おいしいものを、すこしだけ 第18話
最初は私も腹を立てていたけれど、二、三日すると、何もあんなにむきになることもなかったような気持ちになってきた。てっきり亜紀さんも喜んでくれるとばかり思っていたところを否定されたのでがっかりしただけだ。しょせん私は図書館の仕事で生計を立てているわけではないのだし、ただでさえ契約更新年数の上限が近づいて雇い止めの不安におびえている亜紀さんの神経を逆撫でする行為だったかもしれない。何より亜紀さんの給料をボランティアと大差ない、と言ってしまったのはどう考えても私が悪い。その給料で生活費を折半してもらって暮らしている分際ではなおさらだ。
一人だと夕食がつまらない。せっかく亜紀さんの好きなものを買っておいたのに悪くなってしまう。例によって亜紀さんはろくに食べていないようなので、栄養状態も心配だ。
なまじルームシェア向きの物件なので、その気になればまったく顔を合わせずに生活できてしまう。亜紀さんは朝早く私が起きる前に出て行き、私が帰ってくると部屋に籠ってしまう。ことが図書館だけに意地でも自分からは折れないだろうけれど、顔を合わせてくれないので謝るきっかけもない。
そうしているうちにボランティアをする予定の日曜日になった。亜紀さんにケチをつけられたせいで大幅にやる気が落ちてはいるけれど、申し込んでしまった以上、やらないわけにもいかない。
その図書館は古い公民館のような灰色の建物の二階と三階に入っている。亜紀さんの勤め先より規模が小さい。全体に照明も暗く、コンクリートの壁にはいくつもヒビが走っている。
簡単な研修を受けてから実際に配架の作業に入った。要するに返却された本を元の棚に戻すだけのことなので、聞いたときは楽勝だと思ったのに、いざ向かってみると元の棚にはすでに本がぎゅうぎゅうに詰めこまれていて、戻せる隙間がない。前後の棚を融通して何とか押しこむと、次の本もまた入らない。本が傷むのできつく詰め過ぎないように注意されていたけれど、そんなことにかまっていられない。ここの図書館はいったい何なんだ、とだんだん腹が立ってきた。建物は見るからに老朽化していて、スペースも狭すぎる。ボランティアよりも寄付金を募って図書館自体を建てかえたほうがいいのではないだろうか。我々の払った税金はどうなっているのか。議員報酬か。内心ぶつぶつ言いながら作業を続けた。日頃運動をしないので、しゃがんだり立ったりして上段と下段を往復するだけで膝に来る。慣れない請求記号のラベルを読むのも目が疲れる。
同じく配架作業をしているボランティアで、ものすごく手際のいい人がいるのに気がついた。私より年上の女性だけれど絶妙な手さばきで棚を調整し、ブックトラックの本がみるみるうちに減っていく。
休憩時間になって、その人に話しかけてみた。
「すごくお上手ですね。私なんてあれだけでもうくたくたで」
「昔図書館で働いてたことがあるから」
川本さん、というのがその人の名前だった。
「子どもができて辞めたんだけど、今はそんなに手もかからなくなったし、また図書館で働きたくて。本当はボランティアじゃなくてちゃんとした仕事がしたいんだけど、なかなか見つからなくてねえ。履歴書何通も送ってるんだけど。夜間のカウンター業務なんかはあるけど、ちょっとね」
「お子さん、いくつですか」
「上の子が中一で、下が小五」
その時はべつに何とも思わなかった。もしかして、と思ったのは、川本さんがほかの人とガーデニングの話をしていた時だった。
「五月生まれだからカーネーションが好きで、とくに花が緑のやつが大好きだからたくさん植えてみたけど、全部根腐れしちゃって」
十三年前に出産で図書館を退職し、五月生まれで緑のカーネーションが大好きな女性がこの世に一人だけということはないはずだ。そう自分に言い聞かせても、確かめたいという気持ちを押さえられなかった。とは言えまさか「清水亜紀という人と同居していたことがありますか」と聞いてみるわけにはいかない。
そのあと展示に使う紙を折る簡単な作業になり、川本さんの隣に座って雑談をしながらさりげなく果物の話にもっていった。
「石垣島のマンゴーっておいしいらしいですね。親戚でも住んでいて送ってくれないかなあっていつも思います」
「あ、うちの姉が石垣島にいたときは送ってくれた。今は東京に戻ったからもらえなくなったけどね」
「いいですね」相槌をうちながらこれは間違いないと確信していた。
残る手がかりは名前だけだ。亜紀さんはいつも「彼女」としか呼ばなかったけれど、一度だけ口を滑らせて「すーさん」と呼んだ。スミレさんとかスズ子さんとか、そういった名前かもしれない。そう思って一覧表を見ると、川本さんの名前は佳子さんだ。やはり別人なのか、と思いかけた瞬間、古なじみらしい職員から「すーさん」と声がかかり、川本さんが席を立って行った。
戻ってくるのを待ちかねて「すーさんとおっしゃるんですか」と聞いた。
「私、旧姓が鈴木なので」
まじまじと鈴木改め川本さんを眺めた。私よりもっと小柄で、身長だけでなく顔も肩も小さくて、ふんわりした雰囲気の人だ。この人が赤ん坊を抱いたところを想像すると、子どもが子どもを産んだとしか思えない。眼鏡をかけて、水仕事で荒れた手をしている。いかにも家庭ではいいお母さんだろうという感じで、この人がかつて夫の目を盗んで亜紀さんと密会したりお金を送ったりしようと考えたことがあるとは信じられなかった。夫や子どもの話も屈託なくしているので家庭崩壊の危機に瀕しているわけではなさそうだ。
ぐったりと疲れてうちに戻ってきた。亜紀さんが仕事から帰ってくるとすぐに飛びだして廊下に立ちはだかり「このあいだはごめんなさい」と先手を打って謝った。
亜紀さんはほっとした様子で「こちらこそごめんなさい」と答えた。私が謝るのを待っていたに違いないので多少くやしいけれど悪いのはこちらなので仕方ない。
「鰆の西京漬けがあるけど焼きましょうか。賞味期限が今日までなんですよ」
「ああ、いいですね」
その鰆を食べながら亜紀さんが言った。
「ボランティアが悪いというのは短絡的だったかもしれません。私の職場もボランティアに来てもらったことはありますし。配架はやりませんけどね。その人たちが無償で働いてくれるおかげで私の給料も払えるのかもしれません。ただ私はどうしても働いて稼がなければ食べていけないし、無償で引き受けるという人が現れたら勝ち目はないので、ボランティアに仕事を奪われるかと思うと不安で」
「それはわかります。私だって亜紀さんの仕事が明日からボランティアに変わったら困りますよ。ボランティアと大差ないなんて言って、本当にごめんなさい」
「いえ、それはまあべつに。有償労働が無償労働より偉いわけではないですから。せっかく日向子さんがやる気になっていたのに水を差して悪かったですね」
食後にお茶を飲んでいるとき、どうしても黙っていられなくなって顔を上げて単刀直入に言った。
「図書館で鈴木佳子さんにお会いしました。今は鈴木さんじゃないですけど」
亜紀さんの表情から私の憶測が正しかったことがわかった。いろいろな表情が交錯したうえで最終的に無表情に落着き「そうですか」と言った。
「狭い業界だから、そういうこともあるでしょうね」
「もしかしてそれで私がボランティアするのに反対だったんですか」
「まさか。そんなこと予見できるはずがないでしょう」
「来週もたぶん来るから、その気なら会えますよ」
「日曜は休めません。どのみち会うつもりもないです」
「どうして」
「昔のことですから。それに、日向子さんも不安になりませんか」
「すこしは」
昔、もし彼女が離婚して戻ってきたら喜んで迎えるし、二人で新しく住むところを探す、と言っていたことを思い出した。
「彼女を見るとああいうのが亜紀さんのタイプなんだなっていうのがよくわかりますよ。私とぜんぜん違う」
「いえ、まあ、それはそれで」亜紀さんはたじたじとなってから「でも日向子さんが妬いてくれるのはちょっと嬉しいです」と言った。
「妬いてるわけじゃないですけど。自分が裏口から入ったようで落ち着かないですよ。どうせ私は亜紀さんの好みじゃないから」
「そのはずだったんですけどねえ」
何気なく言ったことで十年以上たってから責められるはめになるとは思わなかっただろう。困ったように私をしげしげと見ている。見れば見るほど面白い顔だと思っているに違いない。
それから私の隣に寄って「でもこうなってしまうと、やっぱり可愛くて仕方ないです」と私の耳を手のひらで包みこんだ(これは照れているときのしぐさだということが最近わかった)。
「何ですかその不本意感は」そう言われてしまうとこちらも弱いけれど、つい逆らってしまう。
「同じことの繰り返しになってしまうのが怖いので、なるべく執着しないようにしていたんですけど」
不安にさせているのは私のほうなのかもしれなかった。返事の代わりに亜紀さんにぎゅっと体を押しつけた。
結局図書館のボランティアは、二、三週行っただけで辞めてしまった。とくに図書館に思い入れがあるわけでもない私にとってどう考えてもこれは単なる労働としか思えず、無償というのが割に合わないと感じるのが主な理由だった。
川本さんも同じころにボランティアを辞めた。こちらは昼間働けるちゃんとした図書館の仕事が見つかったことが理由だった。
「何しろブランクが長いから、最新のシステムについていけるかどうか心配で」と言いながらも嬉しそうだった。
川本さんの幸せを祈りつつ、できればもう関わり合いにならずに済みますように、とも祈った。
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