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パリだというのに|①“自粛”から遠く離れて

パリ留学中の片岡一竹さんの連載が始まります。3度目のロックダウンを終えたパリの現在の様子を、著者ならではの視点で綴ったレポートです。

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 今年の9月からパリに住んでいる。一年間の交換留学である。
 住み始めて間もなく、福村出版の松山さんから話を頂いた。なんでもこの度福村出版の編集部で新しくTwitterアカウントを立ち上げるので、景気づけにNOTEで連載を行い、パリの現在をレポートしてほしいということらしい。
 松山さんが何を勘違いして私にこのようなオファーを出してきたのか不明であるが、せっかくの申し出を無下に断るわけにもいかない。彼女に頼まれた次著の完成も、もう4年以上遅れている。ただ、日々命を繋いでいくだけで必死な私に、パリの現代をレポートするような余裕も実力もない。「本当に日記のような内容になりますよ」と言ったら、「それでも構わない」という返答だった。
 そういうわけで今月からこの連載が始まる。

 さて、松山さんからのメールに書かれていた当連載の初期タイトルは「フランス便り――コロナのあとのフランス」だった。気になるのは副題だ。「コロナの“あとの”フランス」。メールが届いたのは9月の終わり、つまり日本がまだ4度目の緊急事態宣言下にあり、一日当たりの感染者数が2200人を超えていた時期である(9月20日の新規感染者数が2221人。NHK調べ)。この文章を書いている2021年11月7日現在の新規感染者数が161人である(NHK調べ)のと比べると実に14倍弱だ。緊急事態宣言が解除され、街が往時の活気を取り戻してきた(らしい)現在ならばわかるが、9月末の時点で早々に「あとの」と言い切るのはなかなか剛の者である、と思った。
 ただ結果として松山さんの考え方も正しかった。パリに居るとこの「コロナのあとの……」という言葉がふさわしくみえてしまうのである。
 実際、この国に来て初めに受けたカルチャーショックが、「誰もコロナのことなんか気にしていない」であった。
 もちろんこれは単に「そう見える」というだけであるし、コロナ前のパリを知っている人にとっては、生活様式上に起きた変化が色々と目につくだろう。だからこれはあくまで「日本と比べると、まるでコロナなど存在していないような気がするほど、民間レベルの感染対策が行われていない」という印象の話である。
 例えば、日本の飲食店ではどこでも常識となっている、食事後の座席の消毒。日本の飲食店で食事をしていた時は「店員の拭き方が甘い」と言って不安になっていたが、今から考えると私は甘チャンであった。パリでは、そもそも店員が食事後に座席を拭く光景すら目にしない。たまに拭いていることはあっても、単なる水拭きである。私がロクなレストランに行っていないだけかもしれないが、日本ではどんな場末の牛丼屋でもせっせと消毒に勤しんでいることから比べると、実に大きな差がある。
 それから、日本では今やどの施設の入り口にも置いてある消毒用アルコール。これはパリにもあることはあるのだが、ほとんどの場合、詰まっているか液体がなくなっている。そしてそれを誰も交換しようとしない。バスやトラム(路面電車)の駅にも消毒用ジェルのディストリビューターがあるが、まったく清掃されておらず、中に入っているジェルもいつ入れられたものだかわからない。消毒とは別のところに衛生的な不安があって使えたものではない(ちなみに、こちらでは霧吹き状の消毒液はなく、ジェルしかない。しかも全てがべたべたするタイプなので毎日少しずつ不愉快である)。
 日本の都市部ではようやく飲食店の20時以降の営業自粛が明けたらしいが、こちらのバーやクラブは来た時から絶えず夜通し営業を続けている。週末の街角では老いも若きもビールのグラスを片手に深夜まで歓談にふけり、そこに「自粛」や「黙食」の文字は一切ない。
 というよりもこの「自粛」という奇妙な概念、これが実に日本的なのだと実感させられた。
 フランスでは昨年の3月17日~5月11日、10月30日~12月15日、今年の4月3日~5月3日、三度の「グラン・コンフィヌマン」(外出禁止令)が発令された。これは「自粛」ではない。「禁止」である。実際、特定の外出条件を破って家の外に出たことが明らかになると罰金が科せられ、再犯を繰り返すとその額は上昇し、遂には懲役刑にまで至る。
 だが今やコンフィヌマンは解除された。外出や営業を禁止するものは最早ない。禁止されていないのであれば権利がある。だからバーは夜通し営業するし、友達や家族とともに飲みにも出かける。禁止の反対は許可。実に明快な論理である。
 日本の外出「自粛」令は「あえて禁止はしないが……わかってるよな?」という、最近はやりの言葉で言えば「忖度」の論理である。どこまでが禁止されており、どこからが認可されているのか、その境界線が果てしなく曖昧で、そうであるがゆえに権利上、すべては禁止されうる。禁止と処罰の論理においては「禁止する側/禁止される側」の対立が明確であり、権力者はある意味自らの禁止令の責任を取らざるを得ない。それに対して忖度の論理においては「誰か禁止しているのか」、その主体の座を担うものの正体はあくまで不明瞭であり、時に「禁止される側」が、自発的に、新たな禁止を創り出していく。
 これは前近代的な「見える権力」(外面的な権力)と近代的な規律訓練型の「見えない権力」(内面化された権力)の違いではないか、そうであるならば、いち早く近代化を成し遂げたはずのフランスよりも文化的に「遅れている」はずの日本のコロナ対策においてむしろ近代的権力の典型を見てしまうのはなぜか……と、どこかで聞いたフーコーの初歩知識を基にとめどない思索に耽ってしまう(そう呼べるほど立派なものではないが……そもそも日本の相互監視的な忖度文化と近代型権力をナイーブに同一視することは危険すぎる……むしろこれは前近代よりさらに前のムラ社会の問題ではないか……以下無限)。
 しかしいずれにせよ、日本においてしばしば感じていた「禁止はしないけどね……」という粘着質の、「ダメじゃないけどそれをやったらつまはじき」がいたる所に待ちかまえている不安に比べて、パリのほうがより明確に「どこまで許されているか」が定められているようで、少し解放的な気分になった。

 とはいえ、先日参加したパーティーで、バーの地下に押し込まれた50人以上の若者が換気もせずにラウドな音楽に乗って踊り狂っている輪の中に入れられたときは、さすがに生きた心地がしなかった。何を考えているんだ。コロナが怖くないのか。

片岡一竹
早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース後期博士課程。著書に『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房、2017)など。

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