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ぼんやり見ている

私は良くも悪くもほとんど人の顔を覚えない。
仲のいい人は、わかる。
何度も会ううちには、覚える。
それはできる。

だけれど、なにかのときに一緒にいる人に
「あ、あの人あそこのカフェの店員さんだね」とか
「〇〇さん?あ、あのメガネかけてる人でしょ」とか
いわれると、
頭の中に???がいっぱいになる。

そんなに、顔、覚えてる?と思うからだ。

そのカフェには、行ったことはある。
なんなら、わりとよく行く。

〇〇さんにも、この前会った。
でも、メガネしてたっけ?

そんなふうに、私の思考は停止する。

そういうことがよくあるので、あるときなにかのきっきけで、
自分がどんなふうに人や物を観ているのかを考えるようになった。
これはなかなか難しいことだった。
だって、私の中には私しかいないから、他の人がどう見ているのかとの比較は容易ではないわけで。

でもなんとなく、そういう意識で自分を観察してみると、わかったことがある。
それは、わたしはあまりディテールの詳細には気が向かないということだった。


どういうことかというと、わりとぼんやりと相手を見ているとうこと。

その人の皮膚という枠からにじみ出ているエネルギーとか、その色とか、強さとか、それから声のトーンとかそこに込められているエネルギーとか、そういうこと全体で見ているので、
顔の中の造作のひとつひとつとか、髪型とか、メガネとか、口がアヒルみたいとか、そういうところにはあまり目がいかないようなのだ。

なにかの会合で会った人なんかも、
あー、あの、私から見て右の奥の方に座っていた元気なエネルギーの人ね、とか
たしか黄色っぽいものに包まれてた人だよね、とか
自分のところの社長さんの話題になると身体から怒りがにじんでいた人ね、とか
そういう記憶の仕方をしている。


で、それはあんまり王道の記憶の仕方ではないらしいということを、ここ最近で知るに至った。

そうなのか、ふーん。

これは私の魚座成分がそうさせているのか、
はたまたそこにどっぷり注ぐ強めの海王星エネルギーのクセなのか。

こことここが、ものごとの境目!というのにあまり注意がいかないのだと思う。

この人はこの皮膚でくるまれた部分だけに存在しているのよ、といわれても
そうなの?にじんでるよ?と思うし
あなたと私は別の人なのよと言われても、
え、でもこの辺は影響し合って混じってるよね、って思うし。

そういえば部屋に置いてあるものなんかも、大好きで買ったものや手に入れたものものだけれど、
ひとつひとつに目が向くというよりは、全体が作り出している空気感とか空間とか環境とか、そいうところを大事に思っている。

そうやって、
私は人も世の中も、なんだかとても曖昧にぼんやりと見るクセがあるようなのだ。

顔を覚えられないことは、ダメなことだと思っていたけど(社会性という意味ではたしかにそうかもしれないけれど)、
視力が違うみたいなものだと、自分に都合よくとらえることにしている。

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