見出し画像

ふくしデザインゼミに出会ってしまった|小森佳歩|2023-24 essay 02

所属や分野・領域の垣根を超えて多様な人たちが集まり、対話し、実践的に学び合う「ふくしデザインゼミ」。2度目となる今年は、28名の学生と若手社会人が、東京八王子、伊豆大島、滋賀高島、長崎諫早の4地域をフィールドに「福祉をひらくアイディア」を考えてきました。

正解のない世界を漂流する2ヶ月のプロセスのなかで、若者たちは何を感じ、何を思うのか。このエッセイでは、ゼミ生一人ひとりの視点から、ふくしデザインゼミを記録します。



あー、出会ってしまったなーと思った。

ふくしデザインゼミはSNSで見つけて、応募した。
何をやるのか、たぶんあまり決まってなさそうなのが、よかった。

モヤモヤ、ザラザラ、とげとげ

このゼミに向けて準備すべきことはすでに私のなかにある気がしていた。
だから、特に準備せずに2日間のキックオフキャンプにやってきた。

ゼミが始まった。キックオフキャンプでどんなことをやるのか、ゼミ生たちにはほとんど知らされていなかった。実際、何をやるのか事前に決まりきっているわけではないようで、コーディネーターの人たちは、場の雰囲気に応じて、プログラムの内容から些細な声かけまで、臨機応変に対応していた。

はじめに、ゼミ生28人、講師や法人職員、運営など、総勢45名で自己紹介が全員に回っていく。

つづいて、講師と法人の方によるトークセッションが始まった。
ふくしデザインゼミとは何か、といった問いからはじまったが、講師たちを中心に、いろんなところに話が飛びながら進んでいく。ふくしやデザインをキーワードに、そのワード自体やその周辺にある大事な「何か」について、とっても熱い温度感を持った言葉が、伝わってきた。

トークセッション。場の熱量がぐっと上がる。

私は自分が「もとから持っている言葉」に引きつけながら、聴いていた。
目を閉じて言葉の温度に集中してみたり、姿勢や目線にぐっと注目してみたりもして、聴いた。

わかるような、わからないような。みんなはこの話をどんな風に受けとめてるのかなと不安でもあった。

ふくしデザインゼミ、なんで参加したの?

トークセッション後に、講師の竹端寛さんによる場がはじまった。
まずはじめに、みんなはさっきのトークセッションをどんな風に聴いたか、どんなことを感じたか、4,5人のグループで対話することになった。

その対話はざらざらしていた。「ざらざらしていた」のは、同じ言葉を聞いて、同じことを理解したはずなのに、言葉の受け取り方が全然違ったからだ。

絶賛ザラザラ中


たとえば、私はたぶん、こんな思いを持ちながらこのゼミに参加していた。

ケアの関係性は常にお互い様のはずなのに、誰かのケアを、誰かやどこかの組織の責任として押しつけることで、他人事にして誰かを非難していることへのモヤモヤ。いつも誰かの痛みを生んでいるはずの土俵で戦うことを当たり前に引き受けていることへのモヤモヤ。そのモヤモヤを意味のあるものとして使いたい。私自身も社会をつくる当事者として、ケアやふくしを地域にひらきたい。誰もが誰かに当たり前に受けとめられ、声が聴かれる、お互い様のケアの関係をつくりたい。

そんな考えをきっと「間違っていない」と信じることをやめずに、私はトークセッションを聴いていた。しかし、いざグループで話し出すと、全然違った話が出てきた。さっきのトークセッションで、同じ言葉を聴いて、同じことを理解したはずなのに、言葉の受け取り方が全然違った。ここまで違うのか。

私は、そこでの言葉のすべてを、受け取ることを拒否していた。私のうちにあるとげとげした何かが、言葉として溢れてくることを抑えるのに必死だった。

「いや、それはそういう意味じゃなくない?」

私の言葉の受け取り方の方が正しいでしょ、と歪んだ正義感を振りかざしたくなってしまっていた。

言葉が溢れてしまった

次にはじまったのは、「ひろこの部屋」。ゼミ生の中で先着3名が前に出て、竹端さんと1対1で話したいことを話す時間だった。グループでの気づきを話したり、モヤモヤを一緒に考えたりするために、数名のゼミ生たちが出ていった。

私は2周目の「ひろこの部屋」に出た。

言葉が溢れてしまった。さっきのグループで話しかけたことなんですが、と始めた私の語り。自分でも何を言っているのかよくわからなかった。抑えていたとげとげが、「私自身の、社会のなかでのあり方や立場に対するモヤモヤ」みたいな文脈で溢れていった。私はどうやら、「社会にそれなりに適応できてしまった、恵まれてしまった」、そのことに対する折り合いのつけ方を探そうとしていたみたい。

「ひろこの部屋」で言葉が溢れ出る。

そのあと、何人かに声をかけてもらった。

「君、面白いね」「私も分かる部分があって」「なんか全然わかんなかった」「あんなこと考えられるのがうらやましい」

私にまっすぐ向けられた言葉の数々は、私の表面へ未だにべったりとへばりついている。

"感受性的な何か"を全力にする私

そういえば、私はこのゼミに参加が決まったときから、新たなあだ名で呼んでもらおうかなーと思っていた。「"感受性的な何か"を全力で大切にすること」を許してあげる人格を、私は私自身にあげたかったのだと思う。

”感受性的な何か”をずっとひらいて生きていると、しんどいなと思うことが多い。たくさんの痛みに気づいてしまって、苦しくなる。いちいち小さな痛みを取り上げて、議論しようとして、面倒な奴になりたくないから、いつもは”感受性的な何か”を閉ざすようにしている。でも、そんな自分をずっとやっていると、自分とは何なのか見失ってしまう。だから、私はそんな面倒な奴になることを許してあげることで、自分を保ちたかった。

竹端ゼミ。やさしくて、まっすぐな人たちばかり。

ここから2ヶ月間、こんな自分を引き受けて、私の声、他者の声を聴いて、対話をして、たしかに意味のあるはずのなにかをつくっていきたいと思う。
当たり前になっている社会のあり方を引き受けることをやめて、痛みをケアし合える社会をつくることを目指してみたい。

はたしてそんな社会の像があるのか、あったとしたらつくれるのか、私にはわからない。それでも、それを探して、つくろうとすることには必ず意味があると信じて、ここにいろんな尊い想いを持って集った人たちと一緒に動いていきたい。

明日はキックオフキャンプ2日目。楽しみだな。うふふ。

|このエッセイを書いたのは|

小森 佳歩 (こもり かほ)
名古屋大学 教育学部3年

***

お知らせ ~公開プレゼンを開催します!~

3月3日(日)には、正解のない世界を漂流した2ヶ月のプロセス、そしてアウトプットを共有し、みなさんとともに思考と対話を深める、公開プレゼンテーション〈「ふくしをひらく」をひらく〉を開催します!

エッセイを綴るゼミ生たちがみなさんをお待ちしています。ぜひご参加ください!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?