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おいしいものを、すこしだけ 第16話

 この建物はマンションのくせに断熱性が良くない。カーテンとサッシを全部きっちり閉めても、じわじわと冷気が押し寄せてくる。
 目の玉が飛び出るような光熱費になるのを覚悟のうえで、一台しかない備えつけのエアコンを最大限に稼働させても、とても全室を暖めるまでにはならない。とくに寒いのが私の部屋で、北向きで窓が一つ多いために冷蔵庫並みに冷えている。小さな電気ストーブ一つくらいではその前に張りついていない限り役に立たない。あまりにも寒い日はセーターを着たまま寝ているほどだ。
「その部屋はもともと人が寝るところではありませんでしたしね」と亜紀さんは意味深なことを言う。
 
 その夜はこの冬一番の記録的な大寒波に見舞われるという予報が出ていた。「どうか暖かくしておやすみください」という気象予報士の台詞を聞きながら私が言った。
「冗談抜きで、明日の朝になったら私は凍死しているかもしれませんよ」
 亜紀さんは読みかけの本を開いたまま、ぼんやりと視線を宙に迷わせて言った。
「それなら今日は私の部屋で一緒に寝ますか」
 誘われているようでもあり、単なる人道的配慮のようでもある。この際どちらでもかまわないので、お言葉に甘えて寝かせてもらうことにした。
 
 壁に囲まれているぶんだけ私の部屋より暖かい。外では強い風が吹いていて、窓ガラスがガタガタと鳴り、遠くで金属板のようなものが転がる音がした。
 亜紀さんが掛け布団の端をめくってくれたので、空いている場所にもぐりこんだ。布団が冷たくて隣の亜紀さんに身を寄せた。足をくっつけると雪女ではないかというくらい冷えていて、思わず息をのむと、亜紀さんはすまなそうに体をすくめた。あまり湯たんぽ代わりになりそうもない。すこし温めてあげようと手を伸ばした。今回は服の下に手を入れて胸にさわっても拒まれなかった。体つきが華奢なので、力をこめると折れてしまいそうだ。どうすればいいかわからないので前回してもらったことをそっくりそのまま返してみたけれど、亜紀さんの体は冷えきったままですこしも温まらない。ときどき助けを求めるような目つきをするので何とかしてあげたいけれど、苦しめるばかりでなかなか終わらせてあげられない。私のやりかたが下手なのか、それとも好みの相手でないからだめだということなのか悩み始めたころ、ようやく亜紀さんがため息をつきながらちいさく身を震わせて、手足がほんのりと温かくなった。
 せっかくの体温を逃がさないように服を元に戻して肩まで毛布でくるんだ。キスする工程を抜かしたことを思い出し、顔をこちらに向けさせてくちづけると、亜紀さんはゆるゆると瞼を開いた。とろんとした目をしていた。反応の地味さからするとたいしてよくもなかったかもしれないし、夜九時まで働いていた人をかえって疲れさせただけのようで申しわけなくなった。苦情でもいいので何か言ってほしかったのだけれど、亜紀さんはそのまますうっと眠ってしまった。
 手を握って、寄り添って一緒に眠った。肩をつかんで枕に押しつけたときのやさしい手ごたえと、明け方の髪の冷たさばかりが印象に残った。

 私たちのあいだに、今さら好きですとかつきあってくださいとかいう言葉が介在するのはどう考えてもおかしい。性別の問題ではない。亜紀さんが私のあまりうまくない料理を一生懸命食べてくれるところと、同じくあまりうまくない愛撫を一生懸命受け入れてくれるところがそっくりで、関係性に変化があったような気がしない。

 一度やってみたかったことがある。やってみたいというより、その時に亜紀さんがどんな顔をするのかが見たかった。
 二人掛けソファの片端に亜紀さんが座って本を読んでいる。斜め後ろから、猫のように忍び足で近づく。亜紀さんがページをめくった隙に、すばやく隣に座る。
 亜紀さんは私を見て、一瞬にこっとして、それから何事もなかったかのようにまた本を読み始める。その表情を横目で確認して、私もそ知らぬ顔で自分の雑誌を開く。
 亜紀さんがページに目を落としたまま言う。
「でもやっぱり、日向子さんもいつかは出て行くでしょうね」
 私は体重をかけないように気をつけて、亜紀さんの肩に頭をもたせかける。
「どうしてそう決めつけるんですか。更新を繰り返して正社員より長く働いてる人だっているでしょう。なんだかんだで更新を繰り返して、結局死ぬまで一緒でした、ということになるかもしれませんよ」
 亜紀さんはただ笑っただけで、何とも答えなかった。


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