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超こわいけどホモソの話する、超こわいけど

正直に言うと、これめっちゃ書くのこわい。自分を必死で擁護したい、よく見せたい気持ちと戦ってる。

めちゃめちゃ勇気いるなと思いつつ、ここから目を逸らして王子になるとかちゃんちゃらおかしいわ出直してこいポイントなので、せめて現状を正しく見つめることから始めたい。と思って書きます。なぜなら俺は世界一の王子になるので。

はーーーー。緊張するわーーー。スーハー。(深呼吸)


ふぅ。さて、以前からしんどいなと思っているポイント。

それは、FtMコミュニティ(時にビアンコミュニティでも)で起こりがちな、ホモソーシャルの発露。

▼ホモソーシャルとは?
同性同士の性や恋愛を伴わない絆やつながり。中でも男性同士の関係に対してよく使われる語。
ミソジニー(女性蔑視)やホモフォビア(同性愛嫌悪)に根ざした価値観を共有することを通して、男同士の仲間意識を深めようとする空気や言動をさすことが多い。

▼例えばどういうこと?
いわゆる、「男たるものこういうもんだ!これぞ男だ!」みたいなあれです。
・男はエロいもの!下ネタ風俗上等!
・女の子大好きで当然!
・裸の付き合いができてこそ!
・男は甘いもんは苦手だ!
・バリバリ働いてこそ! などなど。

ぜひこれはパレットークさんの記事見て。

ですが、私はこのホモソーシャル(以下ホモソ)と複雑な関係を結んでたりする。


私は20歳でセクマイコミュニティに出会ってから、やっと「女性じゃない」と感じる自分、男性として見なされることにしっくりくる自分を表現できるようになり、安心感を感じていました。

その中で、自分のようなFtM(生まれた時の性が女性の男性:トランス男性)と出会って仲良くなったり、友達が増えて集まりに行ったりするようになります。

そんな場所では、互いを自然に男性とみなして会話できることが、とにかく新鮮で嬉しくて、楽しかった。心地よかった。初めて、友達とありのままの自分でいられた気がしました。
やっと、男の自分でいていいんだって思えた気がした。

でも、その「実感」は時には、ホモソ的な言動を通して得られていたところもあります。

あー、痛い、ほんとに胸が痛いけど、でも書くと、例えばすれ違った女性グループに「声かけてこいよ」などと言い合ったり、アイドルのグラビアを眺めたり、女性を品評するような言動をしたり、そんなこと。
もっと下衆なこともあったけど、読む人を本当に嫌な気持ちにさせそうだから控えますが…。

要は、「私もホモソ的振る舞いで気持ちよくなったことが確かにあった。今はとても違和感を感じているし反省している。しかしそこからの脱却にとても困難を感じている」って感じなんですよ。

ほんっと困難。
男性が自力でホモソ沼から抜け出るのはだいぶきつい。ホモソ的に振る舞わないということは、男性として見なされないというリスクがあって、「どーせお前は男じゃない」って言われるのはFtMの私からしたらだいぶこわい。
でもやらなきゃいけない。し、正直ホモソからの脱却は前ほどはもうこわくないところもある。

今の「真のつながりはなくならない」と確信を持ち、見た目に関わらず私を男性と見てくれる仲間がたくさんいる私ならできる気がしている。

だって私の人生には大事な女性や大事なゲイやマイノリティの友人たちがたくさんいて、本当にそのひとたちが大事で傷つけたくなくて。護りたくて。
そして自分自身もマイノリティ性を纏うものとしてプライドがあって、後の世代のためにも自分の加害性を手放して新しい男性モデルを提示したい願いがある。

願いがあって、その願いに確かさはあるけど、言動としては反射的にやってしまう時があるんですよギルティ…!そして後から
「うわやっちまったーあぁぁぁーーーしまったぁごめんなさいぃぃぃーーーーー」
ってなることが未だにある。

私の場合は、性的なことへの関心が薄かったり、支配欲とか競争心とかまるでないという元々の気質もあってか、自分から積極的にホモソ的言動はしませんでした。でも、人が発したものに乗っかったり、流したり、止めない、という形で容認することはしていた。

これ、全然関係ない外部の人とかにそんな言動ふっかけられたら、普通に指摘したり乗っからないことは割とできるの。それでもこわいし緊張するけど。

流されがちなのが、友達間で起こるホモソ的コミュニケーション。
特にFtMコミュニティ。

過剰に男性らしさを纏おうとすることに、そうしないと男性として見なされないとか、男性として立っていられない痛みがあることを、私も自分ごととしてめちゃくちゃ知ってるから。
「正論」としてホモソやめようって言うの、すごいこわい。

さらに正直に言ってしまうと、たとえホモソ的コミュニケーションでも盛り上がってるその瞬間は、一瞬楽しいの。最悪だと思うけど。

なぜ楽しいかって、感覚を共有している、深く繋がれているかのような気分(表面的なものだけど)になれたり、自分は男性なんだっていう安心感や所属感、かりそめの自信を味わえるから。
やっぱりつながり感や所属感、安心感、そしてアイデンティティの相互確認なんだよね。しかもセクマイはそういうものをただでさえ得づらいんだわ。だからなかなか手放せないんだと思う。

これって少なくとも私にとってはすごく甘美で、なかなかここから抜けられない。いや、抜けられなかった。

今はもう、その優越感や安心感がハリボテであるとはっきりわかってしまった。女性やマイノリティを傷つけることを接着剤にした絆なんて、偽物に決まってる。ただ、偽物の、表面的な絆や承認であっても欲しいと思うくらいの切実な自信のなさや寂しさの存在は、わかってはいる、けど。だって私もかつてあったんだよそれ。すげー辛いし、辛いから、ホモソ的なコミュニケーションであっても安らぎを感じるの、めちゃくちゃわかるの。

でも。私自身の、人を護るナイトでありたい、王子でいたいという真実の願いからはかけ離れてる言動であることには、もうはっきり気づいてしまって。
いよいよ違和感が募って来た。もうここには、いられない。

だからって、関係性やつながり自体を手放したいわけじゃない。やり方を見直したいだけなんだよ。ホモソ的じゃない、互いの自己開示や、個人的な思いにのっとった「普通の」コミュニケーションで、真の絆を作っていきたいだけ。できるし、それ。人をモノ扱いしたり、傷つけるコミュニケーションを、わざわざ選ばなくてもいいやんね。

でもこのあたりは、恐れがすごく立ち上がりやすいところだから、変化は少しずつになるかもしれない。

一応学生時代含む10代を女性として生きて、男性カルチャーにあまり馴染んでない私ですらこれなんだから、男性として生きて来た人たち同士の同調圧力や、そこでつながりを得ている度合いの強さたるや、いかほどかと思ったりする。
シスヘテロ男性がホモソを脱却するのって、ちょっと並大抵じゃないんじゃないか。

この辺りの切り崩しは、個人的には、まだ男性カルチャーから外されがちなトランス男性とかゲイ男性あたりが進めていけるんじゃないかと思ったりする。不本意だけど、変革はマイノリティの得意技(というより生存戦略)だし。

先日、トランス男性の友人と、FtMと男らしさを巡る葛藤や困り感を話して、結構語り合えたのが嬉しかった。

この辺りの感じていることを、葛藤は葛藤のままに、悩みは悩みのままに、正直に安全に話して自発的にホモソを手放していける仲間が欲しい。
男同士の絆を、人を傷つけずに自分も抑圧せずに、作れるんだとモデルをつくりたい。


とはいえ日々の自分の思想や言動に今だに落ち込むことはあってさぁ…なんでストップかけられへんかったんやろうとか、なんで流してしまったんやろうとか…。

でも反省はすれど責めずに、ちょっとずつ手放せるようにしていきたいのよ…ほんまに…。

あぁ、未熟でごめんなさい…でも諦めないで進むのでどうか見守ってください…頑張るから……!!


* * * * *

○おまけ!いつか話してみたい、桃山商事さんの名記事○

「社会を“男の絆”で占有する強固なロジック 「ホモソーシャル」の正体とは?」

「日本は巨大な男子校!? なぜ“ヘテロ男性”だけが正常とされているのか」


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