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いまさら鬼滅を観に行った人の感想

新年初出社日、仕事は挨拶と簡単な事務処理だけだったため、私は半ドンで帰らせてもらえた。

自宅に帰っても特にすることもなく、昼寝で夕方まで時間を消費してしまうのは余りに勿体ないと思われたので、映画を観に行くことに決めた。

『鬼滅の刃:無限列車編』と言えば、2020年10月中旬に劇場公開されて以降、コロナ禍にも関わらず、観客動員数・興行収入を驚くテンポで伸ばし続け、つい先日、20年12月末に観客動員数2000万人、興行収入320億円を突破し、興行収入においてジブリの名作『千と千尋の神隠し』を上回った、話題作である。

もともと公開当初から、アニメ版も知らなければ、ジャンプに掲載されている漫画も読んだことがなかったため、劇場版も観る予定はなかった(予定がなかったからこそ、公開から3ヶ月以上経っても、依然として足が劇場に向かうことはなかったのだが)。

とはいえ、2016年に『君の名は。』を観た際の衝撃を思い出し、「食わず嫌い」でそのまま劇場公開が終わってしまっては、後から何かしらの「やっぱり行っておけば」が襲って来た時に我慢できないとも思ったのである。

そこで、この半ドンを利用して、人も少ないだろう平日の昼間に、『鬼滅の刃:無限列車編』を観てきたのである。

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            (「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」公式サイトより)

公開から3ヶ月以上経っている今、ネットには映画の様々な作品論が散見される。多くはやはり、「なぜ多くの観客を動員できているのか」「何が多くの人を惹き付けているのか」という点に関する記事である。コロナ禍で社会全体が冷え込み、暗いムードに包まれた2020年秋。確かに、Go Toトラベルに盛り上がりがなかったわけではないが、マスコミによる批判も相俟ってか、日本人の生活を明るくする全体的な起爆剤として同政策が取り上げられたことはなかったように思われる。「なぜ多くの人は、何度も劇場へと足を運んだのか」。

先にも書いた通り、私は漫画にもアニメ版にも触れてこなかったため、本編が始まっても「ぽかーん」であった。登場人物、人物同士の関係、進んでいく展開、セリフ中の固有名詞、全てが理解できない状態で話は進んでいく。

しかし、中盤以降、物語に釘付けになっている自分がそこにいた。物語の構成そのものは単純な作りであるため、物語の展開とともに繰り出される情報と展開を常に書き換えながら、何とか場面を整理しようと努めた。

今回の「無限列車編」が、「家族愛」を展開の軸に据えていることは容易に理解できた。特に主人公である炭治郎は、鬼殺隊の一員として妹を常に気遣い、鬼と対峙している。加えて、鬼殺隊の最上級クラスである「柱」という階級の杏寿郎もまた、母の言葉を大切に、自身の境遇と運命を自覚しつつ、鬼に立ち向かう姿勢を見せている。

ただ、ここでは、家族愛というよりは、炭治郎や杏寿郎のセリフから、「生きる」ことそのものを考えてみたい。

人生における「壁」

まず1つ目は、物語の終盤、炭治郎が放った言葉が印象的だった。

悔しいなぁ…何か1つできるようになっても、またすぐそこに分厚い壁があるんだ…煉獄さんみたいな人達はずっとその先にいるのに、俺はまだそこには行けない…

単純な「頑張る」「諦めない」とは違った妙に生々しい痛みを感じられる。勉強も部活も仕事も研究も、人生における全てのことが、まさにこの連続だろう。むしろやればやるほど、努力すればするほど、今やっていることが分からなくなったり、目の前の「壁」の高さを実感して自分に敗れそうになったりするものである。だが、大切なことは、この炭治郎のようなことは、何かしらの努力をして失敗しないと学べないということである。ここでの炭治郎の場合、「失敗」というより、自分の無力さに苛立ったという方が適切かもしれないが、いずれにせよ、「何かを突き詰める」とは、炭治郎が感じたこの「壁」の連続に他ならないんだな、と痛感させられる。

「生きること」と「死ぬこと」

次に印象的だったのは、杏寿郎が敵の鬼と対決した際、「鬼にならないか」と誘いを受けた杏寿郎が発した次のセリフである。

老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ。

多くの人にとって「死」は怖いものである。様々な映画、ドラマ、小説で「死ぬことの怖さ」は今日まで様々な形で描かれてきた。鬼滅のように、異種間の対決において、「敵」が人間サイドに「死ぬこと」の恐怖を示唆し、「永遠の命」を提案しようとしてくることが多い。しかし、杏寿郎は命が「有限」だからこそ、「人間」というものの「生」の美しさを語る。「死ぬ」ことは「生きる」ことであり、「生きる」ことは「死ぬ」ことであるんだなと考えさせられる。「よく死ぬ」ためには「よく生きる」ことしかないんだな、と。

「強い者」とは

最後に引きたいのは、杏寿郎が亡くなる直前に、母親とのやり取りを回想するシーンからである。死期の近い母親から杏寿郎に投げかけられた次の言葉を引こう。

なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者はその力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。

映画では、いわゆる「お涙頂戴ポイント」のラストシーンであったが、この言葉からは、今の日本に生きる全ての人に有益なメッセージとして読み取ることもできるのではないか。

ここでは「強い者」が「弱い者」を助けるという風に表現されるが、何も「強い者」「弱い者」の対比だけに当てはまるものではないだろう。「人の上に立つ者」「下に位置する者」、「金銭を持つ者」「金銭を持たない者」、枚挙に暇がない。力や権力、金を持った者、すなわち現在の社会では比較的上層に位置する者たちと杏寿郎を重ねてみよう。自身の持つ力次第では、社会を大きく変えることができる者たちの集合である。「様々なモノ」を持つ彼ら、彼女らは、「様々なモノ」を持たない人間よりも、多様な生き方が可能となる。だからこそ、ほんの少しの優しさ、他者を労わる「強さ」を持たなければならないのではないだろうか。

当然ながら、「弱い者」を助けなければならない理由はどこにもない。しかし、社会は「強い者」と「弱い者」が共存して成り立っている。共に生きる中で、「持つ者」だからこそ働かせられるその共感力を持ち、豊かで健全で、より良い社会の構築に携わることが大切だろう。昨今の日本社会、日本の政治を俯瞰すると、そのことを一層強く考えさせられるのである。

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「鬼滅」は何をもたらしたか

私は先にも記した通り、原作にもアニメ版にも触れたことがなく、映画しか知らない「鬼滅新規」「鬼滅にわか」であるが、コロナ禍だからこそ本作のヒットした理由が映画の中にあるのではないかと感じる。

家族と離れ離れになり、なかなか帰省できない中で「家族愛」に涙した人もいるだろう。勉強、部活、バイト、仕事、恋愛...様々な日常の「壁」に打ちひしがれそうになった時に、杏寿郎の言葉が強く胸に刺さった人もいるだろう。過去の栄光や成功、幸せな記憶に浸っていたいと思いながらも、現実は冷たく悲しく、どうすることもできない状況の中で、魘夢(えんむ・劇場版で登場した敵の鬼)と対決した炭治郎の姿勢によって「眼」を覚ましたという人もいるだろう。人それぞれ感動のポイントはあるだろうが、いずれにせよ、「説教臭い」と分かっていながら、1つ1つの言葉が質感を伴って我々日本人の心に響いたのには、理由がありそうだ。

「鬼滅」が与えた影響は、単にコロナ禍で沈んだ日本社会のムードを明るくするというものだけではなかった。「生きる」ことだけで精一杯だった我々の視野狭窄を解きほぐす存在になったことは間違いない。「生きること」の難しさ、繊細さ、面白さを、それぞれの立場や視線から味わい、考え、見直すきっかけとなったのである。この映画で流した多くの人の涙は、興行収入が1位になったという事実よりも、ずっと価値のある、ずっと尊いものだと思う。

(終)

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