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ある地鎮祭と、地域アート。

地域アートの話、の前に、
直接関係のない地鎮祭のお話。

先日、友人の仕事のお手伝いで、地鎮祭の設営に行った。
新しくお家を建てる土地では、安全・安心に暮らしていけるようその土地の神様に願う儀式【地鎮祭】が行われる。神事ということなので、神社関係の方々がやってきて、祝詞やお祓いなどをするのだが、我々はその儀式の準備ということで、テントを張ったり、テーブルや椅子の設置をしたりする。いつものように二人で、テキパキと準備をしていた。

ただ今回、比較的珍しい儀式をされる方々がお見えになった。
我々が準備をしているとき、4人のシニア層の方々が現れ、そちらもまた儀式の準備を始められた。この様子を見てなんだか嫌な予感がした。なんといったらいいか、太々しいというか、横着というか、年の功を履き違えてそうというか、いずれにしても負のオーラが漂っている。「このテントずらして」その中のリーダー格の男性が突然こちらに話しかけてきた。計画通りにやっている準備に対し、その場で変えようとしてきた。理由を聞くと、お祓いをする為にここで木々を燃やすと言った。テントは邪魔らしい。彼らはおもむろに、トラックから大きな薪をたくさん降ろしだした。これを全部、ここで燃やすのかぁ。

施主様御一家がやってきた。リーダーは若い施主に挨拶をすると、「実はこれ、とれたてのヒノキなんですよ」と言って、薪の説明をしだした。よっぽど重要なアイテムなんだろう。あとで聞いたところ、こちらの方々は山伏の関係者とのことだった。山伏とその仲間達かぁ。なるほど、どおりで道具箱にホラ貝が入ってたわけだ。と納得した。と同時に、山伏の印象がマイナスに構築されてしまった。

住宅の営業担当に確認をすると、地鎮祭の内容まで把握してない様子。ということは、このひしめく住宅地の中で巨大キャンプファイヤーのようなお焚き上げが行われることも知らないということか。ん?では、隣近所の方々への連絡はどうなんだろう。と思ってると、たまたま隣の住人がお出かけする様子で出てきた。説明をすると「そうなんですか」と初耳的反応。これが当たり前なんだろうか。そもそもこんなところでたくさんの薪を燃やして良いのだろうか。そんな心配をよそに、着々と準備が進められていく。営業担当に確認し、しょうがなくテントをずらした。

諸々の準備が完了したので、我々は一旦その場を後にした。数時間後、地鎮祭が終わった頃にまた片付けに戻ってくると、先程の場所には丸こげになった木材が散乱していた。

まとめると、
1. 横柄な山伏たちによる地鎮祭
2. 住宅地の中で焚き上げが行われる
3. 近隣の住民達への説明なし
4. 後始末が中途半端で残念

こういう状況が、ひょっとしたら当たり前なのかも知れない。ただ我々が知らなかっただけで、これが山伏による地鎮祭のやり方なのかも知れない。我々も「そういうもんなのだろうな」と思えば別に問題ないのかも知れない。ただ、やっぱり、変だよなーと思ってしまう。


そして思い出した、地域アートについて。
どこかの地方、まちを舞台にしてアートプロジェクトが行われたりする。それって、どういう目的で行われるんだろうと思ったことがある。アートなのかデザインなのかは置いといて、そのまちで何か面白い活動が行われることで、何かしらの「変化」や「発展」が期待されるのだろう。
例えば、「その地域の文化が見直され、観光産業が発展する」とか「新しい産業が生まれて経済地盤が改善されていく」とか「教育に直結する魅力的な活動によって、若い人口が増加する」など。しかし、そういう期待を背負う企画というのは、裏を返せばその地域の課題や問題であり、ただちに改善すべきミッションだったりする。
ではその結果、変化も発展もなく、結局よくわからなかったといって終わっていった企画の場合、このアートプロジェクトが背負った期待はどこに捨てられたんだろう。そもそも期待を背負ったつもりもないといわれたら、地域アートの目的はなんなのだろう。主催者の名誉向上の為のお祭りなのかな。助成金をもらう為の戦略的ビジネスなのかな。そう感じているのは、残された住民の皆さんだと思う。参加しているアーティストさんのやりたい放題されて、あれはなんだったんだろうと思ってる住人の皆さんもいるかも知れない。

全てが大成功といえる企画じゃなくても、せめてエンディングはきれいにしたほうがいいのかなと思う。例えば、住民説明会。開催前はしっかり理論的に説明してたのに、終わってしまえば何もせず。でもよくよく考えてみると、開催前の説明も難しくてよくわからなかったなーなんてこともある。やりっぱなしな感じだ。よくぞ行政から補助をもらえたな、なんて思ってしまう。そんなことを当たり前にやられると「アートプロジェクトってのはそんなもんなんだね」という背景で見られてしまいかねない。
だから説明するときは、自分たちが何者で、どういう目的で、どういう内容で、どういう協力をあおいで、どういうゴールを目指すのか。そして実際の結果、どういうことになったのか。どういう成果物を残せたのか。持続していくのかしないのか。丁寧な態度で共有していく姿勢がたいせつだと思う。
それができて初めて地域におけるアートの役割が見出されるのではないだろうか。

山伏が残していった薪の燃えカスと同じにならないように。


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