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美しい星【読書感想】


三島由紀夫作品を読んでいる時、私の頭に浮かぶのは月9などのテレビドラマだ。

(ちなみに私の中のドラマのイメージは『花ざかりの君たちへ』や『メイちゃんの執事』あたりでとまっているので、そのイメージが適切かはわからない。)

それくらいに展開が明快で、キャラクターの対比関係などもわかりやすい。

展開が追いやすいからといって、内容を簡単に理解できるわけではない。
正直いって『美しい星』も難解な部分が多かった。

ただ、読書は読んで終わりではなく「読んでからがスタート」みたいなところもあるので、疑問は疑問のままに置いて、理解できる時が来るのを待ちたい。

特に私が気になったのは299ページの一節。

雨の駅頭での沢山の待ち人、暗い喫茶店での数多い待ち人、広大な社長室で極薄型のオーデマル・ピゲと睨めっくらをしながらじりじりと客を待つ社長、・・・・・・こういう情景ほど人間的なものがあろうか。
人間が人間を待たせるというすばらしい権利。それこそ女が王権を確保するのに使い古した方法だったが、それというのも、女は肉体の中に時間の成熟を保ち、(いいかね、子宮とは時間の器官なのだ)、自由や平和なんかを求める手間で、もっと有利な時間を自分の味方につけたのだ。だから女は、待たせることにも、待つことにも、男が敵し得ない天稟を持っている。彼女たちは時間の法則を自分の肉体で順職してしまい、歴史を形成しようとする男の意志や、そのプランのすべてを、冷淡に横目に眺めている。

p299

この部分を読んで、いわゆるネガティヴケイパビリティのことを言っているのかな?と思った。

ネガティヴケイパビリティというのは「すぐには答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」のこと。

三島由紀夫が生きてる時代にも「ネガティヴケイパビリティ」という言葉や、それに相当する概念はあったのだろうか。

「決断力や競争心だけが価値のある能力」とするマッチョイズムに対して、フェミニズムは「立ちどまることや迷うこと、揺らぐことも大切な能力」と主張している。

99年生まれの私としては「女性が育児や介護等のケアを担わされがちな社会構造がそもそもあって、ケアの過程で必要となる素質がネガティヴケイパビリティ。男性でも潜在的にネガティヴケイパビリティを備えてる人はいる。」という見解を持っているので"女の天稟"という部分には、首を傾げてしまうが、それにしても50年以上前に、男性である三島由紀夫がネガティヴケイパビリティという概念を女性の体から見出しているのはすごいと思った。

ちょうど最近、斎藤環の『母は娘の人生を支配する』でこんな文章を読んだ。

女性性とはすなわち身体性のことにほかならず、そこにはいかなる本質もないのだ、と。
女性とは、その生育過程を通じて女性的な身体を獲得するようにしつけられ、成熟してからももっぱら身体性への配慮によって、「女性らしく」あり続けようとする存在なのです。

身なりに気を使わない女性が「女らしくない」と言われることはあっても、身なりに気を使わない男性が「男らしくない」と言われることはない。

このように、私たちは自然と「女性性=身体性」という図式を受け入れて生きている。

斎藤環の「女性性=身体性」という解説が、私にはしっくりきていたので、三島由紀夫が"時間の成熟を保つ"性質を、女性の心ではなく肉体と結びつけているのも、鋭い感性だなと思った。

もしかしたら全く見当違いな解釈をしてしまっているかもしれない。
あくまでもこれは「こういうことを言っているのかしら?」という疑問でしかない。

同じ本を読んだことがある人に「この部分、どう思った?」と質問できればいいのだが、周囲に三島由紀夫作品を好きな人はなかなかいないので、このnoteに投げて終わりにする。

私がネガティヴケイパビリティという言葉に出会った本↓

「女性性=身体性」について書かれた本↓

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