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#43 ソール・クリプキ-名前に宿る神秘-

■番組概要

9月15日に逝去した哲学者ソール・A・クリプキ。歴史に残る業績となった彼の固有名論を振り返りながら、クリプキへの想いを語りました。

■語り手
大熊弘樹


■キーワード
ソール・A・クリプキ/様相論理学/宮台真司/『名指しと必然性』/固有名/属性(確定記述)/反実仮想/この性(thisness)/単独性/『ヴィトゲンシュタインのパラドクス』


〜音声版はこちら〜


天才、ソール・A・クリプキ

フクロウラジオ第43回目。今回は追悼クリプキを語るということで、9月15日に亡くなった哲学の巨人ソールAクリプキについて話をしていきたいと思います。

クリプキは哲学史のなかでも歴史上の偉人といった位置付けなので、まだ存命だったことに驚いた方も多かったかもしれません。クリプキは早熟の天才で、1958年、クリプキが18歳の地点ですでに、様相論理学の基礎理論を完成させています。

クリプキの天才エピソードは枚挙に暇がなく、6才で古代ヘブライ語を学ぶ、9歳までにシェイクスピア全集を読破、高校在学中に様相論理の完全性定理についての論文集を出版、ハーバード大学主席など、数々のエピソードがあります。

哲学者の宮崎雄介さん曰く、天才という言葉はクリプキのためにあるような言葉だとおっしゃっていましたが、個人的にもまさにその通りだと思います。
6年ほど前にはなるのですが、このフクロウラジオのメンバーに加えて社会学者の宮台真司氏や他数名の学生を招いてクリプキについての勉強会を催したことがあり、今回はそこで学んだ内容を中心にクリプキの業績を振り返ります。

クリプキの固有名論

クリプキの最も有名な仕事は名前という概念についての問題提起かと思います。名前というものがどういったものなのかについての問題提起です。

一般に固有名詞といえば、あるものの存在を表すラベルだとする考え方が一般的です。大熊弘樹という固有名で考えましょう。
大熊弘樹という名前で指し示されるものは、男性で、画家で、日本人で、身長は〜、体重は〜、といった大熊弘樹にまつわる属性の束です。ですから、数多ある属性の束(=確定記述)をたくさん積み重ねていった集合の略称こそが名前だと考えることができるのです。
至極当然に思える理論です。しかしながらクリプキが喝破したのが、それは全くの間違いであるということでした。
クリプキが問いかけたのは、仮に大熊弘樹が性転換をしたとして、女性になったとしたらそれは大熊弘樹ではなくなるのか。といったものでした。
実は国籍が日本じゃないということがわかったらどうでしょう。身長や体重が変わりまったくの別人のようになってしまったらどうでしょう。仮にそのような状態になったとしても、それは依然大熊弘樹であるということには変わりはありません。
クリプキが指し示したのは、名前と属性の一種の無関連性であり、仮の世界において、今ある全ての属性を失くした状態の大熊弘樹を、それでも想定可能であるということでした。

クリプキは名前というものが属性の束を越える剰余を含んでいるということを様相論理学を使い示したのです。

固有名論の可能性

言われてみれば当たり前の理屈ですが、この発想の転換は画期的と言えるもので、当時の分析哲学に大きなパラダイムシフトをもたらしました。
特別なものだから名前がつけられるのではなく、名前がつけられるから特別であるという、地と図を反転する考え方。これによって哲学でははじめて、外見や性質といった属性を失っても保たれる、人のもつ単独性=「この私」を扱えるようになったのです。

この命題はさらなる広がりもあります。
固有名というのは一つしか存在しないということではなく、例えば猫やネズミといった一般名詞があります。私はハムスターを買っているのですが、しばしばふざけて「ネズミー」「ハムー」といった一般名詞をつかって呼ぶことがあります。
ですが、自分が愛するただ一つの「このハムスター」を名指す場合、それは一般名詞で呼んでいたとしても、機能としては固有名詞と変わらない働きをするのです。
名前そのものを考えるときに、名前を呼ぶ個体に対する態度こそが重要だということにもなり、逆を言えば他者から固有名詞で呼ばれているからといって「この私」を見てくれているとは限らないということにもつながります。

論理を使い論理の外側を示すというこの芸当は、クリプキという天才があってはじめて可能になったと言っても過言ではありません。
人の存在が安定する条件とは、何か特別な支えがあることではなく、名前があるという事実の中に内在しているのです。

世界観としての名前

しかしながら人は属性を求める生き物です。所属や年収、資格や所有物、出自や承認、そうしたものの多寡によって存在を安定させようとするのが人間の性でもあります。

しかし、どれだけ望んだ属性をカスタマイズして、それらをコンプリートできたとしても絶対に満足することはないでしょう。
なぜなら「所有しているもの」は「所有していないもの」との関係により浮かび上がるもので、それは言語を使う生き物である以上、避けられない欠落感だからです。

人の欲望には際限がなく、常に目の前にはないプラスαを求めるようプログラムされているのです。

属性にしがみつくことで、存在の安定化を図ることは、精神病の源泉ともなります。
しかし、そうしたある種の現代病とも言えるような問題は、ただ名前を呼んでくれる、そうした存在がいるだけで、解決するものなのかもしれません。

分析枠組みとしての固有名論

固有名が言語体系の外部にあるという指し示しは、哲学という枠を超えて、文芸批評や映画評論など様々な領野でも援用されてきました。

このフクロウラジオでも、映画『シン・エヴァンゲリオン』における綾波レイというキャラクターの、アイデンティファイのあり方を、クリプキの理論と絡めて語ったことがあります。

「自分が一体何者なのか」という問いを、絶えず探し求める存在として登場する綾波レイは、最新作である『シン・エヴァンゲリオン』において、TVシリーズにおける「属性や承認によるアイデンティファイ」ではなく、「名付けによるアイデンティファイ」によってその存在を確立させます。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』(2020/日本)より


映画中盤「名前をつけて欲しい」という願いを主人公碇シンジに告げ、消失した綾波レイですが、映画終盤では、碇シンジが書き換えた世界、言うなればifの世界において、生まれ変わった姿で再登場を果たします。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』(2020/日本)より

名前を付けられるということが、ifの世界(=反実仮想)でも生きることができるようになるという、名付けの神秘を表現した印象的な演出でした。

まとめ

今回話してきた内容は、彼の代表的な著作である『名指しと必然性』の中にまとめられています。

『名指しと必然性』ソール・A・クリプキ(1972)

この本はクリプキが32歳の時に出されたもので、その早熟さには改めて驚かされるばかりです。
その業績から、いかにもな傑物を想像するのですが、ネット上で出てくるクリプキの写真は優しそうなサンタクロースのような風貌で、最初に見た時はそのギャップに心が和む想いでした。

Saul Aaron Kripke

知の巨人、ソール・A・クリプキ。研究者のみならず、多くの人にとっての道しるべになるような彼の仕事は、間違いなくこれからの歴史の中にも残っていくことでしょう。

今回はクリプキ-名前に宿る神秘-と題して、哀悼の意を表しつつ、その仕事を振り返りました。

今回は以上となります。


             語り手・大熊弘樹


■参照コンテンツ
名指しと必然性 / サウル・A・クリプキ/八木沢敬

フクロウラジオ#21『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を語る (後編)


■出演者:
大熊弘樹(https://twitter.com/hirokiguma3)


■番組の感想は fukurouradio@gmail.com まで。


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