連載小説 『引力と重力』 第二回(森田七生)
第一回はこちら
’06.10.21
「六年のゆきです。こんばんは」
「はい、こんばんは」
「この間はありがとうございました」
「あ、おじいちゃんに謝れたんだ」
「いえ、そうじゃないです。返そうと思っていたお金で、トランプを買いました」
「トランプ。なんでまた」
「昔よく手品を見せてくれたのを思い出して。でも、僕が学校に持って行ってなくしちゃったままで」
「うんうん」
「それでおじいちゃんに渡したら、そんなのいいから囲碁をやろうかって」
「囲碁が好きなんだ。おじいちゃん」
「そうですね。アマチュア初段って言ってました」
「で、教えてもらってるんだ」
「はい、そうです。結構面白いです。麻雀も強かったって言ってました。四人いないとできないですけど」
「へー、よかったね。では今回の質問をお願いします」
「あ、はい。じゃあ……世界に果てはありますか」
「よかった。それくらいは先生、答えられるよ。約百三十七億光年だったかな。その先に世界、というか宇宙の果てはあります。なぜなら百三十七億年前に宇宙が生まれたとされているからです。それより遠くを見ようとしても天体や宇宙そのものが生まれていないので何も見えません……でもゆきくんなら知ってるでしょ」
「じゃあ、さらにその先は本当に何もないのかって思わないですか。たとえば三次元の世界を超えて」
「……思う。だけどそれは誰にも観測できないんだよ」
「だったら『果てはある』は不正解ですよね」
「そうだね。でも、確かめようがないんだから『果てがない』って言い切ることもできないよね」
「そう。だからどっちも不正解、っていうのが正解です」
「……なるほど。えっ、もしかして最初からわかってて聞いたの」
「あ、はい」
「やられた。先生の負けです。ゆきくんは囲碁、たぶん強くなるよ」
「小学校六年から始めても、そんなに強くはならないですよ」
「……プロになろうとするなら、そうなのかもしれないね」
「じゃあ、また質問があったら電話します」
「はい、待ってます。元気でね」
夏目さんと後藤のユニットを観たのは、七月末の高円寺だった。前期の試験が終わった後で、自分たちの映画がクランクインする前のことだ。そこは新宿のライブハウスと似たような広さで、違いと言えば地下にあることと、テーブルが丸ではなく四角だったことくらいだ。広さに対してエアコンの数が足りていないのか、ひどく蒸し暑かった。喫煙スペースには業務用の空気清浄機が置かれていたけれど、何か仕切りがあるわけでもなく結局ハコ全体がヤニ臭かった。夏目さんたちの前に演奏したバンドは、やはりギターロックで確か三人組だった。私はそのときもロングショットに使うカメラの設置を手伝った。真部さんがスタッフと交渉し、私はフロアより一段高く作られている音響ブースの中に入れてもらった。それなりに客が入っていて、普通に三脚を立ててもステージ全体を映すことができなかったからだ。
夏目さんと後藤は楽器やマイクのセッティングを終えて、一度ステージの袖に捌けた。画角を合わせるのに手間取っていた私は焦った。普通は何かSEを流して改めて登場するところを、二人はなぜかそうせずにふらっと戻ってきた。夏目さんは上手(かみて)側キーボードの奥、後藤は下手(しもて)側ギターアンプ手前の椅子に、それぞれ座った。ブースは狭く、調光卓の脇に置かせてもらったグラスに肘が当たらないよう気をつけながら、私はどうにか撮影の準備を間に合わせた。
真部さんが手拍子を打ち、その後に聴こえてきたのは、あのドキュメンタリーの最後に夏目さんが演奏していた曲だった。しかし同じ歌には聴こえなかった。メンバーもアレンジも違うのだから違和感があって当たり前かもしれない。けれど歌詞が耳に入ってこなかった。むしろベースやドラムがいなくなって、鍵盤とギターだけのシンプルな編成になったのだから、夏目さんの声は際立ってもいいはずなのに。スーパーマーケットで流れるBGMを大音量で聴かされているような気持ち悪さだ。
私はファインダーを覗くのをやめて肉眼でステージを観た。モノクロだった世界がカラーになる。色彩の情報が入ることで、私の頭はさらに混乱した。もちろん、私の目に映っているのはステージの上で叫ぶように歌っている夏目さんだ。それなのに彼の額の汗は、照明を浴びて吹き出すただの生理現象でしかなかった。両手の指は、曲の展開を進めるためだけに鍵盤を叩いている。見開いている目は、何かをずっと睨みつけているようで、何も見ていない気がした。あるいは演奏している自分自身を俯瞰しようとしていたのかもしれない。やっと瞬きをするのかと思えば、そのまま目を閉じて顔をしかめる。何に集中しているのだろう。歌の音程なのか。それともリズムだろうか。まぶたが開くと今度は少し虚ろな目になる。表情の変化するタイミング、それら全てがおかしい。曲調やリズム、展開とまるで合っていない。私の時間感覚も狂ってしまったのか、液晶モニタの表示を見ると既に二十分以上経過していた。
あの春、学生会館の地下二階のスクリーンで、カットインする落日の風景と絡み合っていたメロディ、穏やかに流れ込んできた一つ一つの言葉、優しいピアノの音色。それらは彼の伸び切ったシャツの首回りと同じように、よれてだらしなく意味を失っている。私が飲み干してステージにかざしたプラスチックグラスの、安っぽい薄緑色の向こうに映る夏目さんは、まるで亡霊のように見えた。その曲のアウトロが終わると、鍵盤の音色を替えるスイッチがカチカチと鳴った。それから(最後は新曲です)と夏目さんが言ったような気がしたけれど、ハウリングし始めたギターの音でよく聞こえなかった。
「音楽やるしかない人に音楽やらされてるのって、どういう気持ちですか」
ライブが終わりバータイムになったフロアの片隅で、私は後藤にこう尋ねた。夏目さんの横で音の隙間を埋めていただけのギタリストだ。
「……すいません、誰ですか」
真部さんの後輩だと説明した。
「じゃあ、俺と同学年だ。学部どこ」
「質問に答えて欲しい」
「……俺もあの人も自分がやりたくてやってると思うけど」
「じゃあ終わった後のアンケートをあなただけが配ってるのは何で」
「夏目さんより年下だからそんな感じの分担というか」
「そういうことじゃなくてさ……とにかく見ててこっちが辛かったよ。あれなら演らない方がマシだと思う」
「まだ組んで間もなくて練習不足だったのはある。ごめん」
「技術とかそういうことでもなくて……でもそう思ってるなら金取らないで欲しいなあ」
「じゃ、次回はゲスト扱いでドリンク代だけにさせてもらうってのはどうかな」
話にならない。こんなときに手っ取り早く距離を詰めるには、と私は考えてしまったのだった。
次のライブは直接告知して、私はそう言って連絡先を交換した。夏目さんと真部さんは喫煙スペースで動画をチェックし始めていた。お疲れ様でしたと声をかけ、返事を待たずに防音ドアを抜ける。傾斜のきつい狭い階段を上って商店街に出る。エスニック雑貨店のシャッターが半分だけ下りていて、更紗のロングスカートをはいた店員の足元が見えた。アーケードの屋根のせいなのか、息苦しいような暑さは変わっていない。後藤にメールを打ち、早足でアーチをくぐってJR高円寺駅二番線ホームで待つ。二枚重ねで着ていたタンクトップの首元を掴んで、自分の鼻に持ってくる。煙草の臭いと柔軟剤の香り。目をつぶるとその向こうに少し汗の臭いがした。まあこれくらいは大丈夫だろう、と思った。と同時に安堵した自分と一連の仕草、それによって見えた胸の谷間がきたなく思えたけれど、二人の演奏を思い返して湧く怒りで誤魔化した。
青い英字が大きくプリントされたTシャツにジーンズという服装で、ギターケースを背負った後藤はだるそうに階段を登ってきた。髪と肌の色素が薄いこと以外は、どこにでもいるような顔をした男だ。私を見る目が三白眼になっていたけれど、かといって睨んでいるというわけでもなさそうだった。疲れと酔いのせいかもしれない。
「なんで自分の家に帰らないの」
後藤は背負っていたギターを地面に降ろして、愚問を投げかけた。ショートパンツから出ている私の脚を見ながら。
「今からだとバスの時間がギリギリで、それ逃すと面倒くさくて。明日は四谷に用があるから泊めてくれると助かるな」
西武新宿線の沼袋で一人暮らしだと後藤はライブハウスで言っていた。
「俺の家もそんなに近いわけじゃないよ。駅から十五分ぐらい歩くし」
右手はギターを支えていて、左手は採血を待つ人のように親指をぎゅっと握り込んだり緩めたりしていた。腕には血管が青く浮いていた。
「そっか。彼女とかいるなら、そう返信してくれればよかったのに」
「いたけど別れたよ」
左手はまた親指を握り込んでいる。
「ふーん。引きずってるのか」
「……まあ、そういうことでもなんでもいいよ。新宿乗り換え? こっちは高田馬場行きだから向こうのホームに快速が来るよ」
後藤の黒目はほとんど半月のようになっていて、私を牽制しているようだった。
「そっか、わかった。じゃあね」
私は笑顔を作って立ち去った。
少なからずプライドを傷つけられた私は賭けに出た。私と後藤が乗る電車はどちらも、一駅先の中野を経由してそこから分岐する。私は後藤の言った通りに、先発する新宿方面行きの快速に乗った。ドアのガラス越し、向こうのホームに見えるはずの後藤に手でも振りたかったけれど、車内の混雑でそれは叶わなかった。中野でドアが開くと同時に飛び出して階段を駆け降り、電光掲示板を慎重に確かめ、五番線のホームに上がって後藤が乗ってくるはずの車両の到着位置、黄色い線の内側で待った。気づいて降りてくれば私の勝ち。気づかなければ私の負け。気づいたとしても降りてこなければ、それも私の負けだ。
見つかったときに息が上がっているのは格好悪いと思った。横隔膜が下がるのを意識して、腹式呼吸でゆっくり息を吐く。高校生だった頃、カンパニーで教えてもらった通りに。吐き切ると、また深く吸いこむ。ブラのワイヤーが肌に擦れて少し痛かった。ハンドタオルで額と首回りの汗を拭いて、南口方面を眺める。ホームの屋根とその向こうに建ち並んだビルで、夜空はあまり見えない。通りの先に見えている唯一の切れ間も、街明かりのせいで曇っているのか晴れているのかさえわからなかった。視覚障害者用の誘導チャイムが階段の奥から聴こえたかと思うと、電車の到着を知らせるアナウンスにかき消された。
結果は私の不戦勝だった。私に横顔を凝視されているとも知らずドア付近に立っていた後藤は、自分の意思とは関係なく、降車する多数の乗客のため一旦ホームに出なければならなかった。後藤はギターケースを抱きかかえながら、ホームと車両の隙間に注意しつつ足元を見ながら降りてきた。そして私の脚に目を留めた。顔を上げた後藤は、文字通り息を飲んで目を丸くした。三白眼ではなくなったし、のど仏が上下したのもわかった。色素は薄いのに瞳は真っ黒なんだとこのとき気づいた。
後藤はギターを抱えたまま立ちつくしていた。乗り込む人たちの邪魔になっていたので、私は駅名表示板の下まで後藤の腕を引っ張っていった。電車が発車してしまうと、後藤の驚いた表情を思い返し、声を出して笑った。後藤は呆然としながらもおそらく無意識に、また私の脚に視線を向けていた。無言のままギターを足元に置くと、私の悪戯だと理解して両手で頭を抱え、体で支えきれずに倒れそうになったギターを慌てて手で受け止めた。一連の動きが間抜けで、さらに私は笑った。どうにか呼吸を整えハンドタオルで涙を拭うと、誘導チャイムがはっきり聴こえた。後藤は脚を肩幅より少し広めに開き、垂直に立てたギターの頭を両手で押さえながらうつむいていた。私に顔を見られないようにしているらしい。その体勢のまま鼻で息を吸ったり吐いたりしている後藤は、笑っているようにも見えたし、泣いているようでもあった。私は茶色がかった細い髪とつむじ、そして真っ赤になった耳を見ていた。呼吸が落ち着くにつれて耳はだんだん白くなっていった。私が頭に手を置くと、その上にそっと自分の手を重ねてきたので、抵抗をやめたのだとわかった。
中野からタクシーに乗ろう、割り勘すればたいしたことないし、と私は提案した。後部座席で私たちは自分たちに歯止めをかけるように空疎な話をした。
「演劇やってたことあってこのあたりに小さい劇場があってさ」
「この公園は平和って名前がついてるけど実は元々刑務所だってよ」
……エアコンが効いた車内でつないだ手の、指と指のあいだで汗が混じり合っていた。指の付け根にあるごつごつした骨を私が指先で撫でると、頬の筋肉が動いたので歯をくいしばったのがわかった。後藤が仕返しに私の手のひらの中央に親指で円を描いてきたので、右手でシートベルトを握った。後藤はギターケースのポケットの中を手探りし、部屋のキーを出して私に渡した。受け取るとすぐに後藤はタクシーを停めて、財布から千円札を二枚出して料金を払った。リュックから財布を出すまでもなく後藤が首を振ったので、私は頷いた。言葉は交わさなかった。私たちはそれどころではなかった。
軽量鉄骨のアパートの二階に上がり、日中の熱が籠もったままの部屋に入ると、鍵をかけた音を合図に私たちは靴を脱ぎながら舌を絡ませた。後藤がぞんざいに立てかけたギターケースが倒れて、不協和音が響いた。後藤はタンクトップの下から手を入れ、私は後藤のジーンズのボタンに手をかけた。後藤は自分でTシャツを脱ぎ、その間に私はブラのホックを外した。玄関は狭くて肘が壁紙に擦れた。後藤はすぐそばにあったユニットバスのドアノブを回した。後藤を押し込むように中に入りトイレに座らせて、後藤のジーンズと下着を下ろし、髪を耳にかけてくわえた。私の頭を両手で掴んで自分から引き剥がした後藤は、私を立ち上がらせて中に指を入れた。二人でシャワーカーテンの内側に移って後藤が蛇口をひねり、私はバスタブの縁に片足を乗せて後藤の首に腕を回した。水面が膝下まできて後藤は射精した。私は洗面台で手を洗い、膝を折り曲げ向かい合って湯船に浸かると、しばらく黙ってから後藤は私に謝った。避妊の心配をしているのかと思い、ピルを飲んでいることを話すと「それもあるけど」と言った。私は風呂の栓を引き抜いて後藤の肩に手をかけて立ち上がり、ボディソープをワンプッシュして軽く手に馴染ませ、後藤の手と絡ませた。タクシーの中で後藤にされたのと同じように手のひらに円を描いた。私が目を開けたまま舌を出すと、後藤は挑発に乗ってそれを貪った。触って確かめようとする私の左手は振り払われたので、背を向け壁に手をついた。耳の後ろあたりが痺れながらも、トイレタンクの上に置かれたラックに女の影がないか確認している自分にいらついたので、いつのまにか掴まれていた右手首を振りほどき、後藤の左腕を掴み返して爪を立てた。後藤は指も使ってきて私はいった。
柔軟剤の匂いがしないユニクロのTシャツとハーフパンツを借りた。ベランダがない部屋で、代わりに奥の壁には大きな窓があった。その下に横向きで置かれたパイプベッドに腰掛け、ドライヤーで髪を乾かした。後藤は冷蔵庫から取り出した浄水カートリッジ付きのポットでグラスに水を注いでいた。どこにでもある一人暮らし向けの1K、広さはおそらく六畳。中央に置かれたローテーブルには白いノートパソコンが一台、公共料金の明細やシラバス、数冊の漫画、ストローの刺さった紙パックのコーヒー牛乳。水色のカーペットが敷かれた床は、ギターのケーブルや小物類、ネット回線の機器等で散らかっていた。右側の壁にはパルプ製の本棚が並んでいる。ハードカバーの小説や漫画、新書、百円シールの貼られた文庫本、大量のCD……授業で買わされるような参考図書や高校の卒業アルバム、ギターの教則本が混ざっている以外は、四谷の「巣」にあるメタルラックと似たようなラインナップだ。そう思いながら奥から手前に目を移していくと、私の座っている右足の近く、枕元に一番近い本棚が絵本で埋められていた。私はドライヤーのスイッチを切って、人差し指で一冊取り出し、表紙が見えるよう膝の上に乗せて後藤が戻ってくるのを待った。
「これ、児童館で見たことある」そう言うと後藤は「トトロでサツキとメイちゃんが読んでたの、その絵本だって知ってた?」と顔を赤らめながら言った。私が首を振ると
「俺ね、児童文学勉強したかったんだよね。児童文学のゼミがあるところ、日本で二箇所しかなくて。しかも一箇所は女子大。だからどうしても入りたくて一浪までしたんだけど、ちょうど入れ違いで目当ての教授が定年退職しちゃった」
後藤は早口でそう語り、水の入ったグラスを渡してくれた。
「年齢くらい調べときなよ」
受け取ったグラスは飲まずにローテーブルの上に置いた。
「いや、盲点だったんだよなあ。だから自棄(やけ)になって音楽やってるところある」
後藤は枕の近くに座っている私の左隣に座って、また私の脚を見ていた。
「そんなにじろじろ見る人も珍しいよ。大抵は気づいたらすぐ目を反らすね。遠目で観察されることはたまにあるけど」
「……いや、いくら夏だとはいえ、隠すことだってできるわけでしょ。あえてショートパンツはいて隠してないってことは、見られても構わないっていうことだろうと思って」
「にしても凝視するのはどうかな」
「気になって見てしまった以上、目を反らした方が逆に失礼なんじゃないかっていう。ジーンズはいてる女の人の脚なら、しばらく見てたって不自然じゃないでしょ」
「エロい意味で見てるのかと思ったよ。こういうのが好きな人もいるから」
「エロい意味でも見てたよ」
後藤は私がはいているハーフパンツの裾から腿の内側に手を入れようとした。
「スキーで曲がり切れなくてリフトの支柱に激突したんだよね」
後藤はそのシーンを想像したのか手を引っ込めながら、いっ、という口の動きをした。
「両脚とも折れて。ここは固定用の金属プレートを出し入れした痕跡(あと)。これでもかなり薄くなってきたんだけど」
両膝の正面から脛にかけて赤く残っている二つの手術痕を見て、後藤は同じ口の形をしたまま片目をつぶった。そして「……文化系っぽいのに意外だね」と言いながら立ち上がって、蛍光灯の紐を引っ張り、常夜灯だけにした。
「どっち側に寝るのがいいのかな」と後藤は言った。
「普通は女から見て男が右側じゃない?」
「そうなんだけどさ、それって男が右利きだからでしょ。女性が左利きの場合どうなんだろって」
「左利き同士でやったことないから、そんなこと考えもしなかったな。そもそも人の左側が癖になってるし。横並びでご飯食べるときに右側だと腕がぶつかるから」
後藤は結局私の右に寝そべった。私たちはなかなかいけなかった。「腕が当たってやりづらいね」と言いながら覆いかぶさってきたので、私は両手を使った。私のへそのあたりに出した精液を後藤はティッシュでぬぐい、ゴミ箱に捨て、また私に謝った。私は別にどっちでもよかった。後藤が再び横たわると、私は傷跡(きずあと)が出来るまでの経緯を話した。
「それで、考えたくないのにカンパニーのことで頭が一杯になってるのが怖くてさ。家でひたすら缶チューハイ飲みながら、ツタヤで借りてきたギャング映画を観まくってたのね」
「『ゴッド・ファーザー』とか?」
「そうそう、アル・パチーノとロバート・デニーロが出てるやつは山ほど観たよ。有名じゃないのも含めて手当たり次第に観た。自分とは全く違う世界で人が殺し合ってるのってさ、不思議と癒やされるというか」
「わからなくもないような」
「自分と繋がってるものは観られなかったんだよ」
「繋がっていないものなんて一つもない気がするけど」
「そこはさ、なんとなくわかってよ。で、いい加減その二人に飽きてきた頃に、両方が出演してる『ヒート』って映画を観て」
「聞いたことあるかも」
「ギャング映画じゃなくて、アクション寄りのクライムサスペンスだったのね。銃撃戦から車で逃走するシーンとかあるわけ。それで今度はアクションとかカーチェイス系ばっかり観るようになって、そしたら車に乗りたくなって。でも私、免許持ってないからさ。気づいたらバスに乗って軽井沢のスキー場にいた」
「……いや、ちょっと待って。支離滅裂じゃない? 映画は自分と繋がってないから良かったんじゃないの」
「そっち?」
「車からスキーに飛んじゃうのも全然意味がわからないけど」
「なんかね、アイデアなんだよね。今日もさ、私、中野で待ち伏せしたでしょ。思いつきで。同じような感じなんだよ」
「それと自殺未遂は一緒じゃないでしょ」
「死のうとしたというよりさ……車に乗ってスピード出すのって楽しそうだなあ、でも運転したことないし、酒は飲みたいしなあ、ジェットコースターは違うな、自分で制御したいし、でも人に迷惑はかけたくないし。そういえば中学の修学旅行でスキー習ったな、スキー場って酒飲んでてもいいのかな、別に問題ないみたいだな、道具は全部レンタルできる。よし、これだ、っていう。で、あんまり人がいない上級者コースのリフトに乗ってた。スキー場で飲酒が許されてるのって、よく考えたらおかしいよね」
「おかしいのはあなたでしょ」
「それはそうだけど。本には観念奔逸って書いてあったよ、こういうの。英語だとフライト・オブ・アイデア。個人的には英語の方がしっくりくるかな」
「飛び降りもそういうことなのかな」
「死のうと思ってなかったんだって……少なくとも私は。医者には、死んでもおかしくない行為をしたことには間違いないですねえ、って言われたけど。じゃあヒマラヤの未登頂ルートを登ろうとする人たちとどう違うんでしょうか、って言い返したら、一本取られたなあ、っていう顔をしてたね」
「話だけだと呑気に聞こえるんだけどな……」
後藤は傷跡のあたりを手探りして撫でた。
「入院してる間はね、ある意味楽しかったよ。先生たちにとっては大変な患者だっただろうけど。心と身体って、全然別だからね。リハビリは辛かったけど、脚がだんだん回復すると同時に、心も正気を取り戻したって感じかな。病院は生活リズム安定するしね。酒も一切やめたし」
後藤は私の膝を優しく二回叩いてから、充電ケーブルと繋がれた携帯の画面を見て時間を確かめた。
「いつも何時に寝てるの」
「十二時半には」と私は答えた。
「じゃあもう寝よう」
私たちはもう一度ユニットバスに向かった。私はお腹から下を、後藤は下半身を軽くシャワーで流した。ベッドでうつ伏せになっている後藤の肩が規則正しく動いているのを確かめてから、テーブルの上ですっかりぬるくなってしまったグラスの水で薬を飲み、眠りについた。
私たちはそのまま二人で七月最後の三日間を過ごした。四谷に用があると言ったのはほとんど口から出まかせだった。私が助監をやる映画の撮影開始は八月からで、後藤は同じタイミングで長野に行き、過疎の村に長期滞在するということだった。地域振興のためのアートプロジェクトとやらに夏目さん達と一緒に参加して、武者修行をするという。曲を書いたり、廃校になった校舎や老人ホーム、成人式後のお祭り会場で演奏したりすると言っていた。プロのミュージシャンもゲストで来るのだと興奮気味に話した。聞き覚えのないアーティストだった。長野では夏に成人式をする地域が多いということを、私は初めて知った。
一日目、私たちは家でセックスばかりしていた。一度だけ食料を買いに外に出た。太陽は真上にあって、アスファルトに陽炎が立っていた。借りた黒いシャツがじりじりと熱くなり、私は遠くで揺れているコンビニの青い看板を眺めた。
「そっちはダメ。俺の元バイト先。こないだバックレたんだよね」と後藤は言った。「バンドマンらしいね」私が嫌味を言うと「そうじゃなくてさ」と後藤は逆方向に向かいながら、事情を話してくれた。
「時給がよくて近所だから始めたけど、夜勤を牛耳ってるリーダーが最悪で。直営じゃなくてオーナー店舗だからやりたい放題。煙草を盗るのは当たり前。棚卸しも発注も全部そいつが担当してるから、携帯の充電バッテリーとか、微妙に高額なやつ、そういうのもバレないぐらいの頻度で盗って、客に万引きされたっていう扱いにして処理するわけ。廃棄期限が来る前に食いたい弁当を前もってバックヤードに隠す、ってこともやってた。その頭を別のところに使えよ、っていう。あと、オマケが付いてるペットボトルのジュースってあるでしょ。そのオマケを納品される時点で一部抜き取って、開封しちゃってレアものをネットで売るのよ。客は気づかないんだよね」
「防犯カメラがあるでしょ」
「死角があるし、細工もしてた」
「……タチ悪いなあ。店長に言いなよ」
「いや正直さ、金ないでしょ。長野の滞在費も貯めないといけなかったし。廃棄弁当で食費が浮くのは助かった。夜勤って二人体制なんだけど、雑誌の納品とかを片付けちゃえば接客は一人で回せるのね。本当はダメなのに交代で仮眠取らせてくれてすごい楽だったし。漫画も読みたい放題だったし」
「要するに買収されてたんだ」
「……そうだね。履歴書見られてるから俺の住所もバレてるし、報復されそうで。さらに恐ろしいのは店長夫婦に対しての猫の被り方ね。商品の補充とか基本的なことは完璧にやるし、クリスマスケーキとか、おせちとか、イベントのポップ配置を考えたり、っていうのは率先してやるわけ。それで実際に売上が伸びたりするんだよ」
「怖い話だね」
「極め付けはクレジットカードを使った犯罪なんだけど……」
後藤の元バイト先とは別のコンビニで、私たちは食料を買い込んだ。正午過ぎの店内は清潔で白く、そして涼しかった。自動ドアを出ると気温差でこめかみのあたりが痛んだ。コーヒー味のパピコを分け合い、後藤はバイトリーダーの手口について話を続けた。
「やるのは月に二回あるポイントアップデーで、レジ打ちしてるときね。商品のバーコードを読み取って、合計金額を伝えたら袋詰めする。その間に客は現金を出す。ここまでは普通の流れ」
私は吸い口をくわえながら頷いた。子供の頃とは食感が変わっている気がした。
「で、客が出した金額をレジに打ち込みつつ、同時にお釣りの金額は頭で計算しておく。ここが重要。普通は金額を入力したらその流れで現計(げんけい)キーってのを押して釣り銭を渡すんだけど、そうせず暗算した金額をしれっと客に渡しちゃうんだよ」
「……どういうこと?」
「たとえば会計が千円だったとして、客が一万円出したら金額を打つ素振りだけ見せて、会計処理を完了させずに九千円ぱっと渡しちゃうってこと」
「何の意味があるの?」
「代金の千円はそいつがレジからもらっちゃう」
「いやいやバレないわけないでしょ。しかもレジから直接盗る方が早いし」
「じゃなくて、その後そいつのクレジットカードで決済するんだよ」
「えっ……でもそしたら結局そいつの銀行口座から引き落とされるわけでしょ」
「カードのポイント分は丸儲けなんだよ。塵も積もればってやつ」
「うわ……なるほど。そういうことか」
「客がピッタリの金額を出してくれたら暗算が要らなくてラッキー。レシート下さいって言われたときは作戦失敗。事前に両替ボタンを押しておいて現金入れを開けておくのを忘れずに、だってさ。横で見てたけどびっくりするぐらい客は気づかないね。お前も手伝えって言われたけど、さすがにシャレにならないと思って次のポイントアップデーが来る前に逃げた」
「まあ、それは正解だったんじゃないかな」
「売上履歴をよく見れば店長が気づくだろうし、でなくともそのうち本部に見つかるからね。バックレたら何かされるかなとも思ったけど、俺も窃盗までは黙認してて廃棄弁当の件については共犯だし。俺が警察に言ったりしないって向こうはわかってるからね。でも気持ち悪いから秋には引っ越すよ」
アパートに着いた頃にはパピコがほとんど溶けてしまっていた。
二日目、私は例の思いつきで「今後二人が一生しないことをしよう」と提案した。後藤は少し考えて「シンジケートを作ろう」と言った。私がマフィア映画好きだと思ってそう言ったのかもしれない。「何を言っているんだお前は」と私は思ったことをそのまま口に出した。「海は?」と聞いてきたので「水着がないし、泳げない」と私は答えた。「じゃあ、サンリオピューロランドに行こう」閃いたのは後藤だった。一日目に洗っておいたタンクトップを着ると、柔軟剤の匂いが少し薄くなっていた。
その日の太陽も容赦がなかった。アパートの敷地を出ると日焼け止めを貸してくれと言うので、歩道の上で顔に塗ってやった。気をつけする姿勢が可笑しかった。ぎゅっと目をつぶったので、一重のわりに長いまつげがほとんど見えなくなった。塗り始めると指先が少し反ったのも笑えた。私もうなじから肩甲骨近くにかけて塗ってもらった。いやらしい触り方はいくらでもできたのに、後藤は適当にぺたぺたごしごしと塗ってくれた。いまはそんな感じではない、そういうことがお互いわかるようになっていた。駅まで歩く道の途中に教会があって、グレーの修道服を着たシスターが生け垣に水を撒いていた。横顔の綺麗な人だった。長袖でも汗ひとつかいていないのは修行の賜物なのだろうか。後藤の背中に早くも染みが出来ているのを見て、そう思った。
沼袋から新宿へ出て京王線に乗り換え、最寄り駅の多摩センターに向かった。ピューロランドの室内は子供たちで溢れかえっていた。私たちは「えっ、可愛いんですけど」「俺、あのキャラの給食袋持ってたなあ」などと言いながら、着ぐるみを取り巻く人々の群れに小走りで近づいた。人だかりの隙間からキャラクターを覗き込もうとして飛び跳ねる私を、後藤は抱きかかえて持ち上げてくれ、私はキティちゃんに手を振った。有名キャラクターは子供たちに独占されていたので、所在なげにしていたペアのうさぎを見つけて後藤の手を引いた。二人でふかふかした頭を抱きしめた。ステレオタイプな恋人たちに成りすました自分たちの演技について、感想を言い合って笑った。それから混み合ったレストランに入り、キャラクターの形をあしらった青いカレーを二つ注文した。ティファニー・ブルーの食べ物を初めて見た。目や口を模した食材の配置を変え、どちらがより不細工にできるかを競った。勝った後藤はパフェを頼んだけれど、結局ほとんど私が食べた。
レストランを出るとちょうどミュージカルショーが始まる時間だった。シアターはほぼ満員で、上演直前に駆け込んだ私たちは後方の客席に座った。ショーが始まると、私は頭の中で舞台美術と衣装の予算を見積もりした。横顔を見ると後藤は真面目にストーリーを追っているようだった。私が肩に手を置いて「どう?」と聞くと、後藤はしばらく沈黙し、これ以上は小さくできないというくらいか細い声で「……可愛い」と呟いた。笑いを押し殺しながら耳元で「LSDキめながら観たら楽しそうだね」と囁くと、例のごとく目を丸くして驚いてくれたので満足した。それからショーが終わるまで、私は周りに座る親子連れの後頭部を一席ずつ観察しながら「繋がっていないものなんて一つもない」という後藤の言葉を反芻していた。
ピューロランドを出て乗った京王線の車内で「ついでによみうりランドに行こう」と私は提案した。「テーマパークをハシゴするなんて一生しないから。ダメ押しで」と続けると、後藤は「今から行っても絶対回り切れないだろ」と反対した。私が最寄り駅でぱっと降りてしまうと、後藤は呆れた顔でついてきた。私は絶叫系のアトラクションには乗れなくなっていたし、むしろ時間としてはちょうどよかった。後藤は元からその手の類は苦手だと言っていた。私たちは観覧車に乗り、夕陽を眺めてキスをした。花火がないのは残念だと後藤は言った。演技であるとかないとか、そういうことはどうでもよくなっていた。
三日目、私は「町に出て金を手に入れよう」と言った。この二日間で思った以上に散財してしまっていたからだ。「じゃあまず目出し帽を買わないと」私は後藤の言葉を無視して乱れたタオルケットを畳み、ベッドの隅に追いやった。向かい合って正座をし、私は黒いリュックの底からベロアのポーチを出して言った。
「これは緊急用に取っておいたものです」
後藤は神妙そうに頷いた。後藤に見えないようポーチの中を覗き込み、白いリボンをほどいて箱の表面に書かれた文字を慎重に指で隠しながら、黒のリングケースを取り出した。
「わかる人には色でわかります」
「……よんどしい」と後藤は答えた。
私は相手の手札を読むような気持ちで注意深く後藤の顔を見つめていたけれど、本気で言っているのか、わざと間違えているのか判断がつかなかった。人差し指をずらしてBVLGARIの文字を見せても、下唇を噛んだまま鼻からふっと息をついただけだった。おそらく知ったかぶりをしているのだ。
「これは夜のバイトをしていた頃に客からもらった、新品未使用のビーゼロワンです」と私は説明した。
後藤は「新品未使用のビーゼロワン」と復唱した。
ケースを開けて指輪を見せると「そのとき、女子高生だったんだよね」とにやけながら聞いてきた。
「そう。中退してたけど。というか大学生ってことにしてたけど」
「他の女にプレゼントし損なったのを処分に困って流用したんじゃないの」
私も同じ意見だった。
「にしてもコンドームの名前みたいだよね」私の言葉で後藤は噴き出した。私も笑いそうになったけれど
「ちょっと、つば飛ばさないでよ」と制して黒い箱を閉じた。
「これを質屋に持って行きます」
私たちは各駅停車の車内で伊丹十三の話をした。乗客が少ないせいか空調が効きすぎていて寒く、借りたポロシャツのゆるい袖口のせいでなおさら体が冷えた。私は自分の腕をさすりながら後藤に尋ねた。
「ね、伊丹十三が質屋に行く映像って知ってる?」
「知らない」
「映研の溜まり場にビデオがあったから観たんだけどさ。TV番組なんだけど、本人が出演してて。アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンを持ち込んで、三十万借りようとするっていう」
「缶の絵?」
「じゃなくてマリリン・モンローの方。でも、質屋さんは全然知識なくてさ。伊丹十三は必死に絵の価値を説明するわけ。ニセモノでしょって言われたら、ホンモノですよおって言い返して。でもこれ印刷でしょ、って言われたら、そうなんですよお、それがこの作品の凄いところなんですよお、って力説して。それが結果的に作品の解説になるっていう……オチも最高なんだけど言わないでおいてあげるよ」
「へえ。俺、伊丹十三の映画一本も観たことないけど」
「嘘でしょ。私は全部観てるよ」
「あ、でも伊丹十三が翻訳した小説なら知ってる」
「そんなのあるんだ」
「サローヤンの『パパ・ユーアクレージー』ってやつ。児童文学っぽい感じなんだけどさ。文章が変で。人称代名詞を省略しないで訳してるんだよな」
「何それどういうこと」
「うーん。言葉で説明するのは難しいな……さっきの絵の話を聞いたら訳(やく)がおかしいのもうなずけるっていうか……とにかく実験好きな人なんだね。貸してあげるよ。その本と対になってる『ママ・アイラブユー』って作品もあってそっちの方が俺は好き」
「しばらくは撮影とバイトで読む暇なさそうだけどね」
高田馬場のホームから看板が見えた質屋で、ブルガリの指輪は二万円に換わった。
「これ、ビーゼロワンじゃないですね。似てますけど別の種類です……でも本物ですね」と白い手袋をした店主は言った。
一万三千円で質入れにしようとしたけれど「要らない物なら買い取りにしたら」と後藤が言うので従った。
再び各停に乗って沼袋に戻り、女性運転手のタクシーに乗った。ワンメーターもしない距離を走る間、後部座席で手をつないでいた。私の精神障害者手帳を見せ、さっき手に入れたばかりの一万円札で割引料金を払い、アパートに帰るともう一度ユニットバスでセックスした。それは初めての夜と同じようで全く違うものだった。私は右手で後藤の腕に爪を立てた。後藤が体を拭いている間、私は浴槽にへたりこみ、白い茎のような自分の脚と、ヘアピンを伸ばして貼り付けたような両膝の赤い手術痕を見ていた。気づくと後藤は服を着ていて、私にバスタオルを手渡すと便座の蓋にTシャツとハーフパンツを置いた。
「なんで夏目さんと組むことになったの」
私はドライヤーのスイッチを切って尋ねた。
「……去年の夏も例の村に行ったんだけどさ」
隣でベッドに座っていた後藤は左手を私の太ももに置いた。
「毎年やってるんだね」私は後藤の指の骨を、人差し指から順に触って確かめていった。
「そうそう。夏目さんは前に組んでたバンドで音楽班として参加してたの。その頃俺は適当にコピーバンドのギターやってて、夏休みはすることなくて暇で。PAってわかる? 音響担当って言えば聞こえはいいけど、要するに使いっ走りで呼ばれたのね」
「頼まれたら断れなさそうだもんね」
「……で、空き家を借りてみんなで泊まるんだけど、もちろん自炊で。食料は周りの農家から分けてもらったりして」
「ふうん。楽しそう」
「いや、それがさ。まともに料理できるやつがいなくて。俺以外に」
「料理?」
この三日間、私たちはほとんどの食事をコンビニ弁当やスーパーの惣菜で済ませていた。
「……母親が料理研究家なんだよ」
「あっ、そうなんだ」私は後藤の爪を触る手を止めないよう注意した。
「ほうれん草の胡麻和え、ナスの煮浸し、ピーマンの肉詰め、玉ねぎとコンビーフのポテトサラダ、しらす入りだし巻き卵、梅とわかめの炊き込みごはん、干し海老と人参とごぼうのかき揚げ……」
「美味しそう」
「美味いよ。だからその年は音響係兼炊事当番をしただけで終わっちゃった。それで今年のゴールデンウィークが終わったぐらいだったかな? バンドがなくなった夏目さんに『料理が上手いやつはいいギター弾けるようになる』って言われて」
「そうだったんだ。作ってくれても良かったのに」
「あー、なんか嫌なんだよ。胃袋を掴むってやつ? 料理は小さい頃から母親に仕込まれて、努力しないでいつのまにかできるようになったことだから。そこを評価されても嬉しくないというか」
「夏目さんの胃袋は掴んでるのに」
「それは狙ってやったことじゃないし。話が別でしょ。これからギターで評価されればいいと思ってるし」
「……そうか」
私は後藤の指先が三日前よりも柔らかくなっているのを確かめてから、こう続けた。
「お前が映画を完成させないと俺は二十七で死ぬ」
「は?」
「夏目さんが真部さんにそう言ったの、知ってる?」
「……何それ」
「ドキュメンタリー、やっぱり見せてもらってないんだ」
「いや、前から真部さんに撮影してもらってることは知ってるけど。ネットにライブの動画を上げるためだって聞いてた」
「私が新入生だったときに上映してたんだよ。作りかけだったけど」
「知らない」
「じゃあお前はそれまでに音楽でプロになれよ」
私は自分の膝を見た。
「って真部さんは返してた。夏目さんはエロ雑誌に包丁突き立ててたよ」
「二人がやりそうなことだなあ」
「どう取るかは観てる側におまかせしますって感じで」
「もしかして夏目さん、俺がニルヴァーナのコピーバンドやってたから誘ってくれたのかな」
「さあ」
私が呟くと、後藤は鼻歌を歌いながらトイレに立った。
話にならない。私は後藤と初めて会話を交わしたときと同じように歯ぎしりをした。
冷蔵庫を開けて浄水ポットからグラスに水を注ぎ、テーブルの上に置いて後藤が戻ってくるのを待った。二人でベッドに横になり、後藤が長野の村について話すのを私は黙って聞いていた。学童保育を手伝って子供たちと川遊びをするのが、実は一番楽しみだと言った。それから唇をきつく結んでいる私を訝しんで、後藤の言葉が途切れた。私は後藤の頬を両手で包み、首を少し傾けて顔を引き寄せるような素ぶりをしながら、舌を出した。後藤はいつもと同じように目を丸くして驚いた。私は笑えなかった。もちろん後藤はキスしてくれなかった。目の前にある唇の柔らかさを思い出すと、舌と喉の奥が灼けるように渇いて、自分の馬鹿な思いつきに涙がこぼれた。レイプ目的で濫用されないように青い着色料が入っている一錠の睡眠薬を、私はガリガリと噛み砕いて口の中に広げておいたのだった。
(第三回へ続く)
作:森田 七生 もりた ななお
twitter @wallflower7O
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