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おいしいものを、すこしだけ 第19話

 最近は亜紀さんの髪にも何本か白いものが混じるようになっていて、本人もすこし気にしている。
「白髪のおばあさんというのは素敵ですけど、そこに至るまでの過程が悩みどころですね。美容院で染めたりしたらお金が大変ですし」
「まだそんなに目立たないから大丈夫ですよ」
「私もひなさんみたいに短くしようかな」
「まあそれもいいでしょうけど」
 亜紀さんが髪をおろしているのはうちでくつろいでいるときだけなので、この姿を見るのは私だけだ。毛先を椅子の背に編みこんで遊んでいると、亜紀さんが「こらこら」と頭を振って壊してしまう。色白でほっそりした体つきなのは変わらず、全体としては三十代にしか見えない。社会的地位がなさそうなところも相変わらずだ。
「やっぱりストレスのせいもあるんじゃないですか」
 亜紀さんはこの三月で慣れ親しんだ市立図書館の仕事を辞めることになった。亜紀さんのような非正規の図書館員をどう取り扱うかは上の人の考え方ひとつに左右されるようで、ここ数年、更新時期が来るたびに落ちこむようになっていた。
「非正規の図書館員として働くことは違法でもなんでもないんですが、だんだん自分が不法滞在の移民みたいに思えてきて。期限切れのたびにまったくの新人と同じ扱いで採用試験を受けて、過去の実績もいっさい考慮されないので、これをあと二十年以上続けるのかと思うと、情けない話ですが疲れてしまったんですね。市としてはいずれ私のような立場は廃止して、委託に切り替えたいようですし」
 それでも根性で踏みとどまることはできたらしいけれど、結局亜紀さんのほうで見切りをつけるかたちで辞めてしまった。
「でもすぐ四月から次の仕事を見つけるので、いくつか当てもあるし、生活費のことは心配しないでください」
「いや、でも、なんならしばらく休んだらどうですか。ずっと夜間の仕事と掛け持ちでやってきたわけだし、いい機会だから昼間はゆっくりして秋からまた探すとか。私も少しは貯金があるし」
 薄給の身の悲しさで、一生養ってあげるから心配するなとは言えないけれど、半年くらいならなんとかなる。
「そんなことさせられませんよ。それに空白期間があると求職に差し支えるし、なるべく早く見つけたいです」
「あんまり体調良くないでしょう。最近ちっとも食べてくれないし、こんなに痩せちゃって」
 亜紀さんの体に腕を回すと、ドキリとするほど骨にさわる。手首などは私が人差し指と親指でつくった輪に余裕で収まってしまう。
「毎年春先は調子が悪くて。病気というほどではないですけど」
「かわいそう」
 手首の内側の、いちばん肌が白いところにくちづけると、亜紀さんはくすぐったがって手をひっこめた。

 桜の季節になると軽い吐き気がすると言ってあまり食べなくなるのは毎年のことだけれど、今年はそれがいつまでたってもおさまらなかった。私がつくった料理も半分くらいしか食べない。
「毎年春先は調子が悪くて」
「春先って、もう五月ですよ」
「五月病みたいなものでしょうか。環境が変わったし。新しい仕事自体は楽しいですけど」
 亜紀さんはさっさと次の仕事を見つけてきた。今度は大学図書館だ。正規の職員ではないけれどフルタイムの仕事だし、うまくすれば更新を繰り返して定年まで勤められるかもしれないというので喜んでいた。
「亜紀さん、本当は市立図書館が良かったんでしょう」
「多少未練はありますけど、仕方ないですね。何しろぜんぜん勝手が違うから大変ですよ。でも洋雑誌の登録とか、夜間の仕事ですこし習っておいたからまだ良かったです。それに今度から日曜が休みになるので、ひなさんと一緒に過ごせますよ」
 それは私にとっても嬉しかった。今まで休みが合うことがめったになかったので、どこに行こうか、と考えたりした。

「健康診断で膵臓に影が見つかったので、来週精密検査を受けることになりまして」
 亜紀さんが何気なさそうに言ったので、最初は意味がよくわからなかった。
「膵臓に影というと」
「たぶん腫瘍ということですが、悪性の可能性があるので、早急に検査を受けろと言われました」
 胸の底を冷たいナイフで刺されるような、いやな感じがした。ここ数か月の亜紀さんの異常な痩せかたと食欲不振を思い合わせた。

 まだ決まったわけではないのだし、精密検査の結果が出るまでは何もわからないのだからと思っても、悪性だった場合について調べずにはいられなかった。
 膵臓癌の生存率は低かった。検索結果には余命半年とか一年とかいう文字ばかりが目立つ。患者が書いていた闘病記が数か月後に本人の死を告げる記事で終わっているのを見て息苦しくなった。
 昼間仕事をしていても、そのことばかり考えてしまう。私たちは今まで大きな病気をしたことがない。万一のときにどんなトラブルが待ちかまえているのか想像もできなかった。ここ何年もなかった動悸や手の震えがぶり返すようになった。

 うちに帰ってくると亜紀さんが掃除機をかけているところで、私を見るとスイッチを切った。
「日向子さん、例のやつですが」
「例のやつ」
「悪性ではなかったそうです。そのなかでも心配のないタイプなので、一年後くらいに経過を見ればいいと言われました」
「本当に」
「それで、ごめんなさい、思いのほか検査が長引いて今掃除が終わったところなんですよ。これからごはんつくりますけど、肉豆腐でいいですか」
「そんなことしなくても」
 言いながらソファにもたれかかった。まだ手が震えていた。

 何でもなかったのだから気持ちが軽くなってもいいはずなのに、胸の底のいやな感じは根を下ろしたように消えなかった。変に涙もろくなり、ドラマで人が死ぬ場面を見ただけで胸が詰まった。会社で働いているときもうちで亜紀さんとごはんを食べているときも、いつまでもこの暮らしが続けられるわけじゃない、という声がどこかで聞こえた。夜眠れないことや泣いていることを知られないために、毎日亜紀さんとは別々の部屋で寝ていた。

 角切りにしたトマトと赤パプリカと人参をオリーブオイルで炒め、蓋をして野菜自身の水分で蒸し煮にする。トマトが溶け崩れて血の池地獄のような様相を呈したところに塩胡椒で味付けし、スープ鉢に盛って亜紀さんの前にどんと置いた。
「すごい迫力の野菜ですね」
「ファイトケミカルスープです。赤い野菜の抗酸化作用で癌を予防するって書いてありました」
「その手の健康法にあまり夢を持たないほうが。野菜をたくさん食べても癌になる人はいますよ」
「食べないよりはましです」
「これ、半分取っておいてもいいですか。とても全部は食べられないですよ」
「そう言っていつもちっとも食べないでしょう。やっぱりどこか悪いんじゃないですか。もう一度病院で診てもらったら」
「検診ではほかにどこも引っかかっていませんよ」
「人間ドックなんか通り一遍の検査しかしないからだめです。良性の腫瘍だって、悪性に変わる可能性はないんですか」
「医者が一年後に来ればいいと言うから大丈夫なんじゃないですか」
「その医者、信用できるんでしょうか」
「さあ、どうでしょうね」
 亜紀さんがどこか他人事のように話しているのが不満だった。
「癌だって小さすぎると発見されないから月に一回くらい検査したほうがいいですよ」
「月に一回もレントゲンやCTを受けていたらかえって体に悪そうだし、医療費が大変ですよ」
「どうして言うこと聞いてくれないんですか」
 私の声音に亜紀さんがびくっとしたのがわかって「ごめんなさい、ちょっと神経がまいってて」と言いながらティッシュを取った。
 亜紀さんは昔から私に泣かれるとすぐうろたえてしまう。なだめるような声になって「とにかく野菜を摂るのはいいことですよね。おいしそう、いただきます」とスープ皿を引き寄せ、全部食べた。

 食べ終わって食器を片づけても、亜紀さんは食卓についたまま黙っている。不思議に思っていると、突然「あの」と口を開いた。
「私がプロポーズしたら、受けいれてくれますか」
「あのね、ただでさえこのところ精神的に消耗しているのに、これ以上かき回すようなこと」
「いやですか」
「嬉しいに決まってます」またティッシュを取った。「でもどうするんですか。アメリカとかに移住する気ですか」
「それはちょっと難しいので、いろいろ考えてみましたけど、たとえば養子縁組という手はあります。年上の私を養親にして、日向子さんを養子として届を出せば、家族として取り扱われます。それ以外でも公正証書を組み合わせて、結婚に近いかたちにはできそうです」
「そうなんですか」
「じつは、指輪もあります」
 テーブルの引き出しから本当に指輪の箱が出てきた。ということは、たった今思いついたわけではないらしい。まさかこんなことになるとは思わなかったので、言葉も出なかった。
 亜紀さんは指輪の箱に手をかけて不安そうに私を見ている。返事を待たせていることに気づいた。
「これからも亜紀さんと暮らしたいし、そのために使える法律があれば使いたいです。指輪をください」
 亜紀さんは笑って、箱をお手玉のようにした。
「断ってもいいですよ。指輪なら誕生日プレゼントに転用します」
「わかってるくせに」
 亜紀さんは立ちあがって私の左手を取ると、薬指に指輪をはめた。
「きれい」
「一応ちゃんとしたプラチナですよ」
 私のせいでとんだ散財をさせてしまって申しわけない。
「私からもお返しに指輪を贈りますね」
「いえ、私はいいですよ。前にもらったのがあるし」
「そういえばあれを着けてるのは見たことないですけど」
「仕事柄、指輪をしていると本を傷めることがあるので」
「嘘だ、図書館の人はみんな普通に結婚指輪をしてましたよ」
「そもそも指輪をする習慣がなくて」
「ひどすぎる。いいですか、あれをしないなら今後いっさい何にも買ってあげませんからね」
 物欲の乏しい人にはたいした脅しにならないだろうけれど、亜紀さんはのろのろと自分の部屋に行って問題の指輪を取ってきた。まったく使っていないので新品同様だ。
「手」
 と言うとおとなしく左手を差しだした。今度は私が亜紀さんの手を取って指輪をはめた。

 その夜は久しぶりに亜紀さんの部屋で寝た。花嫁のお輿入れ、というわけでもないだろうけれど、亜紀さんが私の手を取って部屋に引き入れた。
 そのまま黙って抱き合った。この体がいつか呼吸をしなくなり、私から取りあげられて焼かれてしまうことを思って、亜紀さんを強く抱きしめた。亜紀さんもいつもより激しかった。
 終わると普段の亜紀さんに戻って、私が涙を流しているのを見ると「ごめんなさい、痛くしましたか」と頬を拭った。
 違う、と頭を振った。この部屋にひとり残されて、あの優しかったひとはもういない、と思い知らされる日を想像してよけいに涙が盛りあがった。いい歳をして子どものようになっている。
 亜紀さんはやれやれとため息をついて、私に服を着せかけた。
「最近泣いてばかりいますよ。一緒にいてもすぐ涙ぐむし、ときどき部屋でも一人でしくしくやってるし」
「どうも不安で仕方なくて。何がっていうわけでもないんですけど」
「心配かけて申しわけなかったですけど、良性の腫瘍ですから」
「それだけのせいでもなくて」
亜紀さんは指輪をしたほうの手を重ねあわせて「だからせめて法律的なことで、すこしでも安心できればと思って」と言った。
 私の不安の何割かはそれが原因に違いないので、亜紀さんは正しい提案をしてくれたのだと思う。

 翌朝仕事に出るとき、亜紀さんは言いにくそうに「仕事の時は指輪をはずして行ってもいいですか」と聞いてきた。
「いいですよ。もちろん」
 たしかに亜紀さんがある日突然左手薬指に指輪をして出勤したら、ちょっとした好奇のまとになってしまうだろうし、本人が何も言わないだけに触れていいことなのかどうかもわからず職場の人が困惑するだろう。
 自分が出勤する時になって同じ問題に気づき、右手にはめてみたり鎖に通して首から下げてみたりしたあげく、結局亜紀さんと同じ箱に指輪を置いて家を出た。


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