を知った。
 スーパーの鮮魚コーナーに秋刀魚が並ぶようになってそろそろ秋か、と思った。
 じきに十二月がやってくるという時に、ぼくは彼女のことを思い出していた。
 再び彼女は夜空を見上げにやってくるのだろうか、十二月になった途端に。そんなことは本当に起こるのだろうか、と。

 心配するまでもなく、あっさりと彼女はやってきた。
 見事に彼女は十二月「だけ」夜空を見に来るのだった。
 翌年もそうだったし、その翌年もそうだった。この不思議な現象に対してぼくはすっかり「そういうものなのだ」と納得してしまっていた。無理が通って道理が引っ込んでしまったというわけだ。
 ぼくらは会うたびに会話をするわけではなかった。
 いつものように仰向けに寝転んでいる彼女を見つけ、彼女もぼくに気づいたときには軽く会釈をする。
 何回かに一回、彼女はぼくの横に座って取り留めのないことを話して、そしてあっさりと帰って行く。
 少しずつは親密になっていったのかも知れないけれど、基本的にぼくらはお互いにお互いのことをほとんど知らなかった。どんな生い立ちだとか、どんな仕事をしているだとか、それから名前さえも。
 そして何も知らないままに、ただ「十二月」だけが幾度も過ぎ去っていった。

 そんなことが何年も続いた後の、十二月三十一日のことだった。
 ぼくと彼女はいつものように河原にいた。ぼくはぼんやりと「明日からまた一月だから、また一年近くは彼女にはお目にかかれないんだな」と思っていた。
 彼女がぼくの方へ歩いてきて、ぼくの横に座った。
「また明日から、しばらく会えませんね」
 彼女は黙っていた。
「今日で十二月も終わり。明日からはまた一月がやってきますからね」とぼくは続けてしゃべった。
「そうね」
 目を閉じて一度深く息をして、それから彼女は続けた。
「一月になっても会えるかも知れないし、もうずっと会えないかも知れない」
 相変わらず何を言っているのかよくわからなかったが、ことを荒げないためにも「そうなんですか」とぼくは気のない返事をした。
「あなたは一年の間に一ヶ月だけ、それも本当に少しの時間だけれど私に会えるのを、ひょっとしたら楽しみにしてくれていた?」彼女が尋ねた。
「ええ。多分そうだと思います」
 ぼくは正直に認めた。
「そうだったら嬉しい。とても」
 彼女はそう言って閉じていた目を開いた。
「ただしこれは少し自分勝手な言い分になるんだけど、私も確かにあなたに会えるのを心のどこかでは楽しみにしていた。けれどそれよりも私の存在を少しでも喜んでくれている人がいるという、そのことに私は今嬉しさを感じているのかもしれない」
「どっちでも良いですよ、別にそんなことは」
 本当にどっちでも良かったのだ。
「どうして私がこうやって十二月だけ外に出てきて星を眺めているかっていうと」
「はい」
「前にそれは私がかろうじて世界と繋がっておくため、って言ったと思うのだけれど、それは本当なの」
「はい。嘘だとは思っていません」
「一月から十一月までは、私はいつも世界から自分を切り離すの。それは誰かのせいでそうされてしまっているのではなくて、私自身の意思でそうしているの。もっと世界に身を置きながらやっていく手段はあるかも知れないのだけれど、私があまり器用でないからかもしれない、自分を世界から切り離さないと、そしてひとりぼっちにならないと私は何かを生み出すことはできないの」
「そうか、あなたはそうやって世界の片隅でひとりぼっちになって何かを生み出している。一月から十一月までは。そういうことなんですね」
「そう。そしてそこで失った世界を十二月になんとか急いで取り戻しているの」
「なるほど。しかし明日からは状況が変わるかもしれない、と」
「うん。ひょっとしたら私は明日から何かを生み出す必要がなくなるかも知れない。そうしたら自分と世界を切り離す必要はなくなるから世界に戻ってくるかも知れないし、あるいは世界から永遠にいなくなるかも知れない」
「そしてそれはまだわからない」
「そう。わからない」

 ぼくは何となく彼女の身に大きな変化が起きつつあることを感じ取ったが、かといってぼくに何か彼女の手助けになることができるとも思えなかった。

「ぼくがあなたのためにできることは、おそらく何もないと思います。そうだなあ、何ができるんだろう。来年の十二月もここでビールを飲んでいるぐらいかなあ。けれどそれがあなたに何の意味があるのかはぼくにはわかりません」
 ぼくはそう言った。
「ありがとう。結構心強いよ、それだけでも」
「あの、良かったら教えてくれませんか?」
「ん、何を?」
「あなたが見たい星って、なんですか?」
 ぼくがそう言うと彼女は再び目を閉じた。そして目を閉じながら答えた。
「ペテルギウス、リゲル、三つ星。オリオン座が見たいの」
「ああ。そうだったんですね」
 そう言ってぼくは頭上を見上げた。

 どれがペテルギウスでどれがリゲルかはわからなかったけれど、ちょうどぼくの頭上にオリオン座の特徴的な三つ星が見えた。
「ちょうどほら、真上に三つ星が見えますよ」
 と言ってぼくは頭上を指さした。
「本当だ」同じように真上を見た彼女がそう言った。
「それじゃ」と言って彼女が立ち上がった。
「はい。さようなら」ぼくは言った。
「うん。さようなら」

 そう言ってぼくらは別れた。

 それから彼女とは会えなかった。
 一月になっても彼女は姿を現さなかった。
「一月になっても会えるかも知れない」
 と言った彼女の仮説は、とりあえず成立しなかったことになる。
 彼女は今も世界から自分を切り離しているのだろうか。
 なるべくそのことを気にしないようにした。
 淡々と日々を過ごす中で、ぼくには世界の変容はあまり気づけなかった。本当に世界は変わり続けているんだろうか。

 一年弱が経とうとしていた。
もうすぐ、再び十二月がやってくる。 

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