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「六次の隔たり」

インターネットは「知りたいことを知る」ためには最適なツールであると言える。現在、さまざまなデータがアーカイブ化され検索性が向上している。人びとは自分の知りたいことを知るためには検索窓を駆使し検索すれば事足りる。さらにはパーソナライズ化が進展したその先には「検索しない検索」の時代がやってくる。ありとあらゆる情報をアルゴリズムが本人に先立って提供してくれる。

パソコンとは「パーソナルなコンピュータ」だ。かつて、私たちのパソコンをインターネットに繋ぐためにはパスワードを入力することが必要で、まさしくパーソナルな存在としてパソコンが存在している瞬間があった。それが、ウェブを介して、パーソナルではなくなってしまった。しかし、今また「パーソナルなコンピュータ」は復活しようとしている。おっせかいなまでの能力を備えて。

インターネットは「知らないことを知る」ためには向かない。それを打破するためにtwitterのRT機能や様々な偶然性を介入させようとするシステムも存在しているが、結局はフォローするのは自分が「知りたい」と思っている人をフォローするのであって本当に「知らないことを知る」ことに繋がっているかはわからない。ネットはある面で見れば、個人の世界を今まさに狭めようとしている方向にある。

さまざまなSNSは「六次の隔たり」という仮説のもとに組み立てられていると聞いたことがある。これは

人は自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人びとと間接的な知り合いになることができる


というもので、スモール・ワールド現象の一種として知られている。SNSがこの仮説に基づいているとすると、SNSはあらゆる人びとと繋がる可能性を秘めていると感じられるのだが、現実にはそうはなっていない。これは、やはりパーソナライズの影響なのだろうか。

多すぎる情報は人びとにとっては良くない、というより多くの人びとはそれを苦痛に感じるだろう。快適にネットをするためにはパーソナライズは必要な処置かもしれないが、そのことによってネットやSNSが秘めるひとつの可能性を狭めているように感じる。


「あらゆることが検索できれば、知識など必要なくなる。」という文章をどこかで見たが、私はそうは思わない。「知識」とは得る段階では、全く必要でないことが度々ある。効果的に使おうと思って「知識」を得ようとする人びとにとっては、それは「知識」ではなく「情報」となる。「知識」とは本来的には必要のないように思えたもので、それを自らの脳髄に澱みのように蓄積してゆく、すると、ある日思いもかけない方向でひらめきが生まれる、そのような偶然性をひき起すものではないだろうか(必ずしもひらめきが生まれるとは限らない)。「知識」は偶然性によって宝石に変わる、価値に変わる。だから、人びとは貪欲に「知識」を求めることが必要なように思える(というより、人間は本来そうであったからこそ、ここまで進化してきたのではないか?)

ただ、極限まで進化したネットは知識をも凌駕する。偶然的に出会ったものに対してネットがありとあらゆる検索をすることによって、知識をためることによって生じていた事態と擬似的な事態が起こりうる。

「生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。種として生命は遺伝子としての記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人たりうる。たとえ記憶が幻の同義語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ。コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなた達はその意味をもっと真剣に考えるべきだった。」
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』「人形遣い」の台詞(1995)

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