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アナザー近代建築史─歴史の建設 アメリカ近代建築論壇とラスキン受容

19世紀から20世紀前半のアメリカ建築界がみせた「ジョン・ラスキン」という問題への異常な執着とは何か.アメリカ建築の出自と伝統を問う熾烈な派闘争のなか,ラスキンの思想がどのように参照され,批判され,忘却され,評価されたのかを綿密に追跡することを通して,近代建築史成立の根幹を描き出した画期的論考.

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『建築の七燈』や『ヴェネツィアの石』などを著した建築理論家ジョン・ラスキン。
本書の特徴はラスキン自体ではなく,19世紀から20世紀前半のアメリカの建築界のラスキン「受容」について語られる点だ。
当時の社会状況や出版背景などを丁寧に紐解くと、ラスキンを語った人びとの立場によって解釈がさまざまであったことが見えてくる。ラスキンを科学的・神秘主義的なゴシック建築理解者とする解釈があれば、機能主義の唱導者であったことを強調する解釈もある。つまりラスキンを中心にまったく真逆なさまざまな解釈が渦巻いているのだ。
この状況には、これまで目を向けられていなかったアメリカ地域史という近代建築史の別の面が関係している。


また、東京大学出版会の冊子に掲載された著者による解題「無色の瞳がみる世界」を読むと、改めて本書が「ラスキン」自体ではなくラスキン「受容」に視点を置いて書かれていることが特徴という点が分かる。
そして、ラスキンという人物はアメリカ建築論壇に大きく影響を与えた人物であり、自ずとしてこの書籍は「アメリカ建築論壇史通史」となっていることで独特の立ち位置を獲得しているということが読み取れる。
この解題が面白いのは、なぜ「日本人」たる著者が「アメリカ建築論壇史通史」を書くのか?ということに対しての思いが綴られている点だ。
著者はそこにイギリスとアメリカ、イギリスと日本のパラレルな距離感に共通性を見出している(エドワード・バーン=ジョーンズの『コフェチュア王と乞食娘』を通した運命的な繋がりも)。

また、著者はこうした研究が可能となったのは情報技術の発展の恩恵であると述べている。
歴史家であったとしても染み付いた歴史感の払拭は難しく客観的な観察が難しい。しかし、情報技術によって膨大な数の一次史料に触れられるようになったことで新たに見えてくるものが出てきたという。
情報爆発と言われる時代においてネガティブな部分が多く見られるが、歴史研究の点でこうした視点が呈示されるのは新鮮だ。

個人的なことだが、『歴史の建設』を読んだ時、僕が知っていたのはせいぜいヘンリー・ホブソン・リチャードソンやスタージス程度で、レオポルド・アイボリッツやヘンリー・ヴァン・プラントのようなアメリカ建築界の登場人物たちは知らなかった。そうしたこれまで空白となっていた部分が埋まっていくという意味でも本書には知的好奇心をくすぶるものがあるし、歴史研究の新しい萌芽を感じた。
もう一度しっかり読んでみようと思いました(いうの3回目くらい)。


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