婆裟羅の玄孫・轟悠の魅力

梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで「婆娑羅の玄孫」を観る(7月9日15時公演/7月10日12時公演)。

専科・轟悠の実質的な退団公演である。轟の舞台は、最近だと昨年秋に「シラノ・ド・ベルジュラック」を2回観劇している。また年が明けて2月には、71期の同期トップ4人が揃うディナー・ショーをオンライン配信で観た。その後に退団発表があり、多くの人と同様にびっくりした。一方で納得するところもあった。ディナーショーの際、最後のところで轟がこの種のステージでは珍しく号泣していて、それを片手で隠しながら後ろを向く姿が印象的だった。そのときは同期といっしょにショーができたことで気持ち的に安心するところがあったのかなと思ったくらいだったが、今から思うとすでに退団を決めていて、いろんな思いがこみ上げたのだろうと察する。

さて舞台である。今回は運よく初日を観劇することができた。初日ということで会場には期待と緊張が漂っているように感じた。ドラマシティのロビーに入ってすぐのところで、作・演出の植田紳爾(うえじい)がスタッフとともに立って客を迎えてくれていた。関係者への挨拶のためでもあるのだろうけれど、来てくれる一般客の様子を自分の目で確認したいということもあるのかもしれない。ただ相当高齢と思われるのでちょっと心配になる(うえじいは翌日の公演も舞台後方の席で舞台を観ていた)。私自身の座席は初日が上手側のほぼ最後列。2日目は下手側のやはりほぼ最後列だった。

幕が開くと舞台中央やや奥に深編笠を被り薄紫に金の刺繍の入った派手な着流し姿の轟が立っている。編笠を脱ぎスポットライトが明るく照らすと大きな拍手がわき起こる。つづいて「轟け、轟け、我が心、この命燃やし尽くすまで…」と主題歌が歌われる。うえじいが作詞した轟へのはなむけの歌である。この歌声を聴くと、ああ轟さんだと感じる。後でもう一度論じるが、男役あるいは役者としての轟の魅力の一つに声があると思っている。

轟は婆娑羅大名の異名をもつ佐々木道誉の子孫の役を演じている。一三歳のとき、佐々木家当主の父からわけも知らされず廃嫡されてしまい、現在は細石内蔵助と名乗り、神田稲荷町のなめくじ長屋でよろず指導(読み書きから武芸までを教える)を生業に暮らしている。長屋の人々からは「いし先生」と呼ばれ、親しまれ尊敬されている。物語自体は比較的単純である。第一幕は長崎からやってきた清国の血を引く少年少女の敵討ちを内蔵助が手伝う話であり、第二幕は内蔵助が廃嫡された理由をめぐって展開し、佐々木家の後継として迎えられるまでを描く。だが見所はたくさんある。

まず、登場人物らによるセリフのやりとりが魅力的である。内蔵助と今回の相手役である町娘のお鈴(音波みのり)との丁々発止のやり取りが楽しい。1シーンあたりのセリフ量が多く、覚えるだけでもたいへんそうなのに、江戸っ子らしい調子で軽快にしゃべる。魚屋の長太(ひろ香祐)と仕立て屋のお花(紫りら)らのやり取りも楽しい。この二人、それぞれ息子と娘が一人いて、二つの家族が視覚的にもシンメトリーを構成していることが分かる演出になっている。瓦版売りの権六を演じる極美慎も江戸っ子言葉を流暢に操り安心して聴いていられる。内蔵助がまだ幼い頃から面倒みてきた汝鳥伶演じる小久保彦左(じい)と内蔵助のやり取りも味わい深い。内蔵助の所行をじいが諫めるような場面があるのだが、駄々を捏ねる孫を結局は甘やかしてしまうお祖父さんのようで微笑ましい。この二人の会話では、第二幕最後のシーンが印象的である。佐々木家の跡取りとなることを決め、近江に帰ろうとする場面であるが、内蔵助がこの先どうなるか分からなくて心配だと語るのに対して彦左は、「未来は(こちらから)行くのではなく(向こうから)来るものです」と語る。地震や津波を引き合いにだし、未来に何が起こるかは分からないのだから心配してもしょうがない。今を精一杯生きることで未来を堂々と迎えようと説く。これは退団する轟へのうえじいからのエールであるとともに、(地震・津波を経て)コロナ禍を生きる現代のわれわれへのメッセージとして受け取ることができる。

話は少しそれるが、昨年(2020年)から今年(2021年)にかけては、宝塚だけでなく数々の舞台芸術が中止や延期を余儀なくされた。私自身も直前になって観劇予定がなくなる事態に何度か遭遇し、その都度落胆した。観る側であってもそうなのに、舞台をつくる演者やスタッフの側の気持ちは想像を絶する。少しずつ通常に近い形で舞台が上演されるようになってはきたが、いつまたあの時のようになるか知れない。こうした状況を共有しているために先の彦左の言葉は胸に迫るものがある。

本作は立ち回りも見応えがある。宝塚でこれだけ本格的な立ち回りが見られるのも稀ではないかと思う。和物の立ち回りは最近では「壬生義士伝」と「桜嵐記」が記憶に残るが、それ以上に多くの手数が費やされていたように感じた。冒頭から内蔵助が旗本奴どもを懲らしめる派手な立ち回りがある。ここで内蔵助は自ら刀を抜かず、相手の刀を奪い峰打ちにしていたように記憶している。圧巻だったのは二幕後半、大勢の黒装束の忍びを相手に戦う場面である。ここでは内蔵助だけでなく彦左(汝鳥伶)、佐々木家家臣の西川頼母(天華えま)らも加勢し、斬りかかる敵を次々と斬り倒していく。背景の夜空には流星群のように数多の星が流れていてたいへん美しい。迫真の殺陣とロマンティックな背景がちぐはぐな感じもするが、こうしたリアリズムとファンタジーとの融合が宝塚らしさでもあり、他にない魅力であると感じる。

 くわえて、本作には日本舞踊を味わう魅力がある。第一幕半ばの神田祭の場面では、鳶頭の格好をした天華えま・極美慎らの男役、芸者の格好をした夢妃杏瑠らの娘役が踊り、歌う。後から内蔵助とお鈴がお面(内蔵助=ひょっとこ、お鈴=おかめ)をかぶって登場し「かっぽれ」を踊る(この時まで「かっぽれ」なる言葉を知らなかったが、俗謡にのせて面白おかしく踊る庶民的な踊りをいうそうだ)。途中でお面を脱いで二人が顔を出すという粋な振りになっている。初日はお面をかぶっていて誰だか分からないなあと思って見ていたため、お面を取った瞬間に「あっ」となった(私は少々鈍いらしい)。二人の息がぴったりで、楽しそうに踊る様子が微笑ましく、繰り返し観るごとに味わいが増すように感じる。そして、何より第二幕冒頭の「桜狩り」の場面の舞踊が素晴らしい。幕が開くと満開の桜を背景に複数の男女が踊っている。そこに突然、雷鳴が轟く。一陣の風が吹き渡ると、山神に扮した轟が現れる。歌舞伎の獅子の精がかぶるような白いかつらと大口袴を身につけ、舞台上を前後左右に舞い踊る姿は迫力があり、また美しい。この場面を観られただけでも今回の舞台を観にきてよかったと思うくらいだ。

山神の舞を観ながら、以前文楽で観たことがあった「紅葉狩り」(能に由来し歌舞伎の演目にもなっている)を思い出す。こちらの方は美しい紅葉の山を背景にしていて、同じように山神が登場する。背景を桜の季節に移し、宝塚仕様に創られたのがこの場面だろうか。

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今回の舞台を通じて、轟悠という役者の魅力をあらためて思い知ることになった。轟が出演する和物作品をこれまで観たことがなかったので、轟が日本舞踊を得意としていたこと、日本刀を用いた殺陣を完璧にこなす技術をもつことを初めて知ることができた。リアルで端正な男役の造形については多くの人が指摘するところである(宝塚における「リアル」とは何かという重要な問題があるが、今は考える余裕がない)。一方、今回の舞台では、「じい」とのやり取りで駄々っ子のようになったり、清国語の会話についていけなくなってたじろいだりと、人懐っこく柔和な面が随所に表れ、轟の役者としての多面的な魅力が伝わってきた。また、専科に移る前の舞台を知らないので断言はできないが、表情や所作に表れる轟の繊細な演技は、大劇場よりも客との距離が近い今回のような小〜中規模の劇場において発揮されやすいように思った。

そして、最初に書いたように、轟の魅力の一つにその声(歌声)があることを今回あらためて確認できた。周知の通り、艶やかな美声とは異なるハスキーな声である。近年は高音になると声が出にくく苦しんでいるように思うことが度々あったが、今回の舞台では気にならなかった。とくに低音部の響きは豊かで、魅力的である。冒頭と最後に歌われる「轟け…」の歌では、本当に会場全体を震わせるような力強い歌声を聴かせてくれた。宝塚ではマイクが使われているのだが、おそらくマイクなしでも最後列の席まで声の圧が届くだろうと思わせる迫力である(ほかでは望海風斗の歌声にも同様の力強さを感じる)。

轟の歌といえば、数年前に「チェ・ゲバラ」を同じドラマシティで観劇した際のことが記憶に残る。国連での演説の場面で演壇から聴衆に訴えかけるゲバラの演説が途中から歌に変わるのだが、こちらが思わずのけぞるくらいの迫力があった(この時は運よくほとんど最前列で観劇できた。今回はほぼ最後列だったが歌の迫力にそう違いはなかった)。こうして思うのは、歌単体としてではなくドラマ(役)と一体になることで、迫真性が生まれているということである。役を生き切ったうえで歌われることで、はじめて観る側に本当に伝わる歌になる。轟の歌はそれを体現しているように思う。

轟の舞台を観ることは今回が最後になってしまった。残念ではあるが、宝塚を観るようになってからこれまでの数年間、回数はけっして多くないがその舞台に生で接することができたことを幸せに思う。


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