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「文系の博士」問題から「文系」を考える

2018年9月、九州大学箱崎キャンパス内の建物で火災があった。焼け跡からは男性(46)の遺体が発見された。その男性は、九州大学法学部・同大学院で学んだ卒業生・修了生であり、火災は自殺に因るものだったという。学んでいた研究室に男性が自ら放火したと見られる。

現代の日本社会において、文系、特に人文社会科学系の分野(一部社会科学除く)を専門に研究をし、博士号を取得した人の就職と自立の問題は、非常に難しい。専門知識・専門スキルを身につけた30前後の人間を扱える民間企業はほとんどなく、理系でさえ「博士後は厳しい」と言われる時代である。文系の人達は言わずもがなである。というよりも、おそらく理系よりの何百倍も文系の博士は大変であろう。

先の九大の事件も、この問題を社会に改めて問うものだったと言える。男性は憲法学を専攻し、修士号も取得したが、博士号取得まではストレートにいかず2010年に同大学を退学、非常勤職も「雇い止め」に遭い経済的に困窮していくこととなったという。自殺直前まで肉体労働のアルバイトで食いつなぐ毎日だったということが各新聞記事から読み取れる。

人文社会科学系の学問で博士号を取得し、研究者(大学教員・研究機関)になる進路が、これほどまでに悲惨な事件を生むまでに大変なのはなぜか。1990年代以降、いわゆる「大学院の重点化」により大学院の定員が増加し、それに伴い大学院生の数も膨大に増えた。しかし、「入り口」が広がる一方、「出口」、すなわち就職口の数は変わらなかったため、熾烈な就職の「椅子取りゲーム」を生んだのである。その結果、ポスドク(ポストドクター)やオーバードクターを大量に生み、高学歴ワーキングプアの問題を一層深刻化させてしまったのである。「文系の博士課程に進むことは緩やかな自殺を選択すること」「30代半ばで自販機のジュースを買うかどうか悩む」「30代で月収15万円」といった表現が流布して久しいが、この「文系の博士」問題(とここでは呼ぶ)は、社会に大きな問いを突き付けているように感じる。

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一昔前までは、文系の研究者は博士論文を博士課程の修了時には提出せず、定年時、ないし定年後に自身の研究者人生を総括する意味でまとめ上げるのが一般的だった。博士課程を出るのに博論の提出は必須ではなく、そもそも博士課程進学者も少ない時代だったからこそ、修士号取得・博士課程満期退学でもかろうじて「正規職」に就けたのである。しかし今日では、博論が就活時の身分証明書と化し、研究者になるには博士号を持っていることが必須というような状況になっている。博論提出から数年以内に書籍化し、その本を持って就活をするといった人がもの凄く多い。

こうした現象も大学院生の数の増加と「その後のポスト」の少なさが大きく影響していると言えよう。しかも、今の人文社会学系博論は通すことがそもそも非常に大変で、博論提出までに査読付論文を数本持っていなければまず相手にされない大学も多い。実務経験のあるビジネスマンや著名人なら、いわゆる「ロンパク」=論文博士を目指すこともできるが、一般人で論文博士を狙うのはあまりにもリスキーである。その結果、博論を提出できず、大学に籍を置ける期間も限界に達し、「満期取得退学」というコースを歩まざるを得なくなる。学振を取れていたとしても、未来永劫の補償ではないため、次年度からの生活はその都度考えていかなければならない。

「役に立たない学問」の研究者への道を自ら選択しているのだから文句は言えないとも、大学院の「入り口」は重点化しながら「出口」は制度整備を行なっていない国が悪いとも、博士号取得者を軽視し民間で扱おうとしない企業人の意識・ノウハウが悪いとも、外野からはあれこれ原因を自由に語ることができると思うが、果たして有効な解決策はあるのだろうか。

おそらく上のどれもが正しく、どれもが間違っていると言えよう。全てを「自己責任論」に落とし込んで理解することはあまりにも厳しいものの、文系博士号取得者の就職の厳しさは進学前にある程度想定できるのも事実だろう。大学院の「入り口」を広げつつ「出口」を広げないというのは、ある意味で「競争力」を高めるという側面からは良い見方もできる。アメリカでの「博士」と日本の「博士」ではレベルが違い過ぎるとよく言われるのも、このような「競争力」に起因するのではないか。博士号取得者を民間で扱えないというのも、博士レベルの「知」が仕事に直接繋がる職業は極めて少ないのも確かであるし、専門職に関してはすでに資格等で別の枠組みとして設定されている(総じて給料が低いという問題はあるが)。

この問題に対して即効性のある対策を打ち出すことは難しいと思われるが、一つ懸念されるのは、「文系知」を役に立たないと決めつける人が増え、目先の利益だけを求める極端な実学主義者こそが正しいという空気感が生まれることである。文系廃止論はまた別の問題かもしれないが、「目に見える実利」を生まないとして人文社会科学の知を軽視している人がいるのであれば、非常に悲しい。そういった人たちの「黙殺」と「無知」こそが、文系知の発展、引いては国の豊かな発展を却って阻害する可能性もあるからである。

生活苦で大変なのはこういった研究者志望の人だけではないのは当然であるし、一般の人たちが普段このような人達を気遣う場面などないことも至極当たり前である。しかし、「役に立たない」と多くの人が思う雰囲気は、少なからず社会を変えることもある。

「競争力」を高めるために環境とパイを減らすことと、社会的に見下し「価値がない」と切り捨てることは全く異なる。

一般の人がこの問題を変えようと思ってもおそらく何もできないだろうが、文系の学問体系、文系学問の研究に携わる人・仕事に対して「今必要ないから切り捨てて良い」と判断することを改めて問い直す社会を願う。

冒頭で紹介した事件も、今日の「文系の博士」問題も、行き着く先はこうした「文系」全体の問題であり、我々がこういった学問とそれに従事する人をどう眺め、どう捉えているかにあるだろう。

少なくとも、あの男性が亡くなったことで、ほんのわずかな、けれど彼が研究していた分野の確かな「学問知」は失われた。今、まさに学問を巡る社会の在り方を見つめ直す時なのかもしれない。

(終)

※本稿における「人文社会科学」は、文部科学省による「学科系統分類表 3 大学院(研究科)」の「人文科学」「社会科学」に基づく。なお、法科大学院や経営学修士等の高度専門職に就くための学問領域・学問課程は含めません。

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