信じることを信じてる、単純にそれだけさ。『夜が暗いとはかぎらない』

【AM5:34】

(あ~、また来てしもうたか)

クローゼットの前。ぽかんと開きかけた口を手のひらで塞いだ。

明け方の暗い部屋にいると、「私って誰だっけ?これの前は誰だったっけ?これの後は誰になるんだろう?」

と、自分を質問責めにしてしまう。しかも、一度スイッチが入るとなかなか止まらない。

脳内では前世と言わず、これの前と言う。来世と言わず、これの後と言う。

5歳ぐらいから、主に毎年冬になると発症しやすい。発作みたいなものだ。

近年では「自分はこれの視点でしか世界を感じることしかできず、いつかこれの意識は途切れる。でもこれ以外の世界は、こうしている間もずっと動いている...意味あるのか」という謎ナレーションも加わるようになった。

スピリチュアル趣味はないし、哲学者アピールをしても痛いだけなので、今まで誰にも言わなかった。

勿論こんなこと、いっつも考えているほど暇ではない。いつも、ふとした拍子にやってくる。

寒い。はよ着替えな。

【AM6:15】

今朝の読書は、寺地はるなさんの『夜が暗いとはかぎらない』。

リレーをするように、次々と視点が入れ替わる連作短編集。Aという話で脇役だった人物が、次のBでは語り手となる。

ひとつの体(時間軸?)でしか世界と繋がれないという、当たり前の事実に朝から傷付いた自分には、偶然にもぴったりだった。

また、人生を変えた一冊である『今日のハチミツ、明日のわたし』と同じ作者の小説から、

「自信と自己肯定感、成功と幸福は似て非なる」と学ぶ読書だった。

登場人物は、何か劇的な成長を遂げるわけではない。しかし、自分を許してもいいんだと、自分って案外幸せなんだと「気付く」ようにはなる。もしかしたら、生きるとはその繰り返しなのかもしれない。今日もごまあんまんが美味しい。

【AM9:25】

始業直前にネットニュースを見てはいけなかった。もちろん、仕事に役立つ時もあるけれど。

脚本家の上原正三さんが亡くなった。


つい昨日、新聞(上記とは別の媒体)で上原さんの最新インタビューを読んだばかりだったので、ショックはより大きかった。「うわっ」と声が出てしまった。

82歳だった上原さんの、詳しい経歴についてはここでは割愛する。

個人的な上原さんの代表作といえば、ウルトラマンティガ第49話『ウルトラの星』だ。

これは「わざわざ平成から昭和に遡り、ウルトラマンは虚構であると、子どもたちに盛大にバラしていくエピソード」である。

でも、自分はこの話が大好きで、4歳の頃から録画して何度もリピートしていた。成人してから上映会にも足を運んだ。

なぜか?

夢を壊されるどころか、夢を与えられたからである。

☆ ☆ ☆

ウルトラマンティガに変身するダイゴ隊員は、怪獣バイヤーを名乗る男を追い、1965年にタイムスリップする。

そこでは、後に『ウルトラマン』を撮ることになる映像プロダクション(円谷プロ←実在)のスタッフたちが、新作の構想に行き詰まっていた。

想像力に溢れる特撮の神様・円谷英二。

現場を仕切る監督は、息子の円谷一。

そして、スランプに陥った脚本家・金城哲夫。

演じているのは俳優さんだが、設定はリアルだ。テレビの前のチビッ子には、そんなんどうでもいいことなのに。

東京五輪直後を生きる彼らは、ボツ原稿に頭を抱え、飲みながら愚痴り、プロ野球に一喜一憂し、ビートルズの来日に盛り上がる。

(脚本を書いた上原さん自身も、やはりこの時代の当事者である)

また円谷英二は、散歩に出かけた夜、とある「友人」に出会い、贈り物とアイディアを授かる(さすがに、ここはお伽噺...?)。

そんなオジサンたちが、眩しかった。

あー、色々思い出したら、仕事が手につくか不安になってきた。

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【PM13:37】

ティガと初代ウルトラマンの共闘を見届けた円谷英二は、「ヒーローが必要なんだ...ヒーローが...」とつぶやく。

ぶっちゃけ、作り手たちが全員、ウルトラマンのような宇宙人を信じていたかはわからない。

しかし、彼らは「ヒーローが必要」と信じていた。ヒーローを描くことで、何かが変わる、夢が生まれると思っていたから番組を作った。

その熱き想いを受け取ってしまったら、もう「卒業」はできない。ウルトラマンがフィクションであろうが、その数年後にテレビシリーズが休止しようが、もう愛は揺らがなくなる。

(あ、今盛りました。一時期結構揺らいでました)

ヲタクのようで、ヲタクじゃない。この気持ちは、説明が非常に難しい。

小学校で「ヒーローものを見ている奴は、嘘と現実の区別がついていない」と非難されるのは、もう少し先の話だが、

『ウルトラの星』を見た時点で、「卒業」という選択肢は300万光年の彼方に消えていった。この進路は自分で決めた。

☆ ☆ ☆

実は、平成のウルトラマンシリーズには、このような「メタフィクションもの」の話が時々ある。映画にもなっている。

それは『ウルトラの星』が先鞭をつけた面も、少なからずあるのだろう。

時に「お仕事ドラマ」になるから、(ノリのいい)親も観て楽しい。そして、この程度で子どもの夢は壊れない。それどころか、本気で生み出されたストーリーは新たな夢すら育む。

きっと、作っている人も楽しいのだろうなと思う。子ども騙しではなく、面白い作品にすることが仕事なのだから。

余談になるけれど、ウルトラマンには綺麗事では片付けられないテーマも沢山込められていて、その影の部分にさえ自分は惹き付けられた。

☆ ☆ ☆

うまくまとめられない。

とにもかくにも、自分は上原さんたちがもたらした技術・哲学・ヒーロー像を信じたいのだ。

【PM23:00】

『夜が暗いとはかぎらない』には、こんな問いかけがある。

「(前略)わたしたちの『好き』はわたしたちのものです。世間にすでに存在するパターンに当てはまらないからって、ほんとに人を好きになったことがないなんて決めつけられたくない。そう思いませんか」(P.142)

そうだ。「好き」が十人十色であるように、「信じる」にもバリエーションがあっていいのだ。

結婚したくないけど好き。

恋愛感情はないけど好き。

嫌いだけど、ある部分は好き。

それと似て、

もう一点の曇りのない、半ば狂信的な「信じる」や、

ある程度疑いつつの「信じる」や、

裏切られたとしても変わらぬ「信じる」もある。

『ウルトラの星』への感情は、「半分エンタメ、半分自己応援的な信じる」...だろうか。

他方、人は得体の知れない感情に出会うと、それを持つ他人を怖がる。

自分が小学校の頃、ゲームやアニメと現実の区別のつかなくなった子どもによる暴力や、若者による犯罪が増えていた...らしい。

今思えば笑ってしまうが、漫画やイラストを見せながら「この場面はありうるか、ありえないか」と発言させる授業まであったのだ。

その恐怖心・差別心が大人から子どもに伝染し、「フィクションに夢中な子は攻撃していい」との脳内命令がくだった。今なら、冷静に解釈できる。

ただやはり、「夜は暗い」と決めつける人達に、無理やり心の灯りを消された気には、なる(自ら消したこともある。被害者だと言いたいわけでは全くない)。

それでも、最後の心の拠り所は「物語を紡ぐ人の物語」だった。そして、これからも物語を愛し続けるだろう。

自分は物心ついた頃から、光の国を信じていない。しかし、今でも別の意味では信じている。矛盾した希望を抱えて、これからも大人をやっていく。

☆ ☆ ☆

そうは言うものの、「この生」が終わったら、ちょっと別の星に行ってもみたい。

もしや今朝の目覚めは、無限の彼方からの通信...?ってことは、来世はバズ・ライトイヤーか?

ちなみに今月の読書会は、ウッディな場所でやります(強引)。

光の国に行けるとは、まだちょっと恥ずかしくて言えない。

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