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死にたい私と生きたいあなた〜東日本大震災での出会い〜

こんにちは、フクコトバのRYOです!

今日は少し個人的な話をしたいと思います。

少し刺激的なタイトルですが、感傷に浸りたい訳ではありません。

10年前の東日本大震災の後、わたしはボランティアとして岩手県大船渡市に行きました。

今日は、そこでの出会いから現在に至るお話をしたいと思います。


〜生きがいを無くした高校1年生〜

2011年3月11日

わたしは高校1年生でした。

スポーツ推薦で入学した高校で、

色々あって部活を辞めたわたしは

クラスメートから

「妥協しやがって!」

「部活に行かずに、サボり!」

「なんでここ(スポーツ科)にいるんだ!」

と毎日言われていました。

小学校からサッカーを初めて、
中学校もひたすらボールを蹴り続け、
いつしかサッカーはわたしの最大の自己表現となっていました。

厳しかった父親に褒められたい想いが強く、
とにかく毎週サッカーの試合で得点を決めては、

「今日の試合でこんなシーンがあって、僕が点を決めて、勝ったよ!」と話していました。

サッカーこそ、生きがいで、
サッカーこそ、自己表現の手段でした。

そんなサッカーを、
高校で辞めたくて辞めたわけではなく、

色んな事が重なって精神的にギブアップになったので辞めたのですが、

周囲のクラスメートからすれば「辞めたあいつは逃げた負け犬だ」と思っていたと思います。

そんなことがあり、
次第に、学校自体にも行けなくなり、
不登校になりました。

「なんだか、生きる意味がないな」
「もうサッカー選手にはなれないから、人生お先真っ暗だ」
「もう人が怖いし、高校にも行けないやつが今後どうやって生きていくんだ…」
「もう死にたい…」

そう思うようになっていました。

〜テレビから流れる「必死に生きる姿」〜

そんなある日、3.11が起きました。

夕方のニュースでは、どんどん大きくなっていく被害状況が流れ、事の大きさがわかります。

津波が街を襲い家の屋根からSOSを出す人
見つからない家族を必死に探す人
避難所で大泣きする子ども

今まさに生と死の狭間を生きている人がいる事を実感します。

「自分は死にたいと思っているけど、この人達は必死に生きようとしている。」

自分とは対照的な人達を見て、そう思いました。


3.11から少し時間が経った頃、
ひと回り年上の友人から連絡がありました。

「岩手県大船渡市に住み込みで復興ボランティアに行くから、今度2週間くらい来ない?」

まだ学校に行けず、家に引きこもっていた私は、
すぐに「行きたい!」と言いました。

あの出来事をニュースで見て感じた「必死に生きようとしている人と、生きがいを無くし屍のように日々を浪費してるだけの自分…」

本音では、「今死にたいと思っている私が、今1番生きたいと思っている人に会ったらどうなるのか?」という興味がありました。

〜岩手県大船渡市での出会い〜

関西から夜行バスや電車、バスを乗り継いで岩手県大船渡市に着きました。

印象は「ニュースで見たまんまだ」でした。

おそらく住居があった場所はただの土砂となり、
崩れてボロボロになった建物が生々しく残り、
あちらこちらにプレハブの仮設住宅が並んでいました。

↑陸前高田市の奇跡の一本松


私たちボランティアが実施したのは、

仮設住宅へ訪問(買出し、余暇時間の運営)
高齢者の方の身の回りのサポート
復興イベントの設営
街頭でただただ話を聞く聞き屋

でした。

そんな中、出会った1人の女の子がいました。

まだ小学校低学年の小さな女の子でしたが、とっても元気な子でした。

私たちボランティアが住み込みをしていた家の近所に住んでいる子で、いつもその子の弟と、その子の友達2人の4人で公園で遊んでいました。

近所だった事もあり、私たちボランティアもよくその子達と遊んでいました。

初めてその子に会った時のこと、
私を見て、第一声「赤い服着てる人きらーい」
赤いパーカーを着ていた私に彼女は言いました。

「なんだか、攻撃的な子だなー」

と、思ったのが第一印象でした。

とはいえ、本当に私の事が嫌いだった訳ではなく、毎日のように一緒に遊んでは、

「木登りたいから、お兄さん抱っこしてー」
「お兄さんどこから来たのー?」
「お兄さんは彼女いるのー?」
「弟はなー、甘えたなんだー」
「お兄さんの言葉(関西弁)なんかおかしいー」

など、色んな話をしました。笑

もうひとつ、その子と接していて思ったのは、
よく人を叩くということでした。

弟や年下の子や、女性のボランティアさんのことは叩かないのですが、私のことは会うたびに叩きます。
「〇〇ちゃん、痛いからやめてよ」
「いややー」
と言って聞きません。

ある日、私は他のボランティアさんに
「なんであの子はあんなに攻撃的なんですかね?嫌いって言うし、すぐ叩くし。」と聞いてみました。

すると、そのボランティアさんが、
「あの子、震災が起こる前は全然あんなに攻撃的じゃなかったらしいよ。震災が起きてからああいう事をするようになったみたいだよ。」

その事を聞いて、「ハッ」としました。

「あの子は、あの子の方法で必死に生きているんだ」

これまでほとんどの人が経験した事のない規模の地震を経験し、家や学校は流され、友達でも行方不明の子がいたかもしれません。

目の前でニコニコやんちゃそうな笑顔で笑う彼女からは、想像もつかないほどの恐怖があったと思います。

でも、彼女は彼女なりに、自分や周囲を守ろうとしている。
でも、どうしても処理しきれない感情もあるし、
本当はもっと素直に甘えたいのかもしれない。

「とっても怖かった。」
「今も不安でいっぱい。」
「どうしたら良いかわからない。」

そんな彼女の”コトバに出来ない想い”が、
不器用なりに、あの攻撃的な態度に映し出していたんだ。

次の日、またいつものように彼女と弟と2人の友達と公園で遊びました。

「お兄さん、また赤い服着てるー、嫌いー、こっち来ないでー」
「お兄さん、木登りたいから早く抱っこしてー」

いつものやんちゃな笑顔で彼女が言います。

「とっても怖かったね。大変だったね。でも、君はとっても強いね。よく頑張ったね。」

もちろん、私もコトバにはしません。

でも、私はそう思いながら、
木に登る彼女の階段代わりになっていました。

そして、決意しました。

「僕も必死に生きるよ。君みたいに逃げずに立ち向かうよ。本当にありがとうね。」


〜一生をかけてしたいのは、恩送り〜

結局、大学時代には数回、岩手県大船渡市に行きました。

その行為を見て、身近な人から
「〇〇って偽善者やな。」と言われた事もあります。

それも分かります。笑

だって、、

行く度に、大船渡の皆さんは、
「お兄ちゃん、遠いところからありがとうね。」
「せっかく来たんだから、大船渡の美味しいワカメ食べて行きなさい」

と、特別何の役にも立っていない私に感謝を伝えてくれました。

そしていつも、大船渡から帰る帰り道は自分が元気をもらっていました。

「よし、自分も頑張るぞ!」

そう思っていました。

大学時代は、そんな東北での経験もあり、
関西で東日本大震災の被害者の方の就労支援をしているNPOが運営する居酒屋で4年間アルバイトをしました。

関西にいても、なんだか東北と繋がっていたかったのだと思います。

そんな私も、
大学3年生になり就活をしていた時のこと、
ある大手の外資企業の最終面接。
相手は社長。

面接も終盤に差し掛かった時、

社長「では、もう面接も最後なので取り繕わないで話してね。ぶっちゃけ、うちの会社に入ったら何がしたい?」

私「私は大学時代、東日本大震災の復興支援ボランティアをしました。その経験から人を助ける仕事がしたいと思っています。御社の〇〇を使って世界中の人が助かっています。私はそんな御社の商品を日本や世界中で広げることで、人助けがしたいと思います!」

社長「人助けがしたいのかー。それなら、NPOで良くない?なんでビジネスマンになりたいの?」

私「……、あの、えっと、それは……」

私はその会社から採用通知を貰うことは出来ませんでした。

あの時、大船渡で感じた自分の「僕も頑張る!」はこんなところで夢破れるのか?
なんで、あの時上手く答えが出なかったんだ?
そう、自問自答しました。

大学時代、4年間バイトしたNPOの居酒屋も、
実は、助成金が年々減って行ってしまい、
活動の継続が難しくなっていました。

「人助け、いや人の為に何かするなら、
支援する側が倒れたらダメなんだ。」

大船渡のおばあちゃんに、
「今、1番嫌な事はここに来てくれた人が帰る事を想像した時だよ。」
と言われた事を思い出しました。

支援は気持ちだけじゃ出来ない。
ちゃんと支援する側の生活を安定させて、
支援しないと、返って寂しい想いをさせてしまう。

そう考えていた時、
ある合同企業説明会で、、、

「弊社の最も根本にある考えは、お客様の課題を解決する事です。お客様が抱えている問題を弊社の持つ商品やサービスを通して解決すること。それが最も社会に必要とされ続ける会社となる方法で、それこそサステナビリティ(持続可能性)です。」

それを聞いた時、
「あ!私が思っていた事はこういう事だ!」
「だから、私はビジネスをしようと思ったんだ!」

そう思いました。

そして、私は今その会社で働いています。

あの時、大船渡の皆さんから頂いた恩を、恩返しではなく、”恩送り”して行きたいと思っています。

それは、周囲の人も自分もHAPPYになれる方法だと思っています。

恩送りの方法としてのビジネスは、今の会社でしっかりと学んで、経験して、実践しています。

だから、次は、、、
あの時、大船渡で出会ったやんちゃな笑顔がとってもチャーミングな彼女が教えてくれた

“コトバに出来ない想い”があるという事、
そこにその人の様々な想いが詰まっている事、
それを誰かに伝えて、共感して、受け入れ合い、そこをその人の居場所に出来る。

そんな事をしたいと思っています。

10年前、死にたい私は、必死に生きようとしていた彼女に救われました。

今度は僕の番だ。

「頑張るよ!!」


私たちフクコトバは、

「花言葉のように、コトバにならない想いをフクに紡ぐ」をビジョンに、

企業やブランドがコトバにできていない大切な想いを傾聴し、

それを一緒に伝えるサポートをしていきたいと思っています。

そして、服を通して自己表現ができるお客様を一人でも多く増やす、そんなサポートができればと考えています。

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