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文字から滲む思いに浸る

昔から文章を書くのが好きだった。学生時代は勉強の合間に自作の小説を書いていたし、何かあるごとに詩を書いていた。それは特に何かを目指していたわけでも、読み手を意識しているわけでもなかった。ただ書くのが楽しくて、自分の中から溢れてくる感情を昇華させていた。

そんな中、小学校高学年になると交換ノートが流行り、中学生になると手紙が流行った。これらは自分ひとりで書いているものとは違い、相手ありきで文章を書くものだ。どちらかと言うと会話に近いかもしれない。

友人とノートや手紙を交換する行為は楽しかったが、相手に対して文章を書くことは楽しいと思えなかった。私は自分が見ている世界や感じている感情を表現する手段としての文章が好きなのであって、相手からの相談や気持ちを汲み取って、相手に配慮しながら書くことは苦手だったからだ。正直あの頃の私は、返事を書くことを友達付き合いの一環として考えていた。


先日大体的に部屋の模様替えをした。棚や引き出しの中のものも全て掘り起こして、まるで断捨離のような片付けも行った。そこで私は大量の手紙と対面することになったのだ。

中学校時代に友人に貰った手紙は、しっかりとした便箋に書かれたものから、小さいメモに書かれたものまでほぼ全てを保管していた。友人が書いてくれた手紙を捨てるのが忍びなかったからだ。大きなクッキー缶に入った手紙たちは、つい先ほど書かれたかのような顔をしてそこにあった。

――ここで手紙読み始めると掃除が進まないんだよな。

自分の掃除のクセを憂いながらも、その手はすでに手紙を封から出していた。


手紙の内容はさまざま。誰が誰を好き、片思い中の彼はクラスの人気者の彼女が好きみたい、もう彼を好きでいるの諦めようかな、というような恋愛話。あの子はわがまま過ぎて一緒にいたくない、なんであの時あんなこと言われたんだろう、部活でこんな人間関係の問題がある、などの悪口話。

当時の自分はこんな話題の中を生きていたのか、と面白いものばかりだ。そして、どの手紙も毎回5枚程度に渡って書かれていて、きっと私が渡した手紙も同じような枚数だったのだろう。ほぼ毎日のようにこの分量の手紙を書いていたのはすごいな、と物書き目線になっている自分もいた。

手あたり次第読み進めていると、こうした日常的な手紙とは異なった種類の手紙を見つけた。部活の先輩からの手紙だ。その内容に私はかなり感動した。


私は中学3年の時に軽いいじめにあった。同じ部活の同級生からの無視に始まり、同じ学年の友人たちにそれが広まった。無視を始めた友人たちが仲裁役のカウンセラーに話したのは「先輩にも後輩にも人気でずるいと思った」というものだった。若者ではよくある話で、今となれば、結局のところ私が弱かっただけな気もする。

しかし、これまで仲良くしていた友達がある日を境に突然口を聞いてくれなくなったり、目が合わなくなったりすることは、当時の私にとってかなりつらいことだった。人間の裏側をまざまざと見せつけられた気さえした。

最終的に私は大好きだった部活を辞めた。部活では副部長の役職を引き受けていたが、それも手放してしまった。その際に、同じ部活の先輩が手紙をくれたのだ。

先輩はすでに高校に進学していて、風の噂で私の状況を知ったらしい。一緒に活動していた時は、無口で少し暗めの先輩を頼りなく感じる場面が多かった。そのため、手紙を部活の顧問まで渡しに来てくれたという話を聞いた時に、耳を疑った記憶があった。当時の私はもちろん先輩の気持ちをとてもありがたく感じたのだが、この歳になって改めて手紙を読んでみると、そこには先輩のものとは思えないような力強い文章が並んでいた。


そのなかで、今の私に特に響いた文章がある。

「部活を続けることを選んでも、辞めることを選んでも、どちらもかなり苦しい選択だと思う。だから、たくさん悩んで後悔のない選択をしてね。そして選択した後は、明るくて前向きな自分を取り戻そう。胸を張って自分を誇れるような毎日を送ろう。あなたはそれが出来る強さを持っている人だと、私は知っているよ。そんな人だから、みんなあなたを好きなんだよ。」

これを読んで、なぜか泣きそうになった。長年に渡り、私は弱いのだと思ってきた。そんな自分自身の考えを先輩の言葉が打ち砕いて、大きく背中を押してくれている感覚がした。そろそろ29歳になろうかという私が、高校生の言葉で救われた気がしたのだ。私は弱かったわけじゃない。あれが当時の私の精一杯で、最良の選択だった。

先輩は確かに無口だった。頼りなかった。そう思っていたはずなのに。先輩が書いた文章からは、人のことをよく見て、その人の状況や気持ちをしっかり汲み取って、優しく力強い言葉を送る、しなやかな彼女の本質が伝わってきた。


冒頭で私は手紙を書くのが好きではないと言った。それは事実だ。しかし、数年越しに読んだ手紙に救われる経験をして思うことは、やはり手紙の力は大きいということだ。心から相手を想って書いた手紙は時を越えて人を励まし得る。それはきっとメールやチャットでは出来ないことだろう。

先輩は今頃何をしているのだろう。不器用な人だから、何か困っていることがあるかもしれない。今度は私が先輩に手紙を書きたい。どういう言葉を渡したら先輩が喜ぶかは分からない。しかし、それをじっくり考えるのが趣深いことだと、今の私は知っている。

ファンシーな便箋に綴られた文字から滲む思いは、これからも私の人生の節目を救ってくれるに違いない。そんな手紙を私も誰かに書いてあげられる日が来るといい。ひとりよがりな文章ではなくて、「あなた」だけに宛てた、そんな文章を。

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