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映画「タイタニック」と「コロナ禍」

こんにちは、フクコトバのRYOです!

昨日、映画「タイタニック」をTVで観ていました。

実はこれまで「タイタニック」を観たことがなかったので、初めてだったのですが、「このコロナの時期にこの映画を流すのは何か意味があるのかな?」と思うほど、何か「コロナ禍」「タイタニック」に被る部分を感じました。

今日はそんなお話をしたいと思います。


〜生死を分ける時、その人の「大切」が問われる〜

一番、考えさせられたシーンは、

いよいよタイタニック号が沈みかけてきた時に、どんどん海水が船に入ってきて、客船の中にいる人は先般に出て来て、女性や子どもが小舟で避難し始めた時のシーンです。

このシーンでは、それぞれの人がそれぞれの行動に出ます。

もう船が沈むことがわかっている中で、

ある人は、自分が助かるようになんとか船に乗り込み、

ある人は、大切な人を探し、

ある人は、海に飛び込み、

ある人は、自殺をし、

ある人は、神に祈り、

ある人は、演奏を続け、

ある人は、自身のステータスを貫き、

ある人は、子どもとベットで絵本を読み続け、

ある人は、夫婦で一緒に寝て、

ある人は、必死に船にしがみつき、

それぞれが、それぞれの想いに沿って、行動を起こしていました。

そのシーンを見て、どれが良い悪いではなく、ただその人が「大切」にしたいものが行動を通して透けて見えているように思いました。

人は、生死を分ける狭間の時、その人にとって「何が大切か」が自分自身に問われ、その「大切」を守るために行動を起こすんだなあと考えていました。

そして、その様子は今のコロナ禍でも同じことが言えるのではないかと思いました。



〜コロナ禍に問われている”自分の「大切」は何か?”〜

映画を見終わってから、この「タイタニック」のシーンと、今の「コロナ禍」の状況を照らし合わせて考えていました。

私自身、専門家でもありませんし、何か意見を持っているわけでは無いのですが、自分自身に当てはめた時に、このコロナ禍は「自分にとって何が大切か」を浮かび上がらせてくれたと思います。


例えば、「家族」もその一つです。

先日、母の日にアラサーにして始めてプレゼントをしたという記事を書きました。

ここには、このコロナ禍で感じた心境の変化も関係しているなと思います。

これまでは、家族の「死」を短に感じることは私自身はありませんでしたが、このコロナで「それはいつでも起こりうるものだ」と感じました。

そう思うと、「期限がわからないけれどできることは今のうちにしておこう」と思うようになりました。


「友人」もそうです。

このフクコトバは、大学時代の同級生3人で行っています。

毎週、ZOOMでミーティングをしているのですが、大学を卒業してから数年が経った今でもこのような関係を持っているのは本当に私にとって「大切」なことです。


「仕事」もそうです。

このコロナ禍で「なんのために自分は仕事しているのか?」を考える時間が多くありました。

「お金稼ぎ?」「生活の安定?」「社会的地位?」「自己満足?」「承認欲求?」

色んな側面があると思います。

でも、目の前の仕事にばかり目を向けていては、

「大切なものが何なのか。」

「仕事を通して、何をしたいのか。どうなりたいのか。」

を見失ってしまうなと感じました。


「家族」「友人」「仕事」、全て「死を意識する」ことで、

「何が大切なのか?」という想いが整理されるなと思いました。

ある意味、「期限」を設定することで、優先順位がハッキリとするのかもしれません。




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