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パリだというのに|②資本主義と大聖堂

パリ留学中の片岡一竹さんの連載です。オミクロン株の感染者が増え続けるパリで迎えたクリスマス。イブを過ごしたシャルトルでのミサの様子などを、著者ならではの視点で綴ったレポート!

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 コロナが本格的にまずいことになってきた。

 すでに日本でも広く報道されているので知っている人も多かろう。フランスでは十二月二三日に新規感染者数が9万1千人を超え、過去最多を記録した。続く二日間はこの記録を更新し続け、二四日クリスマス・イブには約9万4千人、そして二五日クリスマスにはついに10万人超えと相成った。二六日には約2万6千人まで減少したものの、休み明けに一時的な感染者数の減少がみられるのは通常通りのことなので(二五日はクリスマスで祝日)、依然予断を許さない状況が続いている。完全にコロナ第五波がやってきた。
 前回の記事でフランスにおけるコロナ対策への意識の違いを話題にした矢先に感染者数が目まぐるしく増加したわけで、むべなるかな、といったところだが、むろん喜ばしい事態では全くない。恐れていた事柄がついに現実のものとなった。
 しかしこれほど危機的な状況であるにも拘らず、政府は特に新しい対策を講じているようには思われない。確かにカステックス首相も何度か記者会見を開いて国民に政府の方針を示しているが、そこでアナウンスされたのはマスク着用や手洗い、換気の徹底といった衛生措置の更なる強化、大人数での集会の中止の推奨(「推奨」が何の効力も持たないことは前回述べた)、ワクチン接種の推進、衛生パスの厳格化など、要するに「これまでやってきたことをもっとやっていきます」という方針の再確認であり、言葉を換えればこれは「特に新しいことはやりません」と言っているのと同じである。
 おそらくはワクチンの効力によって死者数の最大値こそ更新していないものの(第二波の時に死者数が400人/日前後だったのに対し、現在は200人足らず)、感染者数が過去最高を記録したのだから、新たなロックダウンなどが考慮されてもよいはずだが、政府は強固な措置に打って出られないでいる。
 その大きな理由の一つが、現在クリスマス・シーズンであることにあるだろう。何しろクリスマスと言えばあらゆるマーケットの書き入れ時である。その真っ只中でロックダウンを行って経済を停滞させるわけにはいかない。たとえ感染対策が後手に回って死者が増えようとも、経済を回し続けなければ、むしろそのせいで生活が破滅し死へと向かう人の数が多くなる。
 文字通り「金は命より重い」のだ。資本主義の宿痾がここにある。市場は絶えず拡大を続けなければならず、人が死のうと金を動かし続けなければすべての人間が共倒れになる。資本主義経済は、何が起ころうと「いったん止まる」ことを許されない。動き続けなければ破綻がすぐ目の前に待ち受けている。どれだけ西武グループや山一證券がその栄華を誇ろうと、いざ破綻するときには一瞬ですべてが崩れ去る諸行無常の世界を私たちは生きているのだ。
 時代錯誤も甚だしいことを書いてしまったが、コロナ禍が訪れてから日本でもフランスでもずっとそんなことを思っている。だからこそ条件上不安定さを免れえない資本の流れに対抗できる第三の勢力が必要で、そこには国家権力のある種の必要性(要は広い意味での福祉のことだが)を不本意ながら認めざるを得ないのだが、新自由主義体制下で推し進められた「小さな政府」化による国家福祉の弱体化のツケが、このコロナ禍においてついに回ってきたように思える。
 慣れないことを背伸びして書くと己の無知が露呈するだけなのでこのあたりで話を終えよう。ちなみにクリスマスも終わったところで年明けあたりからロックダウンに入るのかもしれないが、一月中旬から始まる冬のバーゲン(フランスではバーゲンの時期が一律に定められている)はどうなるのだろうか。引き続き状況を追っていきたい。

 さて、神羅万象を飲み込んで飽くことのない強欲な市場の渦からのささやか逃避行として、今年のクリスマス・イブは敬虔に過ごすこととし、フランスの田舎町シャルトルにあるノートルダム大聖堂にてミサに参加してきた。
 むろん理由は完全な後付けである。同じ留学生仲間であるAさんのシャルトル旅行に同行したに過ぎない。

 シャルトルはパリよりも南西に位置する人口四万人足らずの閑静な街で、街の中心にたたずむノートルダム大聖堂はゴシック建築の傑作としてユネスコ世界遺産にも登録されている。世界史の教科書や資料集で目にした向きも多かろう。ノートルダム大聖堂と言えばパリのそれが真っ先に思い浮かぶが、そもそもノートル・ダム(Notre Dame)とは「我らが《婦人》」という意味で、つまり聖母マリアのことを指す。聖母マリアに捧げられた聖堂はすべてノートルダム聖堂であり、パリやシャルトルのほかにもランスやルーアン、ストラスブールなど各所にノートルダムがある。
 パリのノートルダム大聖堂が2019年に火災で一部焼失したことは記憶に新しいが、シャルトルのそれも1145年の着工以来度々の火災に見舞われており、そのたびに改修や増築を繰り返してきた。もっとも特徴的な二つの尖塔はその大きさ、形状共に大きく異なっているが、これは一方(右の尖塔)が十二世紀における初期ゴシック様式に特徴的な幾何学的なデザインを留めているのに対し、他方(左)には十六世紀の後期ゴシック様式に則った、より装飾の技巧性が際立つ建築様式が採用されていることによる。時代が下るにつれてよりゴシック建築が発展、複雑化していったことが一目にわかる。

図1:シャルトルのノートルダム大聖堂。
自分で撮った写真が下手すぎるのでウィキペディアから画像を借りました。
(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Westfassade_Chartres.jpg)

 もちろん二つの尖塔以外にも、内外を彩る様々な彫刻品群や古いもので十三世紀にまで遡る華やかなステンドグラスなど、見どころは限りがない。フランス革命期における破壊や略奪も免れ、大聖堂は歴史の荒波を搔い潜った荘厳な姿を今なお留めている。
 建物内にはもちろん無料で入れるほか、有料ではあるがガイドと共に尖塔部分に上って大聖堂の歴史や諸々の修復作業の詳細を知ることのできるツアーも一日二度行われている。有料とは言えほんの六ユーロであり、さらにEU在住で二五歳以下の学生であれば無料になる。
 シャルトルの町はこの大聖堂のほか、ある無名の男性が三十年以上の年月をかけて割れた皿などから作り上げたモザイク装飾で有名な「ピカシェットの家」がある。しかし残念ながらこちらは十一月中旬から二月中旬まで閉館中とのことなので、今回の旅行では大聖堂に集中できた。

 一通り街の観光を済ませた後、十七時半から行われたミサに参加してきた。本格的なキリスト教のミサに参加するのは初めてだったのだが、一緒に旅したAさんやHさんがキリスト教徒もしくはカトリック系の学校の出身だったので、二人に助けられて何とか付いていくことができた。讃美歌や祈りの言葉についても全くの無知であったが、歌詞カードが配られたので見様見真似で歌うことができた。
 ミサの感想も色々あるが、一番印象的だったのはキリストやマリア、そして父なる神を指す二人称がtuであったことだろうか。フランス語にはtuとvousという二つの二人称があり、前者は親しい間柄で用いられ、後者は敬意が込められている。キリストやマリアのような聖なる人に対してはvousを使うのかと思いきや、実際にはtuが用いられる。マリアはあくまで神そのものではなく人間であるからtuを使うのもわからなくはないが、神に対してもtuが用いられているものがあった。親きょうだいや恋人以上に最も親しい存在である神との一対一の交流において、神との魂そのものにおける交流のためにtuで呼びかけるのだろうか。そういえばこのあたりのキリスト教史を研究している友人が何人かいた。彼らにまた尋ねてみよう。
 ところでフランス語の和訳に際してvousは「あなた」、tuは「お前」もしくは「君」と訳すことが慣例となっているが、これらの文言を「君」や「お前」で訳すことはいくらなんでもおかしい。このあたりに日本語とフランス語の感覚の違いを感じる。日本語それ自体に沁み込んだ上下関係に対する厳格さゆえに、「神に対してtuで話す」というこの微妙なニュアンスを日本語に写し取ることは困難である。「お前」「君」ではどうしても「相手を下に見ている」ような意味合いになってしまう。
 つまり「親しさ」と「下に見ること」との区別が、まず言葉の上で困難なのだ。日本語を話すうえでは、「上の人間に対する卑屈さ」、およびその反転である「下の人間に対する尊大さ」がほとんど意志に関係なく自然と生まれてしまい、そのため尊敬と卑屈な隷従、親しさと無礼の境界線が曖昧になってしまう。このテーマについて考えていくとかなり根深い問題に突き当たりそうだ。

 ミサが終わって外に出ると大聖堂の壮麗な外壁をスクリーンとしたプロジェクション・マッピングが行われていた。公式サイトに二七日にプロジェクション・マッピングが行われると記載されていたので今回は見られないものと思っていたが、嬉しい誤算であった。

図2:プロジェクション・マッピングの動画(一部)。
私の間抜けな声が入っていますね

 歴史ある大聖堂に余計なことをしてくれるなという向きもあろうが、暗くなり始めたくらいの時分に聖堂内に入り、儀式を終え、すっかり日も落ちて外に出たときに見上げる光のショーは文字通り神秘的な体験であった(まあ100%人工の「神秘」なのだが)。動画では全然伝わっていないと思うが、とにかく「デカい」、そして「眩しい」のである。観光は得てして「ガイドに載っていたことの確認作業」に終始してしまうものだが、この「デカさ」という情報は実際に現物を目にしなければ決して味わうことができない。観光の醍醐味の半分以上は「デカさ」の実感にあると私は思う。

 ということで今年は単なるマーケットを回すためのカンフル剤ではない「正統な」クリスマス(イブ)の夜を過ごすことができた。旅をオーガナイズしてくれたAさんや同行者のHさんには感謝しかない。
 シャルトルは観光の「穴場」で、周りを見回しても地元の住民が多数を占め、観光客らしき人はいなかった。その中で、しかもこのコロナ禍において、余所者が土地を踏み荒らすのもどうかとは思ったが、地元の有名なチョコレートショップでお土産を購入して地元経済の活性化に寄与したのでどうか許してほしい。

 ああ、結局資本主義への貢献によって自分の旅行を正当化してしまった。

片岡一竹
早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース後期博士課程。著書に『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房、2017)など。


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