見出し画像

年の差婚に対して「相手が先に死んじゃうのが悲しい」と言ってしまう人たち

年の差婚について、わざわざ言わなくてもいいことを平然と言ってのける人がいて、その思慮の浅さにびっくりすることが過去にあった。

たとえば「相手が先に死んじゃうのが悲しいから私は年の差婚できない」や「"パートナーに先立たれる"という悲しい体験を娘にはしてほしくない。だから私は反対」という意見。

これ、当人は"感受性豊かな自分"や"娘を思いやる賢明な母"というセルフイメージで発信している言葉なのだろうけど、建設的な意見だとはあまり思えない。

犬を散歩させている人に向かって「犬が先に死んじゃうのが悲しい」と言えるか?

想像してほしい。
犬を散歩させている人に向かって「わぁ〜犬って可愛いわね。私は犬が先に死んじゃうのが悲しいから飼わないけど。」と面と向かって言う人のことを。
私も、飼っていた犬が他界した経験があるので"死んじゃうことを想像すると悲しくて飼えない"という気持ちはよくわかる。かといって、現在進行形で犬を飼っている人に向かってわざわざ言うことではないだろう。

親だって子供より先に死ぬ

年の差婚を否定する理由を語る時、"先立たれることが辛い"ということに論点を置くのなら、子供を産んだ親全員にも「子供より先に死ぬのに!子供が可哀想じゃない!?産まない方がいいよ!」と口を挟むのが妥当ではないか。

きっと「先立たれるのが悲しい」と言ってのける人たちは、子育てにする親に対してはそんな意見を持たないと思う。「大事な人を置いて先に死ぬ」という点では同じなのに。

では、その人たちにとって子育てと年の差婚の違いは?

子育ては生産性があって、年の差婚には生産性がないから。

無意識のうちにそんな線引きをしているのではないか。

子育てには与える/与えられるという情緒的な繋がりがあり、社会的にも意義のある行為だから許される。

「年の差婚には生産性/意義がない。
だから部外者の私が意見してもOK。」
という思考回路になるのではないか。

とはいえ「先立たれることが悲しい」と言えてしまう人は、そこまで思考しておらず、反射的に喋っているだけなので指摘したとしても「そんなつもりはなかった」と返ってくるだけだろう。

「私は年の差婚しない」という選択はごく自然

パートナーと年の差があると、出産や親の介護だったり、同年代同士で結びついた夫婦とはまた違った課題が降りかかってくるので、思い描くライフプランによっては【年の差のある人とは結婚しない】という結論になるのもごく自然なことだと思う。

しかし、自分のライフプランと年の差婚という選択を照らし合わせたときに"する必要がない・できない"という答えが出たからといって、よその年の差婚をしている人たちに向かってわざわざ否定的な言葉をかけなくていいよね、ということ。

死は必ずやってくるので、いつかは向き合う必要がある

どんなに楽しいテーマパークに行っても帰りの時間は必ずやってくる。だからといって「帰るのが惜しいからそもそも行かない」とはならないはずだ。テーマパークに人が集まるのは、パークで過ごすその時間に魅力を感じていて、その時間にこそ価値があるということを多くの人が知っているからだろう。

相手が先立ったとしても、2人で過ごした時間や交わした会話をお守りのように大切にして過ごし、自分が死ぬ時には「ああ、この人生で良かった」と充足した気持ちで最期を迎えられたらそれで良い。

そこには年の差や性別、その他の属性は関係ない。

少数派だからこそ言葉を残しておきたい

「自分はする/しない」という選択を拡大して他人を測るものさしにするような、いわゆる分別のついていない人がインターネットには多すぎるし、多数派としてまかり通ってしまうのも恐ろしい。

少数派である年の差婚当事者の言葉として、ここに残しておく。

この記事が参加している募集

これからの家族のかたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?