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いい大人なのに恥ずかしい

 メンタル弱者である。この世には明らかにメンタル強者とメンタル弱者が存在している。何があってもへこたれない人と、何かあればすぐに折れてしまう人だ。大抵の人は、この二つの間のグレーゾーンに位置していて、日々何かしらの仕事なりなんなりに励まれてらっしゃる。世の役に立っていないくせにのうのうと生きている私にとっては、頭の上がらない想いだ。
 私はメンタル弱者である。これは単に自分のことを弱く見せて優しくしてもらいたいなどという邪心からくる発言ではなく(勿論優しくしてもらうに越したことはないが)、私は周りと比べて明らかにメンタルが劣っているのだ。しかしそれを本当に理解できたのは、病院で診断を受けたりなんたりしてやっとわかったことなのだけど。
 メンタル強者とメンタル弱者。わかりやすく二つに分けたものの、そんなに単純な話でもない。努力や環境によってメンタル強者になった人も居るし、その時の体調や環境でも変化するものだ。だから一概に何とは言えない、誰もがグレーだ。だから正しくは、私はメンタル弱者の状態に陥ることが多い、とでも言えばよいだろうか。医療や心理学の知識、薬、認知行動療法、運動や健康管理など、あらゆる人類の叡智を享受した上でも、いまだに感情の波に左右されている。もういい大人なのに恥ずかしい。もう慣れたけど。いや、慣れたと思い込みたいだけか。
 さて、ここまででメンタル弱者という概念に腹が立ってしまう人は、この辺でお別れしよう。この後もさらに腹が立つこと請け合いである。そんな人にとっては言い訳に聞こえても仕方のないことを、つらつらと書き連ねるからだ。去ったかな。それでは続けよう。
 才能という言葉がある。生まれつき持っている、何かをするのに長けた素質があること。文筆の才能、コミュニケーションの才能、お笑いの才能、音楽の才能、などなど。自分のやりたいことをやって、あなた才能あるね!などと言われると脳汁が吹き出るほど嬉しいものだ。その才能について。最新の医療の研究はどんどん進んでおり、努力することも才能だということが分かったとのこと。努力できる素質かどうかすら、遺伝の要素が強く、努力できるかどうかは生まれた時からほぼ決まっているらしい。努力できるかどうかは、その人の努力ではどうにもならない、ということだ。私はこれを知った時衝撃を受けたと同時に、少しホッとした気持ちにもなった。よくよく考えれば、それぞれやれることなんて違うんだからそりゃそうなんだけど。全ての人が頑張ればできるなんて幻想を信じられるほど順調な人生を送ることができなかった私には、いたく染み込んだ。だったら、今の出来ない自分を肯定してあげなきゃな、と自分の身体を労る気持ちさえ芽生えたのだった。

 しかし。我々は人間という動物である。動物は、基本生き延びれる強さを持った種だけが残っていく仕組みだ。これを人間に当てはめると、我々メンタル弱者は滅びゆく種なのだとも思う。人間社会から見たら優劣をつけること自体が差別であるのだから、そんなこと思う必要もないのだが、でもそこを平等にしようとするから、あらゆる不具合が起きているのではないかとも思う。まあ考えすぎなのは分かっているのだけれど。

 生まれつきメンタル強者だった人、もしくはメンタル強者寄りの人は、メンタル弱者に厳しいことが多い。自分が頑張っているんだから、お前が頑張っていないのは許せないとでもいうように。しかし、その才能を持っていない我々は、なんとかそれについて行こうとするとどこかでガタが来て、病院に通う羽目になるのだ。ああ、無常。メンタル強者の気持ちも理解できるからこそ、余計切ない。彼らだって、努力を才能だと認めてしまったら、自分の努力がまるで頑張ったからではないように感じてしまうもの。それはものすごく嫌なはずだ。遺伝でなく、自分が頑張ったからだと思いたいよ。私が逆の立場だったら絶対そう思うもの。そして、メンタル弱者のことを呆れた目で見てしまうんだろうな。メンタル強者として生まれてきたことを、ただ感謝すればいいのにと思うのだけれど、その思考に至るのは難しいのだろうな。

 この辺があるので、誰も悪くないが、メンタル弱者は本当に生きづらい。それを感じるから余計気を張るし、体調を崩して信用だって失いやすい。なんとか頑張って生きてるんだけどね。そんな奴仕事からしたら扱いづらいことこの上ないもんね。本当にこの世界線のこの時代、私向いていないよ。ああ、高等遊民になりたい。

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