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#46 武尊、狂気のその先。

■番組概要

今回のテーマは、格闘家の武尊選手について。

軽量級を中心に新たなムーブメントが起きている日本格闘技界において、一際異彩を放つのが、この、武尊選手。彼の佇まいに潜む狂気とは何か、彼の構えが指し示す芸術の型とは何か、独自の視点で深掘りします。

■語り手・大熊弘樹

■キーワード
THE MATCH/『気流のなる音』/翼と根/狂気/千日回峰行/不変項/カリスマ/マックスウェーバー/ホカヒビト/折口信夫/芸能論集/相撲/土俵/超越/内在/カスタネダ/ドンファン/享楽/集合的沸騰/impact in pari


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はじめに


フクロウラジオ第46回目。今回話していくテーマは、格闘家、武尊選手についてです。

フクロウラジオ、主に映画やアニメ、そして思想哲学などの話題が多いこのポッドキャストですが、今回のテーマは格闘技。
唐突な話題に思うかもしれませんが、基本的にフクロウラジオで僕が話す場合は一つのテーマで語っているつもりです。
それは言葉や論理の外側といった、いわゆる芸術の本丸を浮かび上がらせるための語りで、大袈裟ではありますが、きっとあるはずの芸術の条件を探る作業です。

なので、今回は格闘技をテーマとして扱いますが、最終的には芸術に関係した話になる予定です。
もともと格闘技というのは、芸事という意味では、古典的な芸術領域に属するジャンルでもあるので、そうした部分にも触れながら話を膨らませていきたいと思います。

ということで、今回扱うテーマは格闘家の武尊選手。
キックボクサー、31歳、日本の格闘技を代表する格闘家の1人です。

(C)THE MATCH 2022

ちょうど先日6月19日に、世紀の一戦と言われた那須川天心選手とのビッグマッチからちょうど一年が経ったということで、Abema TVでは東京ドームで行われたTHE MATCH の大会中継を丸々再放送するというイベントもありました。

そして、いよいよ2023年6月24日にフランスで行われるインパクトインパリで一年ぶりの復帰を果たします。


現在日本では軽量級を中心に格闘技の新たなムーブメントが起きていますが、そんな中でも異彩を放つのが、この武尊選手。元K-1の三階級制覇チャンピオンです。

ぼくは画家の仕事をしていますが、武尊選手の格闘技に対する構え方、競技に対する向かい合い方は、僕にとっては重要な指し示しとなっています。
一風変わった格闘技論になりますが、ザマッチで行われた世紀の一戦を中心に、武尊選手のことを深掘りして行こうと思います。

「翼を持つもの」と「根を持つものの」の戦い

まず、約一年前におこなわれた、日本格闘技史に残る戦い、那須川天心vs武尊を振り返ってみたいと思います。
2022年6月19日、東京ドームにて、格闘技ファンはもちろん、格闘技に興味のないライト層をも取り込んで、日本の興行の歴史の中でも指折りのイベントとなった那須川天心vs武尊。
この戦いが実現するまで足掛け6年以上。勝敗を超えたと言われるこの戦い、そこでは何が起きていたのでしょうか。

photograph by
THE MATCH 2022/Susumu Nagao



まず簡単にこの一戦の概要を説明しますと、当時41戦して無敗。神童と言われる那須川天心選手と、同じく41戦してたった一敗しかしていない武尊選手。天心選手がRISEという団体を、武尊選手がK-1という団体をそれぞれ背負っており、2人のカリスマのどちらが強いのかということがずっと前からファンの間では話題に登り続けていました。
本人同士も熱望していたこの一戦ですが、さまざまな問題がありなかなか対戦までには漕ぎ着けなかった。ところが、関係各者の想像もできないような努力によって徐々に障壁が取り払われ、去年ついに対戦実現の運びになりました。

photograph by
THE MATCH 2022/Susumu Nagao


文字通り互いの存在をかけた決闘となったこの試合は一年以上経った今でも多くのファンの語り草になっています。
当時、この2人の戦いはさまざまな例え方をされていて、努力対才能、喧嘩対競技、パワー対スピード、雑草対エリート、正反対の2人のファイターの戦いがさまざまな形で表現されていました。
そんな中、この一戦を「飛び立つ者対根を張る者」と例えた方がいました。まずはそこを切り口に語っていこうと思います。

こう表現したのは、有名な格闘技メディアの編集長のジャン斎藤さんという方です。
この言葉は人文系に興味がある人であれば、社会学者真木悠介の『気流の鳴る音』という本を思い出すかもしれません。
『気流の鳴る音』の最終章のタイトルがまさに「根を持つことと、翼を持つこと」となっており、2人の生き様をずばり言い当てた表現になっていると感じました。

『気流の鳴る音』真木悠介

根を持つことというのは一つの場所に根をおろして安定したい気持ち。翼を持つこととというのはある種の束縛から逃れて自由になりたい気持ち。人間の中にある矛盾した2つの欲求を表した言葉です。

本の中では「翼と根、その本来矛盾する2つのものを同時に持つことが戦士の魂を自由にする」と語られており、大変示唆的なメッセージとなっています。
ちなみにジャンさんがどのような文脈でその例え方をしたのかは把握してないのですが、ぼくにとってはこの2人の戦いは自由の翼を持つ天心選手と、不動の根を持つ武尊選手との戦いだったと認識しています。

様々な団体、(RISE、RIZIN、knockout、など)を渡り歩いてきてその実力を証明していった翼を持つ天心選手。もう方や、K-1という歴史のある団体の大黒柱として、一つの場所に留まってひたすら敵を倒し続けてきた武尊選手。
二つの生き様の衝突だったと考えています。

また、この2人は戦い方においても、まさに翼と根という言葉がぴたりと当てはまるようなスタイルなのです。
天心選手が軽やかなステップで蝶が舞うような戦いを展開するのに対して、武尊選手は、ベタ足で、リングに根を張るようにどっしり構えて相手を追い込んでいくというスタイル。
生き様と戦い方がリンクしていていると言えます。

THE MATCHにおける世紀の一戦では武尊選手は敗れてしまったのですが、多くの人が指摘するように、その後の武尊選手の表情にはある種の解放感がみて取れるようになりました。
負けはしたものの、そこから得られたものはとても大きかったのだと想像しました。

武尊選手は現在はK-1との契約を満了して、これまでは難しいとされていた団体の垣根を越えた挑戦に向けてすでに舵をきっています。

今回のインパクトインパリでの戦いもそのひとつ。
フランスというアウェーの地で行われるのですが、これも武尊選手には初めてのこと。
様々なプレッシャーもあるかと思うのですが、一年前のTHE MATCH前の思い詰めた表情や雰囲気とは全く違ったオーラを纏っています。
先ほどの文脈で言えば、武尊選手はTHE MATCHの戦いを通じて、それまで持ち得なかった自由の翼を授かることができたのではないでしょうか。それは契約の面においても、精神的な面においても。

この戦いを経ることでより完璧なファイターに近づいたのは敗者の武尊選手だったようにさえ思えます。

気流の鳴る音からもう一度引用します。「翼と根、その本来矛盾する2つのものを同時に持つことが戦士の魂を自由にする」。

この言葉はカルロスカスタネダというアメリカの人類学者がメキシコインディオの呪術師であるドンファンと、ドンヘナロという2人の師匠から授かった言葉なのですが、
まさに現在の武尊選手を表す言葉のように思えます。

『ドン・ファンの教え』太田出版


一年前まで抱えていた怪我の悩みからも解放されたようで、物理的にも精神的にもより完璧な戦士となった武尊選手、明日どんなパフォーマンスを見せてくれるのか、本当に楽しみです。

超越への滑走路


ぼくは昔から武尊選手のファンで、彼は格闘家の中でもかなり特異な存在だと考えています。
多くの人が語るように単なる強さには還元できないものを持っているファイターで、冒頭話したように、表現者としても見習うべき構えがあると常々思っています。

中でも興味深いのが、練習のスタイルです。
普通、強くなるために練習を頑張るという考え方が一般的かと思います。しかしながら、武尊選手の練習スタイルは強くなるためだけのものではないような気がしてなりません。

SNSなどを通じて伺える武尊選手の練習は、オーバーワーク気味だってこともあるし、激しすぎる練習の代償でほぼ毎回試合前に怪我をしてしまうということもあるし、所属ジムの代表が本来であれば休まなければいけない時でも練習をしてしまうと苦笑いしながら語っていたこともあるように、練習効率という意味においては必ずしも最良の内容ではない。

その常軌を逸したトレーニングを総合格闘家の青木真也選手は、コンプレックスから来るものだとおっしゃっていました。ある種のコーピング、あるいはアディクションのようなものだと。
ぼくはそれもあると思うのですが、
おそらくそれが必要な合理的な理由も同時にあるのではないかなと考えています。

ひとつ考えるヒントになるのが、
ザマッチでの天心選手との戦いの時、リングアナウンスで、実況の方が武尊選手を「戦いの神の化身が憑依する」と形容していたことです。
見てる人には分かると思いますが、武尊選手は試合の時は人格が変わっているように見えることがあります。戦いの内容としても、理論値としては勝てないような相手に奇跡のような勝利を繰り返してるので、まさに実力以上のものが宿っているとしか思えないのです。

(C)THE MATCH 2022

極限状態の中で掴み取る感覚


実力以上の力というのはたまたま発揮できるものと考えるのが普通ですが、それを狙って纏わせようとしてるのが武尊選手なのではないでしょうか。

そう考えると、武尊選手の日々の練習は、理屈を超えた領域へと向かうための滑走路作りのような意味合いがあるように思えてきます。おそらく数値的な実力向上が第一の目的ではないのでしょう。

仏教に千日回峰行という修行がありますが、武尊選手の練習はそれに近いものを感じます。

千日回峰行とは、白装束(しろしょうぞく)に宝剣を腰に差し、1000日かけて(4万km)地球1周分の距離を歩くというものです。そして一旦修行に入ると、絶対に中断は出来なく、挫折したら自害しなくてはならない。あまりに過酷なので、完遂出来たのは、これまで50人しかいないという常軌を逸した内容になっています。

引用・大峯千日回峰行満行者・塩沼亮潤大阿闍梨が命懸けの行から得たもの(致知出版社)


これは修行ではあるけれども肉体的に強くなるための修行じゃない。悟りを開くためのものであり、そうすることでしか手に入らない特殊な感性を得るためのものなのです。

「悟りを開く」というというと大変怪しい感じもありますが、一般に特殊な行動の中でしか生み出されない知識というのはあるのだと思います。
生態心理学においては、こうした動きにだけ相関する情報を不変項と呼んだりもします。

例えば、いきなり卑近な例になっしまい恐縮ですが、私の絵の制作だと、ある程度頑張って描き続けないと本当に必要な色や作業は見えてきません。
完成した絵をしばらく期間をあけて改めて見返すと、「これはいったいどうやって描いたのだろう」という具合に、自分でも制作プロセスがわからなくなる時がある。

なのでそれは、自分の頭の中にある知識や技術によってつくられたものとは言い難い面があるのです。
ある一定の行動を繰り返すことで、まさに悟りや閃きのような形で外から与えられる情報がある。
絵を作品のレベルにまで引き上げるにはその自分の外にある知識がどうしても必要なのです。


仏教における悟りを開くというのは自分の外側にある知識≒不変項を把握できるようになることだと考えています。

仏教の言葉でパラフレーズすれば、それはロゴス的な知性の外にある、レンマ的な知性への気づきということになるでしょうか。

いずれにせよ、ある閾値を超えるまで一つのことを繰り返すことによって、見えてくる領域というのがあるのだと考えられるのです。

武尊選手にとって日々の練習は、きっとその種の非言語的な情報をピックアップするためのものなのではないでしょうか。

コンタクトスポーツにおける勝敗というのは、偶然に左右される部分が相対的に他のスポーツに比べて多いです。そこを限りなく必然的な勝利へと導くために、普通であれば対戦相手の研究をしたり、自分の技術を磨いたりするわけですが、そうしたものとはまったく別のアプローチで勝利の法則をつかもうとしてるのが武尊選手だと思います。

引用・ABEmA格闘TIMES


勝つために必要な情報があるとして、それを普通の選手なら日々の練習の中から見出して、頭に蓄積させて、試合中取り出せるようにする。
でも武尊選手は違う、勝つために必要な情報を試合中、リングの場で、閃きとして自分の外から掴み取ろうとしてる。

それを可能にしてるのが、狂気的な練習によって研ぎ澄まされた感性なのではないでしょうか。

普通の選手は普段通りの実力をいかに試合で出すかが重要な課題になっているのにたいして、武尊選手は、いかにして普段以上の実力を出すかが至上命題になっている。そんな選手はなかなかいませんよね。

荒唐無稽な話に思えるでしょうか、そう思う方はぜひ、vs大雅1 、vsヨーキッサダー、vsレオナペタス、あたりの武尊選手の試合を見ていただきたいです。
ここまで語ってきたことが説得力をもって伝わるのではないかと思います。

生と死が重なる場所


冒頭で話した、真木悠介の『気流の鳴る音』の中では、先述した翼と根の両方を持つことの重要性が学術的な言葉でも紹介されています。

それによると、翼と根を両方持つことというのは、この現世から一度解き放たれ、つまり超越し、その超越を媒介して、再び現世に戻ってくること、つまり再内在化することだと書かれます。
あの世へ上昇し、この世に下降する運動を内に持っていることが魂を自由にすると。

超越や内在という言葉は神学や哲学などで多く用いられる言葉ですが、何を言ってるかがやや不透明でもあります。

ですが、これはズバリ格闘技のこととして解釈できないでしょうか。

格闘技に代表されるある種の芸事というのは、その起源にあたるのが相撲だといわれています。相撲の土俵というのは、神聖な場所であり、そこでは生と死が重なる場所として、まさに現実を超越した彼岸として存在している。折口信夫の芸能論集などでも語られていることですが、もともと相撲は勝負事というよりは、神さまに関する祭ごととしてあって、演劇的な性格が強かった。年占い的な意味合いもあって、農村においては畑仕事における最も大切な時期にあたる初秋に行われていたものです。

近代の格闘技においては土俵にあたるのはリングですが、そこは物理的にも生と死が重なる非日常の空間であり、まさにそのリングに上がり、そしてリングを降りるということは、超越へ上昇し下降するということを体現するような場所であるとも言えるのです。なので、格闘技とはもともと世俗的なものではなくて、宗教的なものとしてあるのです。

今こうしたことを自覚してリングに上がっている選手の1人が青木真也選手です。
彼は自らが芸事を行う、芸能民として、つまり現実と非現実、死と生、世俗と宗教、この二重性を持つものとして生きている。
この二重性を持つものこそ、ドンファンの言葉では自由な魂をもった戦士ということになります。
青木選手はよく「ヨカタじゃねんだよ」、つまり素人じゃねえんだよ格闘家は、と事あるごとに口にしています。それはまさに今話してきたことに、関係してるのでないかと思います。

そして、武尊選手はこれを無自覚に内面化しているように思える。死の領域に近いところまで行き、そして戻ってくる。この超越と内在の上下運動を、身体で表現している。そこに多くの人が魅了される。 

この図式は、1エンタメにおけるスポーツ選手の振る舞いというよりは、普遍的な芸術、芸能の型を暗示してるなと感じます。

真のカリスマ


武尊選手は「カリスマになりたいんだ」と多く公言していた時期があります。

カリスマという概念は、学問的には社会学者のマックスウェーバーが体系化しています。これは折口信夫が芸術の起源について論じたホカヒビト概念に相当するものです。
ホカヒビト、乞食のことでもあり、最初の芸能民のことです。詳しい話は省きますが、コミュニティが生成するときの中心に存在する狂気を纏った人のことです。
ホカヒビトは普通の人よりも、より死の領域に近いところに存在している。
であるがゆえに、死の領域からこの世の全体像を俯瞰できると考えられます。
常識の外側に存在するが故に、この社会で常識がなんの役にも立たなくなった時、典型的には戦争や災害で社会が通念ごと壊れた時に、光り輝く存在として人々の道標になる
そんな存在がコミュニティが立ち現れる時には必ず存在している。

同じような考えがウェーバーのカリスマ概念にはあります。
このカリスマ概念、およびそれを中心にした集合的沸騰という概念は社会学では危険思想という文脈で語られます。

武尊選手に魅入られる人は僕を含めてたくさんいますが、あれ程までに死ぬ覚悟を内面化した人に憧れるということは同時に危うさを孕んでいるとも思うのです。

でもそうした危うさに憧れるというのは、精神分析の言葉では享楽と言って、ものすごく強い動機づけにもなり得る。武尊選手に多くの熱狂的なファンがいる理由の一つでしょう。

カリスマという言葉は現代においては、当たり前のように使われる言葉ですが、このような歴史的な文脈も兼ね備えた形でのカリスマというのは、格闘家のなかでは武尊選手ただ1人だけなのかなと個人的には思います。

ということで、かなりいろいろな話をしてきましたが、武尊選手の戦いというのは今話してきたような、芸能の起源としての相撲だったり、宗教性を持つものとしての格闘技という原点を思い出させてくれます。その意味でも大変特別なものだと感じています。

本日6月24日、インパクトインパリ。相手は欧州ISKAチャンピオン。簡単な相手ではないと思いますが、武尊選手、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるのではないかと思っています。
一年ぶりの復帰戦。本当に楽しみです。
入場の瞬間から注目です。
武尊選手の戦いは今語ってきたように、研ぎ澄まされた感性が作り出す一つの作品だと思うので、しっかりと見届けたいと思います。

引用・ web SPORTVIA photo by 東京スポーツ/アフロ


             書き手・大熊弘樹

■参照コンテンツ

武尊vs大雅1


武尊vsヨーキッサダー・ユッタチョンブリー



武尊vsレオナ・ペタス


◾️出演者

大熊弘樹


■番組の感想は fukurouradio@gmail.com まで。

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