秋葉原について2

前回のエントリからとりあえず付箋貼ったとことラインを引いたところを写経しつつ整理中。

「そのような大企業資本の後ろ盾に乏しいオタク趣味が、90年代以降、いくつかの要因が絡んで、秋葉原の電気街に磁場を形成した。そして1997年から急速に、電気街から日本一のオタクの聖地へと、その街を変貌せしめたのである。巨大な資本を投入した組織的開発でも行われたかのように、昔からの電器店が次々とオタク趣味の専門店に取って代わられ、アニメやゲームが壁を埋めるオタクの個室が、都市環境へとブローアップされたように。」
『趣都の誕生』

1997年。「エヴァンゲリオン」の影響をは随分と強かったようだ。

「ところが1980年代末頃から、その後のバブルの崩壊とともに台頭してくるコジマなどの郊外型の量販店に、秋葉原は家電市場を徐々に奪われていく。」
「新しい家電製品を買うという行為が、電気街に足を運ばせるだけの高揚感をかつてほどもたらさなくなったことも、そこには絡んでよう。」
『趣都の誕生』

ここには郊外型ロードサイドの問題。スプロール化との話が密接に繋がっている。やろうと思えばかなり広汎な都市論になる。

「”Gotham”と辞書で引くと、「阿呆村」「New York市の俗称」といった記述に連なって、「Batmanが住み活躍する町;New York市を想定」と出てくる(『リーダーズ・プラス』初版)。シャングリラやエメラルド・シティのように、物語の中に描かれた架空の都市が、長く読まれる間に一般に認知される場所性を獲得し、さまざまな文脈の中で引用されるようになる。そうした地名のひとつにまで、ゴッサム・シティはなっている。」
『趣都の誕生』

フィクションと地理の関係の興味深い事例としての「ゴッサムシティ」。しかし、日本人の私たちには実際のところ上記のような感覚は薄い。これはかなり国ごとに依存したコンテクストが存在している。それを考えると私たちが『シュタインズゲート』の舞台の「秋葉原」をオタクの街として暗黙的に認知しているのは、相変わらず興味深い事態。

「アニメーションというのは不思議なもので、「ここはどこだ」とはっきり言わないと、大体「そこは東京である」と思っちゃうんです。街の名前とかを特定しない、生活を描いているアニメーションはいっぱいあるわけです。『うる星やつら』をやったときは、最初は「友引町ってどこなんだ?」という。全然判らなかったんです。原作者に聞いた記憶はないけれども、たぶん東京なんだろうなと僕たちみんな思っていたんです。
(中略)
それは結構根の深い問題で、「なぜアニメーションのキャラクターというものはおおむね日本人ではないのか」「カタカナが多いのか」「なぜ髪が紫色だったり緑だったりするのか」ということで、おおむね同根の問題だ、という気がするんですよ。アニメの中のリアリティーというのは、普通の実写の作品のリアリティーとちょっと違うのではないか。
いつの時代のどこの話であるということは、特に断らない限り、実写というのは現代だということになるわけだけど、アニメの場合には、いつ何どきと特定しない限りは「いつかどこかで」と、それで成立しちゃう世界を綿々と作ってきた、たぶんその後遺症なんだろうと思います。
それ以外にも理由があるわけですけど。アニメというのは、もともとが抽象性から上がってきた話の世界なので、あらかじめ「この世界は、現実の引き写しに似ているけれども、要するに引き写してあるけれども、全然違う世界である、借り物の世界なんだよ」ということを、観る人がどこかで承知の上で実際は観ている、本人が意識しているか意識していないかにかかわらず。
(中略)
はっきり言えば、『ガンダム』であろうが『ヤマト』であろうが、それは僕は東京の物語だと見てきたんです。」
『趣都の誕生』

押井守の証言。アニメーションを考えるとき「フィクションの深度」を考える。たとえば、現実の地理を舞台としていてもキャラクターの髪の色は赤だったり青だったり。私たちは何に「現実感」を感じているのか。

「一見テキヤのような風情であるが、実際は復員した元通信兵が多く、技術屋上がりである。この中でもっとも力を蓄えていたグループが、「結商業協同組合」で、闇に流れた旧日本軍の装備や米軍の放出品を扱い、真空管、スピーカー、トランス、コイル、コンデンサー、抵抗器など役に立つものを片っ端から売りさばいた。それを仕切っていたのが後に山本無線を始める山本長蔵で、当時、復員して中央大学の学生となりながら、易者の顔ももった不思議な人物である。その片腕に宝田無線創業者の宝田富太郎や中央大学の後輩でミマツ音響創業者の佐瀬順吉などがいた。当時の東京はまさに闇市が幅をきかせた時代であったが、連合軍最高司令部(GHQ)は、1949年(昭和24年)8月に都内の露店を一掃することを掲げて「露店営業整備計画」(露店整理令)を発布した。唐突な命令であったが、翌年3月までに街頭からすべての露店を立ち退かせることになっていた。街路拡幅のためとも闇取引の一掃のためともいうが、ともかく厳しい内容である。秋葉原を仕切っていた山本はこれに公然と立ち向かう。旧軍などありとあらゆるコネを使ってGHQと渡り合い、立ち退きにあたっての代替地を要求し、国鉄のガード下や都の土地の獲得に成功する。最終的には、組合単位で代替地が充てがわれ、組合員数がもっとも多かった山本の結商業協同組合は三か所、知念福永は仲間10名とともに一か所を確保する。いずれも「ラジオ」の名を冠しているところが面白い。「ラジオガァデン」、「ラジオセンター」、「ラジオデパート」の三つ(結商業協同組合)と「ラジオストアー」(知念福永)である。すべて英文名をカタカナ表記しているのは戦後のアメリカ一辺倒の空気を代弁しているようで、今から振り返ると気恥ずかしいところもあるが、進駐軍との交渉を有利に運ぶための方便であったという説もそれなりに頷ける。特に山本は秋葉原の電気商の中では例外的に政治向きのタイプであり、その後、国政に打って出るが、夢かなわず、秋葉原に戻って山本無線を設立する。」
『秋葉原は今』

秋葉原の歴史。「民間」が跋扈する街。

「家電屋パソコンを売る店であれば、アクセスのよい路面店は集客に大変効果的である。他の店よりも一人でも多くの客を惹きつけようと呼び込みや店頭実演販売が一般化している場所ではなおさらである。他方、企業相手のビジネスを生業とする電気部品商社はその必要がまったくない。秋葉原の面白さは、その両方が奇妙に混じっていて、派手な表通りの裏側に中小の商社を収める古く地味な雑居ビルがたくさん並んでいるところにある。それを都市の近代化のプロセスの問題として説明すると、以下のようになる。東京などの大都市では、都市空間の近代化の過程で、町場の商店街は町屋にファサードだけを取り付けて街並みを演出する「看板建築」という方式を採用するのが一般的であった。大正から昭和にかけての街並みがそれに対応している。都市活動の度合いがより高まると、不燃化の問題もあって鉄筋コンクリートのビルに建て替えられる。町屋の地割りを継承し、開口が昔そのままで高さを高度制限いっぱいにした中層・高層ビルになる。表通りと裏通りで高さの制限が異なっているので、高さはまちまちだが、表側は7〜8階建てとなって俗にいうペンシルビルになる。中央通りのように商業性が高い表通りであると、強いものが隣近所の土地を買収して、大きなボリュームのビルを建てるようになる。秋葉原の量販店は、そのようにして規模を拡大してきた。」
『秋葉原は今』

秋葉原の街のつくられ方。「マーケット」的な市場のあり方はかつての町屋の構造を残した街並み。町屋が不燃化され、鉄筋コンクリートのビルになり、それが「ラジオ会館」のようなマーケットを内包した奇妙な不燃化建築となった。
この辺りは石榑督和氏の『戦後東京と闇市』も引き合いに出せそうな気がする。

というのも先日聞いたレクチャーでは石榑氏は

建物類型としての「マーケット」
文化財にならない無名の建物をどう考えるか
かつて街の拠点であったものをどう地域に今一度位置付けるか

のようなことを語っていた。
詰まるところ、アノニマスな建物にどうタイポロジーを与えるか?

あ、なんか考えたいこととズレてきた気が。

とりあえず

「個室」から「個室」へ
「バタフライフィクション」≒「民間主導」
「廃退した未来」としての「秋葉原」
「未来」はそこにはない=シュタインズゲート世界線

みたいな感じ?

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