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今、改めて八甲田山の悲劇を問う

事件のあらまし

皆さんこんにちは、ひよこです。
早速ですが、タイトルにある「八甲田山の悲劇」とは何のことかお分かりになりますか?

一般にこの悲劇は「八甲田山事件」「八甲田山遭難事故」と呼ばれていますが、「遭難」という文字から読み取ることができるように、青森県南部に位置する火山群である八甲田山で実際に起こった遭難事故を指します。

1902年1月、当時の陸軍第8師団青森歩兵第5連隊と弘前第11連隊は、来たる日露開戦に向けて(日露開戦が決まったわけではありませんでしたが、もはや避けられない状態だったことは明らかでした)寒冷地での訓練を模索し、極寒の八甲田山を異なる経路で行軍する計画を立てます。

結果として、第11連隊は行軍を成功させますが、第5連隊は行軍に失敗し、多数の死傷者を出します。

異なる経路で行軍計画を立てた両連隊の違いはどこにあったのか。生還した第11連隊と壊滅した第5連隊の運命を分けた分岐点はどこにあったのか。

この事件は、戦後しばらく経った1971年に出された新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』と77年に公開されたその映画『八甲田山』でその注目を集めることになりますが、今日でもその事件が語る意味について多くの日本人の関心を引いていることは確かと言えます。

実際のところ、史実と新田次郎の小説では多くの相違点が指摘されています。学問的な研究としては、歴史資料に基づき史実を明らかにすることが求められますが、ここでは新田の小説をもとにしながら、当該事件が語る「適切な調査分析」「組織の判断」について考えたいと思います。

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運命を分けた「選択と判断」

行軍を成功させた弘前歩兵第11連隊は、徳島大尉(福島大尉がモデル)のリーダーシップのもと、現地民に案内人役を頼み、長期な宿泊日程になりながらもポイントごとに休息を十分に取る行軍計画を立案します。また、寒冷地での訓練という性格も考慮され、部隊の人数と荷物が最小限に抑えられ、寒さ対策についても事前の調査で万全に練られていました。

それに対し、青森歩兵第5連隊は、事前準備・行軍中いずれにおいても数多くの問題点を抱えていました。まず、指揮系統の問題がありました。第5連隊は、第2大隊第5中隊長の神田大尉(神成大尉がモデル)が部隊の指揮官でしたが、大隊長の山田少佐(山口少佐がモデル)がそれに随行したため、最終的な行軍の決定権は山田少佐にありました。作中でも描かれている通り、究極的な決断の場面で、山田少佐の一言により事態が大きく変化することに繋がったのです。また、現地の案内人を同行させず、200名を超える大編成で行軍を遂行し、凍死を避けるため睡眠をなるべく取らないよう共有されていたのでした。

このような要素が複合的に絡み合い、結果として第5連隊は壊滅しました。天候悪化のなか駐屯地に戻らず行軍を続け、行き先を見失いいざ露営を決定したと思うと、夜中に天候の好転を受け急遽帰営を決め、その結果峡谷に迷い込んでしまい、発狂者・凍死者を連鎖的に生んでしまうという最悪の結果となりました。

この両隊の運命を左右した要因はどこにあるのか。当然ながら、それは1つではなく、極めて複層的に重なり合ったものだったと見るべきでしょう。

第一には、「冬の八甲田山」という厳しい条件をきちんと調査し、適切な行軍計画を立案したかという点です。行軍日程は長いものになりながらも、休息を十分に取り、天候による進退の判断を現地民に委ねた点は結果的に行軍の運命を分けたのです。自らの能力を過信せず、また楽観的に状況を判断しないという思考の相違は看過できません。「郷」に入った時、第11連隊はまさに「郷」に従ったのでした。寒さが原因で方位磁針が使えなくなることを、彼らは知っていたのです。

第二には、指揮系統が混乱するとともに、極限状態においては、ちょっとした判断の見誤りが運命を分けるという点です。第5連隊では、神田大尉と山田少佐の性格的な不一致が色濃く描かれていますが、まさにその確執が悲惨な結末へと繋がりました。露営地から帰営を目指す段階から、山田少佐の判断は全てが裏目に出ることになりましたが、人間は極限状態において正常な判断が出来なくなるという怖さがよく分かります。

ここで、第11連隊の徳島大尉のセリフを作中から引きましょう。

「将校たる者は、その人間が信用できるかどうか見極めるだけの能力がなければならない。弥兵衛も相馬村長(註:いずれも現地民)も信用置ける人間だと思ったからまかせたのだ。他人を信ずることのできない者は自分自身をも見失ってしまうものだ」(『八甲田山死の彷徨』新潮文庫、69頁)

人間は自ら経験したことでしか物事を語ることはできません。途中、徳島大尉は現地民に厳しい態度を取ることもありましたが、結果として判断を下す時には現地民や各種計測に当たっていた部下にデータを聞き、それらを総合的にまとめるなかで冷静に判断を重ねていきました。

自身が神田大尉の立場だった場合、上官である山田少佐の命令は無視できません。おそらく全ての人が神田大尉を非難することはできないでしょう。山田少佐も各局面で最適な判断を下そうと苦心したことは否定し難いはずです。しかし、冷静さを欠き、不確かなエビデンスに引きずられ、刻々と変化する雪山の厳しい現実に敗れたことも、また否定し難い事実です。

小説の終盤で、第11大隊と第5大隊のどちらが「成功」したのか、というくだりが出てきます。無事帰還したことが「成功」なのか、それとも軍人としての姿を示し、後の戦争に備えた教訓のきっかけとなったことが「成功」なのか...。

最悪のシナリオを想定し、選択肢のリスクに関して認識を共有しているか。正常性バイアスの怖さを常日頃意識し、組織として、また一個人として科学的な見地に依拠し合理的な選択と判断が可能なのか。

我々は事件の顛末を知っているため、連隊を対比させ、人物の評価を容易に行える立場にあります。しかし、それで本当に良いのでしょうか。八甲田山の教訓を得るためには、歴史美談として語るだけで終わって良いのでしょうか。

この八甲田山の悲劇は、現代においても活かせる重要なメッセージを孕んでいるように思われます。災害や今のコロナのような未曽有の事態に遭遇した時、人間は何をなし得るか。

常に変化する事態に翻弄され、適切な選択と決断を行なえず、破滅の道に進んだ経験を我々日本人は70年前に知っています。そこに組織内における立場の違いや組織の規模等々、様々な条件の相違はあるでしょう。ただ、そこに「いる」のはひとりひとりの人間に他ならず、本質的にはそのひとりひとりの「生」が常に「選択と決断」の狭間に晒され続けているのです。

企業の人材育成のための教材として当該事件を用いるケースが多いようですが、全ての日本人が考えるべき教訓ではないでしょうか。

「天は我々を見放した」
我々が「生」の道を見誤り、自らを見放すことがないよう、生きていかなければならない、そのような気持ちになります。

まだこの事件を知らない人はぜひ読んでみてください。何か考えさせられることがあると思います。

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