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『なぜ我々は新学期が怖いのか』の巻

 どうも、不健康先生です。9月1日ですね。要は今日から2学期ってことです。夏休み中に終わらなかった借金も含め、すべきことは沢山。忙しいのは教員に限らずどんな職業でも立場でも一緒、頑張れ俺。死ぬな君。

 そして私の場合は大抵の原因が自分にある。どうにかしたいと始めた『note』つらつらと考えたことを記していきます。以下にざっとした結論まとめと残しておきます。興味あるけど長文はちょっと…な方はこちらをどうぞ。

▷不健康先生は新学期が怖い。なぜだろうと考えてみる。
▷「~べき」という画一的な考えに囲まれるのが怖いのかもしれない。
▷多数派の「~べき」とは距離を置く生徒に寄り添いたくて、教員になったのかもしれない。
▷様々な考えの中で「ゆるい共存」は出来ないかしら?
▷新学期、とりあえずゆるゆると生きる。(しか術はない)
▷では、また。

 以上のベタな結論に至るまでの、思考の流れにもご興味ある方、良ければ以下もどうぞ。

① 新学期が始まるぞ。

 新学期、正直怖いです。職場でそんなことを言っていると

 「生徒みたいだな(笑)」

 と鼻で笑われて終わりです。と、分かっているのにどうしても口に出てしまう。そのツッコミを「確かにな」と思ってしまう私も良くないで。その例えがツッコミとして外していない、しっくりくる現状をどうにかしたいのです。そのツッコミをスベらせたい。しかし、具体的な手立ては思いつきません。


② 新学期で人が死ぬのは悲しくて辛い。

 4月や9月に自殺率が高くなるというニュースや、それに対する見解はネット上に溢れています。それにコロナ禍も相まって更に…というのも悲しい。学校等の教育機関に限らないですが、人の命を奪うのであればその存在意義も考えてしまう。「なら辞めれば」と生徒や同僚に言う人もいる。言わなくとも考えてしまう。しかし、その集団から抜ける、辞めるのにもパワーがいるのです。(以下の本はおすすめです。)


  Eテレの『#8月31日の夜に』という番組をご存じでしょうか。生きることや友人・学校に対する様々な感情を番組を通して共有していく取り組みです。コメンテーターの方々がやいのやいの対応策を挙げていくのでなく、視聴者の今・感情に寄り添う姿勢が素敵です。これに救われている人もいるはず。9月7日の午後10時45分まで見逃し配信をしているそうです。良かったらどうぞ。



③ で結局、「なぜ我々は新学期が怖いのか?」 

 たぶん、教育現場に流れる空気に囲まれるが怖いのだと思います。

 「いや、めちゃくちゃ抽象的だな!」と自分でも思います。それに私の職場だけかもしれませんし、私だけが感じていることだと思います。超個人的な記事ですみません。

 「夏休みが長くていいじゃん」「だから教員は」「教員が学校怖いなら生徒を…」というツッコミもあるでしょう。分かります。一般企業では学期制なんてある訳ないですし。保護者目線で考えると、精神的に安定した大人に子供を任せたいはず。しかし、しょうがないじゃない。怖いんだもの。

 「子どもが子どもを教えている」という辛辣なお言葉を頂いたこともあります。反省します。

 それらにここで反論しても仕方ないのですが、本当に辛いのが画一的なイメージです。そりゃ健康であるのに越したことはないですし、健康になりたいですよアタシだって。

 「夏休みは夏休み、2学期が始まる。切り替え切り替え!」

の様なパワフルにエネルギッシュな人が正解=正義=健康という流れです。私もそれが常識という体で、話をしたり文章を作ってしまいます。それも嫌なんです。

 正論以外許さない空気。多様性を求めながら「べき論」を語る。その多様性の中に「画一的にものを考えよう!」があっても良いという言葉遊び。「多様性とはこうあるべき!」という矛盾。

 「絶対」を疑っちゃ、自分で考えちゃだめですか?

 学校教育の性質上「世間の当たり前に耐えうる公民を育てる」のは目標であるのに違いありません。日本人は集団で働く方が効率が良い、生につながる農耕を背景にした歴史・DNAを継承しているのですから、勤勉や集団を重んじる性質を尊ぶのでしょう。でも、その「当たり前」を疑ったり、アップデートしたい人の気持ちも尊びませんか?

 とかぐるぐる考えていると、正直、疲れやす(笑)

 あくまで「そんな風に感じる」というだけなので、何の科学的根拠もない主観という私の嫌いな考えでございます。すみません。

 私の生き方・働き方について書くと、ずっと思考停止して働き詰めた方が良いのか、たまには休んで色々考えてみる方がいいのか未だに答えが出ません。

 前者の方が不健康にも思えますが、余計なことを考える暇もない=悩んでいる時間も少ないはずです。夜寝ちゃうし。それが続くと「休みたい」「自分の時間が欲しい」となります。しかし、いざそれが始まると思考する時間が与えられ「うーん、あれって…」と悩み始めて動きが遅くなる。

 「行ったり来たり悩み続けながらもゆっくり歩くのが俺!」というアイデンティティを確立出来たら良いのですが、心身ともに疲れるのです。うーん、頑張ります。

 「学校が嫌いな先生がいてもいいじゃない」と承認して欲しいかと言うと、しっくり来ない。しっくり来る言葉を求めてこの記事を書き始めたのですが、まだまだ浅いのでしょう諸々。わがままなのでしょうか、私は。

 分かりません。

④ 新学期を恐れる教員として

 「心身ともに疲れちゃうおじさん教員として、新学期を恐れる教員として出来ることは何だろう。」とまた考えてみるのです。

 「学校苦手だな」「体育祭とか苦手だな」「修学旅行行きたくないな」という生徒に「分かるよ。」と言う為に教員になった節があります。それでもどうにか生きてこうぜ。と。もちろん生徒の不平不満を増長させたり、私のそれとで革命を起こそうとかそういうことではありません。

 かと言って、「学校大好き」「学園祭最高!」という生徒や教師が悪という訳ではありません。その全てを「みんなちがってみんな良い」的なノリで肯定したいのです。分かり合えないかもしれない。親友にはなれないかもしれないけど、ゆるく共存していこうぜ。と。

 ポジティブがハッピーなわけでも、ネガティブがアンハッピーな訳でもないはず。逆も然り。そんなことを思うのです。


⑤ 最後に

 最後に…と改まることもないですが、タイトルについて。「我々」としましたが、近くにそんな人がいる訳ではありません。新学期が怖い理由も様々でOKで、怖くなくてもOKなのです。個人的には。

  だらだら長くなってしまいました。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。だらだらせず、ゆるゆる生きていけたらと思います。どう違うんだって話ですが

 とりあえず、記事書いた。書けた。生きてる。OK。では、また。

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