FF10に思いを馳せた
テレビのCMで「いなくなった人のことを、ときどきでもいいから思い出してください」なんてフレーズを聴いてしまったものだから、懐かしくなって思わずFF10のムービー集動画をバーっと見てしまった。
FF10は大体、僕が小学6年生だか中学1年生だかのゲームだが、猛烈にハマった記憶がある。
それまでドラクエを主戦場としていおりFFはやっていなかった。その僕が何故FF10に興味を持ったかは不明である。
今見てもストーリーがとても秀逸だし、それに合わせての演出も憎い。OPで流れるジェクトのテーマがお気に入りで、それがラスボス戦でも流れたときは狂喜した。
動画を観始めたら止まらなくなって思わずEDまで見てしまった。
10年経っても胸にじんわりくるものがある。当時のCGなので、もちろん今の技術と比べたら粗い感じがする。であるけれど、夢中になって観れる。解像度の高低はどれくらい物語の感じとり方に影響を与えるのだろう。ゲームの物語で感動する、というのはゲームをしている人なら1回や2回くらい経験があるのかもしれない。
ゲームの脚本では感動させられることができるのに、それが何故映画や小説になると失敗してしまうこと多いのだろうか、とふと疑問に思った。
ゲームはそれがゲームであるかぎりはすべてがムービーというわけにはいかず(「ムービーゲー」と言われるFFでさえ)、必ず操作するタイミングが存在する。
であるからして、物語を懇切丁寧に1から10まで描写する訳ではない。
故にそこに欠落した物語を想像するための「余白」が生まれる。一方、映画や小説はゲームに比べると受動的な性質を持つものである。そのため、「余白」が少なくなる(もちろん映画や小説だって1から10ま描写するわけではないが)。だからこそ、ゲームと映画や小説のあいだには物語のつくりかた・感じとり方に違いが生まれるのかな。
これがいわゆる「プレイヤー的視点」で、ある意味現代的な在り方なのか。「ゲーム的リアリズム」ってやつか。
物語は断片的になる。
『東京グール』とか『進撃の巨人』を見てると、物語は断片的になっている。それは「プレイヤー的視点」に関わるのか。とはいえ、漫画も「余白」の量が多い創作物であると言える。漫画は「コマ」という媒体があるかぎり、1ページには必ず「余白」が存在する。であるからこそ、漫画の映画化、ドラマ化は難しい。
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