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もうお金なんていらないんじゃないかな、なんて、今日は言ってみることにする。

教育史を勉強し始めた。
400年前にコメニウスという人が、貴賤貧富関係なくあらゆる人が進学できる1歳から24歳までの新しい学校体系を作ろうと言ったらしい。
それを学んだときに、私は、昔の人ってなんて時間があったんだって思った。
だって当時の寿命とかを考えたら、24年って、下手したら人生の半分を教育に費やするということになるんじゃないだろうか。

生産性で人の価値が測られるなんて言われている今の時代では、働くことが人生において最も重要なこととされているように思う。「みんなが人生の半分も勉強に費やしたりしたら社会が成り立たなくなる」と誰だって思んじゃないか。

じゃあ、逆に、当時の人には、それだけの時間的余裕があったということだろうか、それとも、当時、学びと労働は両立できるような物で、みんな学校に行く傍ら働いていたんだろうか。あるいは、農民がせっせと働いてくれるおかげで、知識階級の人たちにとって働くことはそれほど重要ではなかったから、知識階級にいたコメニウスは労働者階級の人の暮らしを理解せずにこういうことを言ったのだろうか。

私には十分な知識はないから、その答えを想像することしかできない。
でも私がはじめに思ったことは、「あぁやっぱり現代人って働きすぎなんだ。そんなにがむしゃらに働かなくても社会って成り立つんだ。」そんなことだった。



コロナウイルスのせいで、今、あらゆる物の需要が減って、多くの人が給料が得られなくなったり、職を失ったりしている。そのことが、ウイルス自体の危険性と同じくらいの危機になっていると、多くの人が認識しているはずだ。

でも、私にとっては、なんで、『人がものを必要としなくなったこと』が、人の命を脅かす直接の原因になっているのか、不思議で仕方がなかった。
重要なポイントは『人が必要とするもの』がしっかりと生産されて分配されていることじゃないのか。食べ物とか電気とかインターネットとか、今まさにみんなが必要としているものがストップせず作られている限り、最低限みんな生きていけるはずじゃないのかと思ったのである。

みんなが新車を買うのをやめたなら、車屋さんは働く必要がなくなるから、お家でゆっくりしていればいいじゃないかと思ったのである。
でも現実は、仕事が減って、株価が落ちた車屋さんは、いつクビになるか、いつご飯が食べられなくなるか、生きた心地がしないでいるかもしれない。

それがなんでかって考えたら、私は、今の社会が、「働かざる者食うべからず」の経済システムの上に成り立っているからだと思った。全国民を養うだけの食物を農家さんが変わらず生産していたとしても、職を失ってお金を払うことのできない人の傍らで、余った食品がフードロスとして廃棄される、そんなシステムの上に私達が生きているからだと思った。

あらゆる人が自分の生業を持っている。そして、その無数の職と職の間にお金をグルグル回すことで、社会を成り立たせていこうというのが、今私達が生きている貨幣経済というシステムである(と私は思っている)。
お金は、自分で生み出すことができないもので、常に、別の誰かから回してもらわないといけない。
何か商品やサービスを生み出すことができるだけでは、それは自分の生業と言うことはできず、それが他人にとってお金を払うに値する価値となって初めて、その労働は自分の生業となる。


「働かざる者食うべからず」の世の中では、すべての人が、何らかの形で、生業を持って働いている。でもよく考えてみると、全員が毎日毎日8時間も全力で働くほどの仕事が世の中にあるのだろうかと、私は、ふと不思議に思ってしまった。
戦後復興期とか、文明をこれから発展させていこうって時なら、全員ががむしゃらに働きまくっても、仕事はなくなることがなかったかもしれやい。そうやって社会がどんどん発展していったんじゃないかな。

でもそれが落ち着いてしまったとき、需要と供給が反対になったんじゃないかなんて思う。供給が飽和状態になってしまったから、できる限り需要を引き出そうとみんな躍起になるようになって。結果、世の中は、人の欲を掻き立てるような広告で溢れるようになって、みんな常に新しいものを求めるようになった。
いつからか私たちは『需要を生み出すこと』を仕事にするようになった。必要なものを生み出すために働いていたはずなのに、いつからか仕事を生み出すために必要以上に消費するようになった。

息子が一日に5回も着替えをしたら、お母さんは、もう!洗濯物を増やさないで!っていうだろう。でもクリーニング屋さんなら、そんなに何回も来てくれてありがとうっていうかもしれない。 



みんなで支え合う仕組みなら、大切なことは、必要最低限の労力で最大限に豊かな暮らしをするために、みんなで、仕事もモノも、シェアしあうっていうことだと思う。でも今は、できる限りたくさん消費して、全員分の仕事を維持するってことが大切なことになってる。その結果が環境破壊であり、気候変動だと言ってしまえるんじゃないか。


今の社会は、私には、必要以上に働いて、必要以上に欲しがって、必要以上に消費して、結果、疲れ果てている上に、地球環境まで破壊し尽くした、そんなふうに見える。言うなれば、「超高速プレゼント交換社会」だ。


そういうギラギラした社会では、未知のウイルスの流行とかによって、みんなが、『最大限に欲を掻き立てられている状態』から、『必要最低限のものしか買わない状態』になったときに、多くの人が職を失ってしまうのかもしれない。

よくよく考えてみると、なんで、21世紀の世の中にご飯を食べることができなくなる人がいるんだ。
あらゆる人に生存権や文化的に生きる権利を保障すると、70年以上も前に憲法に書いたのに、なんでまだ、こんな基本的な権利すら保障されていない人がたくさんいるんだろう。なんで、今になって、生産性がない人には生きる価値がないなんていう風潮があるんだろう。


職を得られない人がいても全然おかしいことじゃない。だってそんなに仕事がないんだもの。なのに、働いてないんだからお前にはご飯上げないよ、なんて言いながら、私たちは溢れるほどに生産したものをゴミ箱に捨てている。
世の中には十分すぎるほどのモノが溢れているのに、私たちは、それを上手くシェアする方法を知らない。

働いていようが働いていまいが、どんな人でも少なくとも生きていくことを心配しなくていい世の中を築いていくべきだと思う。
食べるものと住むところと学ぶ権利は、タダでみんなに配ったらいいと思う。そんなことは、欲しがりすぎと、捨てることをやめたら、21世紀の世の中では、いとも簡単に実現できることであるはずなんだ、と、言ってみたい。

私達はもっとシンプルに生きることができる。AIが代わりに仕事をやってくれたり、みんながそんなに多くのものを必要としなくなることを、仕事がなくなるなんて言って恐れる必要はない。
生きてくことを心配しなくてもいいっていうことは、私はお金のない人にも写真を撮ってあげることができるようになるっていうこと。自分の腕をPRすることに疲れ果てる必要がないってこと。地域には素敵な写真がもっと溢れて、社会はもっと豊かになるってこと。



みんなが、もっと余裕を持って働くことができる社会なら、あの人は働いてなくてずるいから、あの人の写真は撮らないよっていうフォトグラファーがいるだろうか、あの人には聴かせないよってミュージシャンがいるだろうか。お腹をすかせた人の横で、野菜をゴミ箱に捨てる農家さんがいるだろうか。
「お前はお手伝いしてしてないから、ご飯食べるな」って、お兄ちゃんは弟に言うだろうか。多分、お手伝いしてないくせにゲームするのはズルいって言うかもしれない。でもご飯くらいみんな食べてけるって、そこにはフェアもアンフェアもないって、子供でも理解できるはずだ。

みんなにもっと余裕ができたら、人生の半分を学問に費やすることも可能になるかもしれない。世の中にはアートが溢れるかもしれない。
「神の見えざる手」なんかに任せていないで、みんなちゃんと頭使ったら、持続可能な方法で必要なものを必要な分だけ生産して、それを上手くシェアできると思う。



400年前に、教育によって、すべての人に、普遍的で多面的な知識をつけるようと試みたコメニウスは、教育によって争いをなくそうとした。あぁ、人類400年経っても全然進化してないじゃないかと思った。
コメニウスは、神が人間に与えた役割は、学識と徳行と敬神の追求に努力することであるとした。人の究極の目的は来世で神とともにある永遠の命を得ることにあるというのがその時代の価値観だった。

文明を発展させていくことが人類の目的になったのは、意外とつい最近のことじゃないのかな。50年後、100年後に、宇宙旅行に行けるような、ドラえもんの世界に生きていることが、人類の目的なんだって、知らず知らずのうちに私は思っていたのかもしれない。

現在を歴史の連続のなかの、ただの一地点であると見ると、ただ時代に従っていくんじゃなくて、私たちは、社会を変えていける存在なんだということが見えてくるやうな気がするんだ。今の常識は、正解とかじゃなくて、ただの歴史の一地点上での解釈でしかないと思える。

ただただ良く生きることが人類の生きる目的だった時代もあった。
ただ豊かに生きていくことを目的として生きるなら、私たちはもっともっと自由だ。自給自足型の暮らしでは、人類は発展していけないと多くの人が言うだろう。でも人類は果たして発展していく必要があるのかな、なんていう問いも立ててみてもいいだろう。


世界はもっと複雑で、無数の職があって、無数の人がいるから、ただ豊かに生きるためにとか、自給自足とか、そんな単純なようには、世界はあることができないかもしれない、と思ったりもする。
でも、今の社会の仕組みに矛盾がたくさんあって、もう変えるときに来ているということは、確信を持って断言したいの。

地域通貨っていう仕組みも面白いなって思った。
でもやっぱり、「もうお金っていらないんじゃないかな」、なんて、今日は言ってみることにする。
私は、お金をグルグル回していく仕組みが、得意なことを活かし合って、みんなでみんなを支え合う仕組みだとは思わないから。

どうやったらお金のいらない社会を作れるのかは知らない。でも、答えは案外そこらへんに転がってる気もしないでもない。

私には、世界をひっくり返すことはできない。でも半径3キロくらいなら、変えていけるって気がする。
小さな変化が世界中で同時多発的に起こることを願って、私は私の足元から、できることを模索していく。そういうことが、私が大学に行かない代わりにやりたかったことかもしれない。

写真は、ポルトガルのポルトで撮ったやつ。関係ないけど、お気に入りなので載せます。



(頭でっかちかなぁとも思うけど、ハタチって夢を語る年かなとか思うのでこういうことも書いてみます。
こうと思ったらこうと思ってしまいがちな性格なので、色んな意見、いただけると幸いです。もっと色んなこと、勉強していきたいけど、自分の生業になるようなことも見つけなさいよって言われるけど、やっぱりもっと学ぶことがやりたいのです。)

今日イスラム教徒の友達と話していて、発展することが人類の目的のように私が感じていたのは、私達の文化が、科学(=進化論)の上に成り立ってるからかなぁなんて思って興味深かったです。アメリカの映画とか見てても思うときがあるけれど、キリスト教にせよイスラム教にせよ、「正しいこと」、「良いこと」をしようとする価値観が、ちょっと新鮮だなぁと思ったりするのです。