「もう電話してこないで」それが父に放った最期の言葉だった
「もう電話してこないで。それからお母さんのいう通り、別に会いたいと思ってないから」
これがぼくが父に向けて最期に放った言葉だ。
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ぼくが小学3年生の時、父と母は離婚した。理由は今となっては分からない。
ただ、ぼくの父はどこから見てもだらしなくて、どうしようもない人だった。
酔うとあたりかまわず怒鳴りちらす人だったし、父が遊んでいたスーパーファミコンの電源コードを誤って抜いてしまった時は殴られたりもした。今考えれば急に仕事を辞めてきたり、まともに働いてもいなかったのかもしれない。
そんな父に愛想を尽かせた母は、会社の同僚の男性にたまにそのことを相談をしていた。ある日そのことを知った父は「浮気だ」と激怒し、母を殴りつけた。
「違う」と叫ぶ母を無視して殴りつける父を目の前に、小学生だったぼくや兄弟はただ泣きじゃくるしかなかった。
そんな荒れた家庭環境が原因かは分からないが、ぼくが円形脱毛症というストレス性の10円ハゲに1年ほど悩まされたのもこの頃だ。
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ほどなくして父と母は離婚。ぼくらは月に数回父の家へ遊びに行く関係になった。
最初こそ良かったが、状況が変わったのは父の家に通い始めて3ヶ月目くらいのある夜。
いつも以上に酒の入っていた父は、母に再婚について切り出したらしい。もちろん母は断った。
すると激情した父は急に家の中で暴れ始めた。2階で遊んでいたぼくら兄弟は「帰るで!!」という母の大声でその異変に気付いた。
泣きながら暴れまわる父の間をすり抜け、母とぼくら兄弟は逃げるように車に乗り込んだ。激情している父は我を忘れて暴れ叫び、車に乗り込むぼくらに向かって水が入った2Lペットボトルや、その日食べていた晩ご飯の残りなどを投げつけてきた。
そのシーンが恐怖のあまりに強く脳裏に焼き付いていて、そこからどうやって家まで帰ったのかは覚えていない。追われるように逃げ帰ったぼくら家族は、その日を境に父の家にはいかなくなった。
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父と離別してから数ヶ月。最初は音沙汰のなかった父だったが、しばらくすると酔っ払った父から自宅に電話がかかってくるようになった。
あの夜以来、ぼくら兄弟はすっかり父が怖くなってしまい、電話はいつも母が受けた。
『子供たちは元気にしているか』と近況を聞いて満足する日もあったが、次第に『子供達に電話を変われ』『会わせろ』と言うようになった。
ぼくらは恐怖のあまり電話が掛かってくる度に泣いていたので、とても電話で話をできる状況ではない。
そんな様子を見た母が「子供たちは泣いているし、話したくないと言っている」と伝えると、ある日酔った父はまた激情し『お前が嘘をついているだけだろう、明日家に行くからな』と捨てセリフを吐いて電話を切った。
父が家に来る。感情的になった父は何をするか分からないので、しばらくのあいだ学校を休んで祖母の家で生活したりしていた。
——いつ父が来るか分からない。当時は夜になると父の恐怖に怯えながら過ごしていた。
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その日もまた父から電話がかかってきた。母が受け答えするが、父はどうしても『子供達と話をさせろ』といって引き下がらない。ぼくら兄弟は怖くて泣いている。
この日はとうとう母が折れた。「あんたらと話したいって聞かへんから、嫌なら嫌って直接言ったり」とぼくら兄弟に言ってきた。
兄も妹も怖くてとても話できる様子ではなかった。もちろんぼくだって怖い。でもこれ以上父に生活をめちゃくちゃにされるのは嫌だ。母から受話器をもらい、震える声で父に告げた。
「もう電話してこないで。それからお母さんのいう通り、別に会いたいと思ってないから」
そう言われた父は何も話さなかったけど、悲しそうな様子なのは無言の電話越しでも伝わった。父はそのまま電話を切った。
その日から父は家に電話をしてこなくなった。そしてこれがぼくが父に放った最期の言葉だった。
“最期”と書いたのは文字通り、父は5年前に亡くなったからだ。
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父と最後に電話で話してから15年後の社会人1年目、ぼくは名古屋で働いていた。その年の冬、母から1本の電話があった。
「父が亡くなった」
数日前から危ない状態が続いていて、父方の親族から連絡をもらった母や妹などは最期に見舞いにも行ったらしい。ただ父の死に目には会えなかったそうだ。
ぼくは名古屋にいたこともあり、母はわざわざぼくに連絡はよこさず、事後報告となった。
聞くとここ数年は肝臓を悪くして入退院を繰り返し、とうとう肝不全を患って亡くなったらしい。父はまだ50歳前後だったので、日頃の不摂生がたたったのだろう。
すでに離別して相当な年月が経っていたことやその他いろいろな事情もあり、ぼくは葬儀にも参加しなかった。
悲しいか?と聞かれると、悲しさはほとんどない。物心ついた時には父はぼくの生活にはいなかったし、ぼく自身にも家族に対しても酷い仕打ちをされ、情もほとんどない。
正直に言うともう父の顔すらうろ覚えだ。背丈も声も、彼のことをなんて呼んでいたのかも覚えていない。
ただそんな父でも、自分の命を作る片方がこの世から無くなったと思うと、喪失感のようなものを感じる。自分という存在の一部にポッカリ穴が空いてしまったような。
自分という人間は独立して生きているように思うけど、本当は家族や恋人、友人などいろいろな人が自分という存在を構成し、それによって自分が成り立っているのかもしれない。
父が亡くなったとき、ぼくはそんな風に思った。
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父のことをこうやって書いたのは、ぼく自身心のどこかで父のことを引きずっていたからだと思う。10歳の時に電話で話したのを最後に、その後顔も見ないまま父は亡くなってしまった。葬式にも出ていない。
そんな中途半端な状態だからか、父の日が近づくと毎年心の片隅がチクチクと痛む。
父のことを恨んだこともある。父の持つ暴力性が自分の中にもあるのではないかと怖くなる日もある。ぼくが年上の男性と接するのが苦手なのも、父との思い出があるからかもしれない。
彼の人生は幸せだったんだろうか。30歳そこらで家族に逃げられ、その日暮らしのような生活を過ごし、50歳で亡くなってしまった。借金だってあった。
彼のことを恨んでいる人は少なくないはず。ぼくだってその1人だろう。離婚後に養育費も払わなかった父。母は女手一つで小学生の兄弟3人を育ててくれたが、貧乏じゃなかったというと嘘になる。
どう考えても最低な父だ。でも、亡くなった後でも彼のことを思い出してあげられるのもまた、家族だけだと思う。
あいにく彼の誕生日も、命日もぼくは覚えていない。だからせめて、毎年父の日には彼のことを少しだけでも思い出してあげようと思う。
産んでくれてありがとう、そっちでは健康に気をつけて元気でいてね。大嫌いだったよ。
今日の1枚
普通の幸せが実は普通ではないと知っているから、ぼくはありふれた幸せを大切に残していきたい。
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